魏晋南北朝時代(読み)ギシンナンボクチョウジダイ(その他表記)Wèi Jìn nán běi cháo shí dài

デジタル大辞泉 「魏晋南北朝時代」の意味・読み・例文・類語

ぎしんなんぼくちょう‐じだい〔ギシンナンボクテウ‐〕【魏晋南北朝時代】

中国で、後漢が滅亡し、三国が分立した220年ごろから、全土を統一した589年に至る約370年間の時代。江南に興った南朝四国東晋を合わせて六朝りくちょうという。

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改訂新版 世界大百科事典 「魏晋南北朝時代」の意味・わかりやすい解説

魏晋南北朝時代 (ぎしんなんぼくちょうじだい)
Wèi Jìn nán běi cháo shí dài

220年漢帝国が滅亡してから589年隋によって中国が再び統一されるまでの時代。建康(南京)に首都を置いた呉・東晋・宋・斉・梁・陳の江南6王朝を六朝というが,六朝の語でこの時代を総称する場合もある。この時代の特徴は政治権力の多元化にあり,短命な王朝が各地に興亡して複雑な政局を織りなし,はなはだしい場合には十指に余る政権が併立した。しかしそれは400年に及ぶ秦・漢統一帝国の秩序原理に代わる新たな原理を模索した結果であり,決して単なる混乱と野蛮の時代ではなかった。政権の多元化現象の背景には,各地の地域社会を豪族勢力が把握したこと,非漢族勢力の自立運動が活発化したことの二大要因がある。これらはいずれも漢帝国の胎内を破って出現した新しい時代の要因であり,新しい価値観の基礎であった。激動にみちた試行錯誤のすえ,この時代の諸価値は隋・唐帝国において集大成された。またこの時代,中国周辺において展開する日本,朝鮮等の国家統一運動も,非漢族の自立傾向の一環である。

2世紀後半,宦官と士大夫集団との抗争は,前者の勝利におわった(党錮の禁)。それは帝国がもはや公権力たりえなくなっていることを意味した。一方,豪族層を基盤として形成されてきた全国の士大夫階級は政界から排除され,処士・逸民として地方社会に沈潜を余儀なくされた。時局は出口のない行きづまりに陥ったが,184年の黄巾の乱がこの閉塞状態を打ち破った。黄巾は正面から漢の正当性を否定し,新時代の到来を予言した。宦官政府は党錮を解除して士大夫層と妥協し,一方軍隊を増強して反乱に備えたが,それはかえって士大夫層と軍閥の活動を促すことになり,漢帝国を崩壊にみちびいた。黄巾の乱を契機に拡大する内乱鎮定のため,後漢政府は全国各州の州牧に士大夫出身の名士を任命した。しかしやがて州牧の地位は軍閥勢力に奪われる。このような経過によって,の三国政権が生まれた。

 曹操の子曹丕(そうひ)が漢帝の禅譲を受けて魏王朝を建てると(文帝),呉・蜀もそれぞれ帝国を称し,ここに漢帝国は完全に崩壊した。三国諸政権はいずれも軍閥的色彩の濃い国家であったが,漢帝国から離脱したもう一つの要素である士大夫層が漸次これに参加した。漢・魏交替の直前にはじめられた九品官人(中正)法は,士大夫階級の政権参加方式を決定した。すなわちそれぞれの出身地域の世論(郷論)にもとづいて任官資格を認定した。ここに君主の手足であるべき官僚制が豪族層の手中に握られることになり,一方豪族層も官僚貴族に昇華して,国家は貴族制国家の性格を強くもつ。蜀を併呑した魏は権臣司馬氏一族に奪われて西王朝が成立し,西晋は呉を平定して中国を統一した。西晋時代は貴族制国家が一応完成した時期であったが,その安定も長くは続かなかった。外戚同士の権勢争いに端を発する八王の乱が国家を再び混乱におとしいれ,それはさらに五胡(匈奴,羯(けつ),鮮卑,氐(てい),羌(きよう))の自立運動をさそいこんだ。南匈奴の酋長劉淵が漢(前趙)を建設し,さらに西晋の首都洛陽を占拠した(永嘉の乱)。この事件は西晋滅亡の契機となったばかりでなく,華北における五胡十六国時代の開始を告げるものであった。

 漢帝国が周辺諸民族を征服包摂して築き上げた世界帝国はここに反転して,非漢族による中国支配の国々と化した。華北における胡族国家の建設は,中国全体のはげしい人口移動をもたらした。後漢以来普及してきた塢(う)の結成は,この時期にますます普及した。中原の士民は群をなして四辺に移動し,有力な政治勢力の庇護を受けたが,とくに江南に再建された司馬氏政権(東晋)の下には,波状的な集団移住が行われた。長江(揚子江)流域は土着民社会に立ち交じって僑民の集落が出身地域ごとに営まれた。東晋政権はそれらを本籍地の州・郡・県に組織したが(僑州・郡・県),長いあいだには北来の僑民も,風土のまったく異なる江南社会に同化してゆき,それはまた江南社会自体の開発をうながした。華北にとどまった漢人は胡族政権との接触を余儀なくされ,ここにも胡・漢両社会の融化の契機が生まれた。地域と民族の多様性が顕在化し,それが融合に向かうところに,この時代の特色があった。

 しかし東晋王朝の本質は,北来の亡命政権であった。晋の宗室司馬睿(えい)(元帝)を中心に,琅邪郡の王氏,陳郡の謝氏など北来の名族によって輔佐された東晋は,いわば貴族制国家西晋の江南版であった。江南土着豪族は北方文化への憧憬から東晋に協力したが,北来貴族からは寒門視された。東晋にとって北方奪回が国是であり,前線には精強な軍隊を配置した。建康北面に置かれた京口軍団もその一つであり,淝水の戦で前秦苻堅の大軍を破って以来その声価が上がった。その将校であった劉裕は孫恩の反乱を破り,桓玄の革命を挫折させ,一時北伐にも成功して,420年東晋を奪い朝を建てた。華北では439年に北が華北を平定したので,中国は胡・漢が南北に対立する形勢となり,以後を南北朝時代という。

 南北朝時代には魏・晋期の流動性がいくらか減って社会の固定化がみられると同時に,中国再統一への新たな要因が顕在化した。その一つは軍が貴族制の枠をこえて自立してゆく傾向である。胡族軍を中核とする北魏では,軍の優越性は本来種族主義によって保証されていたが,南朝では,寒門視された豪族・武人が軍の自立化を支え,門閥貴族の伝統的支配に抗した。宋の成立はその第一歩であった。しかし宋朝も門閥貴族の支持なしにはその正当性を保ちえなかったから,両者の融合が深まってしだいに貴族制国家の性格を強めた。いわゆる元嘉の治は,宋朝の成熟したすがたを示している。最盛期が過ぎると,しばしば暴君が現れて,政治の公正さが失われた。これにとって代わったのが(南斉)であり,南斉も宋とよく似た政治過程を経て,に滅ぼされた。南斉と梁の建設者蕭道成(高帝)および蕭衍(しようえん)(武帝)の出身した蕭氏は寒門士族であり,蕭道成も蕭衍も北魏との国境地帯(江北・淮南(わいなん))に配置された軍司令官であった。現地にはかつて華北から避難してきた人々が居住しており,それを指導する土着豪族たちは中央の門閥貴族から寒門視された。蕭道成と蕭衍はいずれも彼らの不満をよりどころとして兵を挙げた。

 南朝に入って,寒門豪族とともに台頭してきたのが寒人勢力である。本来庶民出身の彼らは,皇帝の側近として護衛・使役に任じ,皇帝の寵幸を得て昇進し権勢を振るった。これも貴族制支配をつき破る一因となった。蕭衍は508年(天監7)新しい官僚体系を制定した(天監の改革)。その基本はいぜん貴族制にあったが,そこには寒門・寒人階級が明確に取りこまれた。貴族制を現状に合わせた蕭衍の時代は,南朝全期を通ずる最盛期であった。しかし半世紀になんなんとするその治世の末年には政治が弛緩し,それに乗じて侯景の乱が起こった。この内乱は頂点に登りつめた貴族階級に決定的な打撃を与えるとともに,南朝史の発展を大きく阻止した。梁の版図のうち長江中上流地方は西魏に占領され,貴族の多くが北方に拉致(らち)された。占領地には傀儡(かいらい)政権として後が建てられた。建康を中心とする長江下流地方には嶺南方面の鎮撫に派遣されていた軍人陳覇先が朝を建てた。陳の領域は梁の半分にも満たなかった。

 ここで華北(北朝)に眼を転ずると,北魏は五胡諸国家の一つとして登場しながら,拓跋珪(道武帝)の断行した部落解散によって他の国家より一歩進んだ体制を作った。これによって皇帝は部族制度に制約されることなく国政を指導することができた。拓跋珪が後燕を滅ぼし,拓跋燾(たくばつとう)(太武帝)のとき西,北,北を平定して,ついに華北の王者となった。以後南朝との対決が日程に上り,拓跋弘(献文帝)時代には宋の内乱に乗じて山東・河南方面に進出した。つぎの拓跋宏孝文帝)が洛陽遷都を断行するに及んで,南北間の緊張は高まった。全中国の支配者たることを目ざす拓跋宏は,国家そのものを胡族中心のそれから,胡・漢の別を越えた普遍国家に改変しようとした。そのための原理として採用されたのが,漢族社会に発達した貴族制であった。五胡諸国家は華北にとどまった貴族(豪族)階級を尊重して国政に協力させたが,北族中心政策は変更することがなかった。北魏もはじめその点は同様であったが,拓跋宏の改革はこの限界を破った。この改革で地位の低下した胡族の民衆のなかに不満が鬱積し,524年六鎮の乱に結果した。この反乱を契機に北魏は東西に分裂した。

 六鎮出身者である高歓と宇文泰がそれぞれ北魏の宗室を天子に推戴して,東魏西魏の両魏政権を樹立した。東西両魏はやがてそれぞれの実力者によって奪され,北・北両政権に脱皮した。東魏-北斉,西魏-北周とは激しい交戦をくりかえした。前者は豊かな兵力と物資に恵まれたが,後者はよくこれをもちこたえ,北周宇文邕(うぶんよう)(武帝)のときついに華北制覇の栄冠をかちえた。西魏-北周の勝因は,復古的理念のもとに門閥貴族制の台頭を抑え,胡・漢の質実な力を結集しえたことにあった。宇文邕のとき中国はほとんど統一の前夜にあったが,宇文邕はやがて病死し,やがて外戚楊堅が北周を奪ってを建てた(文帝)。隋は陳朝平定作戦を推し進め,589年陳の首都建康を占領して中国再統一を実現した。つぎの楊広(煬帝(ようだい))のとき隋は内乱で滅んだが,そのあと唐朝約300年の統一時代を迎えるのは,事態がすでに統一の趨勢へ向かっていたことを示している。

魏晋南北朝時代の基調をなすものは,貴族制であった。社会は貴族階級と庶民階級とに大別され,両者のあいだには天地の隔たりがあるとされた。貴族制が発達すると,貴族階級じたいにも多くの階層が形づくられ,上層は下層を寒門視した。貴族階級は望族,著姓,門望,大族などさまざまの表現でよばれたが,全体として政治・経済・文化など万般の領域における指導階級でありエリート階級であった。貴族階級の指導体制は漢代社会の内部から徐々に成長してきたものであった。戦国以来宗法制の崩壊に伴って豪族層の発生をみたが,前漢時代官学となった儒学が社会に浸透してゆくと,豪族層も指導階級として洗練され,後漢時代には新しい士大夫階級として国政をになうまでに成長した。しかし党錮の壁にさえぎられて,彼らの原点である地方社会に立ち返らねばならなかった。

 当時郷里制社会は解体過程をたどり,貧富の差は日ましに増大しつつあった。豪族層は一面大土地所有者として奴婢を蓄え,没落農民の佃客(小作人)を擁したが,他方ではつのりくる社会不安のなかで一族や郷民とともに地域社会の秩序維持に努めた。豪族勢力は無力で私権化した漢の行政機構に代わって民衆生活を保証するものとなり,ここに豪族と民衆とのあいだに指導と被指導のきずなが形づくられた。民衆は豪族の指導性に期待(望)を抱き,豪族は民衆の期待にこたえて地域社会の中心となることに努めた。双方の関係は行政的には私的関係でありながら,機能としては公的性質を帯びるものであった。指導者的人物の属する家を中心に,その一族が結束し,また地域の郷民層がこれに依存した。一族間には相互扶助活動が行われ,富家は家産や俸禄などを貧家に散施し,身寄りのない子女を養育した。天災・飢饉に当たっては,自家の貯穀を放出して郷民に対する賑恤(しんじゆつ)を行った。このようなとき穀物の貸借文書(契券)を焼きすてて債権を放棄することが美談とされた。灌漑・干拓などの事業も豪族の指導によることが多かった。埋没した著名な水利施設を再興するときは,豪族層の古典の知識が役立った。郷民の争いを調停し,郷里の子弟に教育を授けることも,彼らの役割であった。後漢末の混濁した政界から離れていった豪族層の中には,処士・逸民として無欲に生きることを志す人士があり,その人格は郷民に対する精神的影響力となった。

 豪族層における家庭生活は,一面私生活であると同時に,社会に対して開かれたものであった。その日常的経済生活は倹約をたっとび,余財はすべて施与に充てるのが美徳とされた。こうした生活態度は〈公〉と呼ばれ,財産や奢侈に執着するのは〈私〉とされた。家族生活における最も重要な徳目は孝であり,悌すなわち兄弟間の和睦も,家族・一族の結束のために重んぜられ,累世同居の大家族は世の賞賛を得た。家族生活を律するためにそれぞれ家礼が定められ,名族の家礼は他家の手本とされた。家礼は儒家の礼典の実践されたすがたであった。

 豪族を指導的中心とする一族・郷党の結合は,戦乱時にも大きな力を発揮した。戦禍の激しい地方では郷里を捨てて他所へ移住し,人里離れた場所に新しい集落を営んだ。これは〈(そん)〉という名称で呼ばれ,また山中に〈(う)〉を設けることも普及した。移動中の集団は〈行〉と呼ばれたが,〈村〉〈塢〉〈行〉の指導者にはかねて人望のある豪族が成員から推戴された。豪族の指導するこれらの集団には,よるべない流民たちも帰付して,漢代の郷里制社会とは異なる社会関係が生まれた。漢代のそれは父老-子弟の世代の原理によって運営されていたが,豪族体制の社会は,特定の人格に対する成員の依存によって成り立っていた。

 社会の目的は豪族であれ民衆であれそこに属する人々の共存にあった。しかしそれが特定の人格を不可欠の中心とするところに,身分制の生まれる余地があった。不安定の時代に生きる民衆の指導者たるべき人格は,人並みはずれた知性と徳性の持主でなければならなかった。豪族層が儒学や老荘学などのほか天文・暦法・本草・風水・易などの実学的な知識に通じていたのも,上のことと無関係ではない。自然の摂理を認識し,それに従って人間生活を律してゆこうとする彼らの知と徳は超俗的な力であり,一種の道術とみなされることもあった。彼らが地域民衆の上に君臨する根拠は封建領主の領主権にあるのでなく,社会管理者としての人格にあった。彼らと民衆とのこうした結びつきは行政的世界の外側にあったが,それは漢代以来の官僚制支配の変形したものでもあった。

 魏晋南北朝の政治権力は,民衆を把握するために,豪族層を官界に吸収した。九品官人法は,豪族と郷民との人格主義的関係を条件として,豪族に任官資格を与えた。その他辟召の制度があり,中央から派遣された州・郡・県の長官たちは,彼らを管轄下の属僚に招聘することによって,地方政治の円滑化をはかった。彼らの力をいっそう必要とするときには,漢代以来の本籍地回避の原則を破って,現地の豪族を地方長官に任用した。豪族層は中央・地方の要職を占め,政治権力は彼らの手中に入った。その社会的地位と政治権力とが結びついて,ここに門閥貴族階級が成立した。官職は皇帝の恩恵によるものでなく,彼らが本来備えている社会的権威の必然的な結果であるというのが当時の通念であった。その時々の政権に対して,彼らはむしろ超越的立場にあった。政権は彼らの権威を左右することができず,むしろそれを借りようと努めた。王朝交替時における禅譲の儀式は,門閥貴族階級が新政権を承認するための手続きを意味した。

 王朝権力と門閥貴族階級との以上のような関係は,とくに南朝において顕著に見られる。しかし門閥貴族の王朝権力に対する超越性は,その弱点でもあった。政務に超然たることを誇りとする彼らは,朝隠すなわち朝廷にあって隠逸的態度を貫く人物を理想とした。彼らはしだいに政治の実務から遠ざかることになり,この空隙を寒門・寒人層がみたして皇帝を助けた。また政治的地位が家格によって自動的に決定されるようになると,学問・修養の必要がなくなり,門閥貴族階級の知性と徳性の低下を招いた。それは指導階級として資格の喪失を意味する。梁末における貴族階級の退廃にははなはだしいものがあったが,北魏末の漢人貴族もまた似た状況にあった。これに一撃を加えたのが六鎮の乱であり侯景の乱であった。この二つの内乱によって南北の門閥貴族制は決定的な打撃を受け,貴族制そのものの改正問題が日程に上ってきた。新しい貴族制の模索は,とくに西魏・北周・隋・唐の関中政権によって推し進められた。それは家格を前提とせず各個人の指導者的人格を重視するものであり,その精神は隋に創設された科挙制に具現された。

戦国から秦・漢にかけて上向線をたどってきた貨幣経済は,この時代には衰退傾向にあった。歴代王朝は漢の幣制を踏襲して四銖銭・五銖銭などを鋳造したが,民間では穀帛(こくはく)が交換手段になることが珍しくなかった。人と人,人と物の直接的関係が,経済面をも支配した。郷里制社会の解体に伴って大土地所有が発達し,一方に奴婢・佃客が生み出された。この双方が結びついて豪族の荘園経営が行われた。当時の大土地経営は,商品生産を主目的とするものでなく,全体として自給生産のためのものであった。そこに生産されるものは穀物,野菜はいうまでもなく,果実,家畜,池魚,竹木と多岐にわたった。荘園の語から連想されるように,大土地所有は一面で観賞用庭園でもあり,豪族層がその超俗の精神を遊ばせる空間でもあった。魏晋南北朝は身分制の発達した時代であり,とくに奴婢よりも上級の各種の賤民身分が発生した。それらは衣食客部曲などさまざまな名称で呼ばれ,公府や私人に属して軍役,雑役,手工業,農業等の労働に従事した。大土地経営内の佃客も,自立性を失って主家に依付する人々で,賤民視される者が多かった。彼らはまた有事の際には奴婢とともに主家直属の私兵となった。

 しかし当時の社会全体からすれば,土地経営者の圧倒的多数は,少額の土地を家族労働で耕す自作農民であった。彼らは身分的には良民であり,国家の戸籍に編付されて編戸と呼ばれた。しかしその生活は不安定で,つねに重税,天災,戦乱などの危機にさらされ,奴婢・佃客等への転落のおそれを秘めていた。国家行政による農民保護の力が弱まると,彼らは豪族に帰付し,豪族を指導的中心とする郷村のなかで生存を保った。豪族の大土地所有は農民の土地を侵奪する傾きがあったが,自作農民との共存の必要から,豪族層は自己の土地所有欲に抑制を加えることをモラルと考えた。既存の大土地所有が生みだす収穫物は凶年の賑恤のために備えられたから,豪族の大土地所有と自作農民の小土地所有とは排他的関係にありながら,また互いに補いあうものであった。このような大小の土地所有者間の緊張と共存とによって当時の郷村は成り立っていた。均質な自作農民のみで全社会を構成することが中国古来の理想ではあるけれども,貧富の差と大土地所有の存在という歴史的事実はもはや否定すべくもなかった。といって大土地所有が社会のすべてを蔽うこともできなかった。大土地所有と小土地所有との,矛盾をはらんだ共存が当時の実態であった。魏晋南北朝の時代的位置を生産様式の上から規定づけるとき,古代説と中世説の両説が生まれるのも,こうした実態の複雑さによる。

 歴代王朝の土地政策もこの歴史的現実に対応して,(1)大土地所有を承認しつつその拡大を制限し,(2)自作農民のために土地を保証するという二つの原則の上に立っていた。大土地所有をただ一方的に抑止する限田政策は,奴婢の制限策とともに,すでに前漢末~王莽(おうもう)の時代に失敗におわっていた。三国の屯田策は農業生産の極度の荒廃状態の下で食糧を確保するための権宜の措置であったが,可耕地を拡大したことによって自作農創設の条件を作った。西晋の課田制はこの条件の下に建てられて(2)の原則に近づき,占田制によって(1)の原則を充たした。還受の法を媒介として(1)と(2)を一つの体系に編成したのが北魏以後の均田制である。北魏は建国当初から被征服民に対して計口受田策を実施し,こうした経験をもとに均田制を創始した。北族国家の武力がこれを可能にしたといえるが,理念的には井田法の思想があり,現実的課題としては労働力と土地の緊密な結合によって荒廃した農業生産を回復することにあった。

 ほとんど時を同じくして創始された三長制は郷村組織を合理化してこれを行政機構に結びつけ,租調力役の制度は農家の保有する労働力に見合った賦課法を打ちたてたものであった。これらの新制は,同時に定められた俸禄制とあいまって,農業における生産と分配を合理化しシステム化したものであった。従来豪族層の指導者的人格に依存していたこれらの機能は,法令上に明文化され,以後北朝・隋・唐の諸政権に受け継がれることになった。本来人間の自然な営みである生産・分配・消費などの経済活動が指導階級の人格に依存し,あるいは国家の法令によって積極的に規定される点に,当時の時代的特色があった。〈勧課農桑〉という用語が示すように,当時の農業生産は公私の指導と強制とによってはじめて成り立つものであった。北魏や西魏では有牛の家が無牛の家に耕牛を貸し,その代りに除草作業の報酬を受ける一種の換工方式を奨励した。

 以上は主として華北の状況であるが,江南ではやや事情が異なる。元来後進地域であった長江下流域は,呉王朝以来政治の中心舞台となって,急速に経済開発が進んだ。河川や湖沼を利用した用水池が,政府や土着勢力の手で作られ,農地が造成された。呉はそこに屯田を設置して軍隊を駐留させ,土着豪族も私的な荘園を営んだ。古来〈沢国〉と呼ばれた長江下流の低湿地帯は,広大な水田農村に変化した。大量の労働力を必要とするため,原住民の山越を捕虜として屯田民・佃客あるいは兵士に充てた。東晋・南朝時代に,経済開発はますます進んだ。クリークの網が縦横にめぐらされて,遠近への物資の運輸が可能となり,商業の発展を見た。長江には二万斛(こく)船と呼ばれる大型船が航行した。長江と建康の城内を結ぶ秦淮河は商船の発着場として栄え,数多くの市場と遊里が立ち並んでいた。山林叢沢を開発して鉱業・手工業の資源を獲得し,資材・製品を市場に運ぶという一連の営利事業も発達した。こうした経済活動は当然北朝治下にも影響を及ぼした。しかし交換経済は貴族制社会解体の要因でもあった。江南政権は交換経済の発展に対応した政治体制に脱皮することができず,とくに貨幣政策に失敗を重ねた。その結果農民が土地を失い都市に流入して失業者の群れをなし,一部は軍隊に応募して兵士となった。梁朝の太平の時代,無気力化した門閥貴族階級の一方に,新興商人,軍人,没落農民など,貴族制社会からはみ出した人々があった。この社会不安の高まりが,侯景の乱を契機に梁末の大乱となった。江南諸政権は江南の経済発展を自己のうちに取りこむことができなかったが,隋の大運河はそれを北方社会に結びつけ,唐朝後半期の社会変動を準備した。

魏晋南北朝の貴族階級の主たる立脚点は財産や官職にあるのでなく,社会管理者としての人格にあった。その人格を表すものは教養であり,この意味で彼らは教養貴族であった。彼らはこの時代の文化の主要なにない手であり,当時の文化の主流は貴族文化であった。漢代の文化は,儒学が国家の正当性と深く結びついていたように,政治の一部分であった。これに対し,貴族文化はこれを超えたところに成立する。

 後漢時代,儒学が豪族層に浸透したときから貴族文化の前史が始まった。宦官勢力との政治闘争(清流運動)において,彼らがみずからこそが真の為政者たる資格をもつと主張したとき,皇帝中心の漢代文化を超える契機が生まれた。その政治的敗北と処士・逸民への転向は,彼らの思想的自立を促した。後漢極末の建安七子,魏の正始時代(504-507)の竹林七賢に代表される礼教批判は,この自立性の展開された姿である。その思想を正当化するものは他者の権威でなく彼ら自身であった。清議や月旦評に見られる仲間同士の談論の風潮がこの自己評価を支えた。談論は人物評論の域を脱して,世界の本質論に及ぶ清談に発展した。漢代礼教主義から離脱する武器となったのは老荘思想であったが,魏・晋期の思想界は儒家か道家かの二者択一であったわけでなく,何晏(かあん)や王弼(おうひつ)の《論語》解釈に見られるように,両者の相互浸透が行われた。極端な老荘派は別として,大方の貴族のイデオロギーは儒家と道家を兼ねたものであった。南朝で貴族の教育機関として玄・儒・文・史の4学が設けられたことは,この四つの分野が貴族の主要な教養とみなされたことを示している。玄学(老・荘・易)は宇宙の摂理を洞察し,儒学では経書の訓詁によって人倫を身につけた。文学すなわち詩文は自然と人文の表現の学であり,ことに七言・五言の短詩型は貴族の心情を自由に表現する新しいジャンルとして魏・晋以来発展をとげて唐に至った。史学は《漢書》を中心に過去の故事に通暁する学問であった。漢代に発明された紙が普及して巻子本が生まれたことは,貴族の学問を容易にした。書法が隷書の形式性を脱して真・行・草の3体が成立したことも,心情の表現を自由にした。

 要するに文化の諸領域において政治世界からの自立が行われ,いわば神権的次元から人間的次元に降り立ったのである。貴族階級はこのような文化を体得することによって宇宙を把握し人間社会を指導する存在であった。その精神的能力は一種の道術でもあった。九品官人法に見られるように,人格の高下が身分の高下と結びつくのもそこに根拠がある。中央官界には貴族のサロンが形づくられ,各自の人格にまつわるエピソードが伝えられた。《世説新語》は魏・晋貴族を中心とした逸話集である。また芸術的能力によって人物を等級づけた《詩品》《書品》などの著作も,当時の人格主義の現れである。人格主義はまた《高士伝》《列女伝》などの伝記類を生み,地域と結びついて《襄陽耆旧伝》のような名人伝,家系と結びついて各氏の家伝が著された。新しい性質の著述が生まれたことは,魏晋南北朝における文化の活性を示すものである。その著作状況に応じて目録学上の改良が加えられ,南北朝末期までに経・史・子・集の四部分類が成立した。この分類法の特色である史部の経部からの独立,個人の文集類を含む集部の成立は,この時代における文化の人間化に対応している。貴族階級の超越性は,この人間化に支えられたものであった。

 魏晋南北朝はまた宗教の時代でもあった。周代以来の社稷・宗廟の祭祀とは質を異にする道教と仏教が人々の心をつかんだ。中国固有と外来の相違はあるが,個人の至福をねがう普遍宗教である点で両者は共通していた。仏教は漢代すでに流伝していたが,五胡十六国時代西域僧仏図澄クマーラジーバ(鳩摩羅什)らが各国君主の尊信を得て来朝してから,本格的な流行を見た。彼らによる訳経と布教は漢族のなかにも高僧を輩出させ,南北の貴族階級のなかに多くの篤信者を生んだ。各首都には寺院・仏塔が建てられて都市の景観に荘厳さを加えた。当時の仏教はいわゆる格義仏教であり,貴族階級の形而上学に大きな影響を与えた。南北朝時代には国家権力との結びつきが強くなり,同時に民衆のなかにも信仰が広まっていった。ただ北朝では,雲岡石窟竜門石窟の石仏にうかがわれるように,皇帝権の神聖化をたすけたが,南朝では皇帝権を超越するものとされた。後者のすがたは東晋の慧遠(えおん)の〈沙門不敬王者論〉や蕭衍(梁の武帝)の捨身儀礼などにうかがわれる。道教は後漢末太平道や五斗米道(天師道)の興起を契機として教団成立の段階に入った。貴族階級のなかにも浸透したが,とくに民衆の間に信仰されたことが注目される。道教のユートピア思想はしばしば反政府的集団の中に流布して,反乱の思想的根拠となった。東晋末の孫恩・盧循の乱がその顕著な例である。しかし北魏では寇謙之の新天師道が国家的宗教となり,排仏政策をもたらした。道教は仏教とはげしく教勢を争ったが,それは仏教の教義の影響を受けることになり,とくに江南では陶弘景らによって貴族的な茅山派道教が確立した。

殷・周以来中国文化は黄河流域を中心に周辺に向かって拡大してゆく傾向があった。前漢が匈奴を制圧し,西域と朝鮮半島とベトナムに郡県を置いたとき,その世界はいわゆる中国の範囲を越えた。これが漢族とその周辺の諸民族で構成される東アジア世界の出発点であるが,この段階ではそれはまだ漢族中心の世界であった。漢帝国の崩壊に伴って諸民族の動きが活発となり,五胡十六国時代に入って事態はさらに深まった。東方では高句麗が楽浪郡を占領し,百済新羅が国家形成に向かった。5世紀にはこれらの国々は南朝に朝貢する。西域方面も大きな政治変動にまきこまれた。漢代の河西地方は漢の植民地であったが,西晋の滅亡により本国とのきずなが断たれた。敦煌,酒泉などのオアシス都市を拠点に独立国が生まれ,五つの涼王朝がつぎつぎに興亡した。その主権者は漢族,匈奴族,氐族,鮮卑族とさまざまであり,もはや中原王朝の植民都市ではなかった。しかも漢代に移植された文化は保存されて発展をとげ,一方,仏教など西方文化も流伝して保護を受け,河西文化ともいうべき独特の文化世界を形づくった。中原に西域僧が来住し,仏典が将来されるのは,この地方の独立を通じてであった。魏晋南北朝時代は各地域,各民族の自立の時代であった。それが政治的混乱の根本原因であるが,歴史の舞台としては漢代に比べてはるかに拡大した。それを再び政治的に統合したのが隋・唐帝国である。
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百科事典マイペディア 「魏晋南北朝時代」の意味・わかりやすい解説

魏晋南北朝時代【ぎしんなんぼくちょうじだい】

中国で,後漢の滅亡(220年)から隋による統一(589年)までの時代。黄巾の乱などに触発された後漢末の混乱で,各地に割拠した群雄の一つ魏によって後漢が滅ぼされると,(曹操・曹丕(そうひ),洛陽)・(劉備,成都)・(孫権,建業)の三国が分立した(三国時代)。やがて魏が蜀を滅ぼしたが,魏をその権臣司馬炎(武帝)が倒してを樹立し,最後に呉を滅ぼして統一した(280年)。しかし晋も帝位をめぐる争いと北方民族の侵入で弱体化し,侵入してきた匈奴によって首都洛陽,ついで長安を占領されて滅亡(316年),翌年,王族司馬睿(しばえい)が建康(呉の首都としては建業。現在の南京)で即位した。これを東晋といい,南渡以前の晋を西晋ともいう。華北では,匈奴の動きによって刺激された鮮卑など,北方あるいは西北方の異民族が相次いで侵入してきた。この匈奴・鮮卑・(けつ)・【てい】(きょう)を五胡といい,五胡の建てた国が多数興亡したので五胡十六国という。やがてこれらの中から鮮卑族の拓跋氏(たくばつし)の建てた北魏(386年―534年)が華北を統一した(439年)。北魏は内争から東魏・西魏に分裂,さらに東魏は北斉に,西魏は北周にかわられた。これら北魏以降の5王朝を北朝という。一方,東晋の成立で,華北の漢人の貴族・豪族や多くの農民が戦乱を避けて江南に移住してきており,開発途上にあった長江の中・下流域が急速に発達した。東晋も約100年余で倒れ(420年),その後はの4王朝が短期間に興亡した。これを南朝といい,北朝と中国を2分したので南北朝とも呼び,三国の分立(後漢の滅亡)以来をあわせて魏晋南北朝ともいう分裂・抗争の時代であった。 後漢末から南北朝にかけて,各地の豪族が土地・人民を支配して勢力をはり,三国の魏で始まった九品官人法などの官吏任用制度を通じて上級官職を独占,結果的には豪族が貴族階級を形成していった。豪族の土地兼併によって土地を失った多くの小農民は,各地を流浪したり豪族の奴隷になったため,国家が直接支配する土地・人民が減少し,その対策として三国の魏では屯田制,西晋では占田・課田制,北魏では孝文帝のときに均田制が実施されたが,豪族による大土地所有の進行をとめるにはいたらなかった。均田制は隋・唐に受け継がれて制度としては完成する。この時代,北朝では異民族の武人政権で質実剛健の気風をうんだが,南朝では門閥を形成した貴族が政権を左右した。それは反面,この時代の文化の中心が江南に移ったことを意味し,三国の呉以来,陳まで6王朝が建康(建業)を都としたため,文化史上では特に六朝(りくちょう)時代・六朝文化と呼び,絵画や詩文などに優雅・華麗な中国的貴族文化が開花した。また4世紀後半から仏教が盛んとなり,西域から僧侶が来中して仏典の翻訳などに活躍し,さらに道教が北魏の寇謙之(こうけんし)によって初めて教団化された。→六朝文化
→関連項目中華人民共和国南学南北朝

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旺文社世界史事典 三訂版 「魏晋南北朝時代」の解説

魏晋南北朝時代
ぎしんなんぼくちょうじだい

220〜589
後漢 (ごかん) 滅亡から隋の再統一まで360余年の分裂時代
三国(魏・呉 (ご) ・蜀 (しよく) ),晋(西晋・東晋),五胡十六国,南北朝を包括する。後漢末期に豪族の勢力が強大化して分裂時代を迎え,北方民族の華北侵入によって混乱し,南北朝が対立した。漢民族による江南開発が進み,ここに伝統的な貴族社会が形成された。華北では,異民族王朝が成立して豪族を抑え,制度を整えて強大な国家権力を確立し,ついに北方の隋が南北を統一した。江南には伝統的な貴族文化が栄え,道教が成立するとともに,仏教が盛んになり,清談が流行した。なお,建康(現在の南京)に都した呉・東晋・宋・斉・梁 (りよう) ・陳 (ちん) の6王朝を六朝 (りくちよう) と総称する。

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