洋の東西を問わず、原初の酒は農耕の神々と深いかかわりをもっている。酒の原料となる穀物は、またその地の主食であり、農耕によってもたらされるからである。キリスト教では、ワインが「神の血」として尊ばれ、洗礼にも用いられる。『旧約聖書』の箱舟の話に、神はノアにブドウの栽培とワインの作り方を授けたとある。わが国でも、秋の新嘗(にいなめ)祭には新穀で黒酒(くろき)・白酒(しろき)の2種の酒を醸して神に供えた。一方、宗教上の理由で酒を禁じているのはイスラム教とヒンドゥー教である。とくに前者は、厳格な禁酒を戒律とする。原始仏教も飲酒を禁じ、日本の禅宗でも「不許葷酒(くんしゅ)入山門」と戒めたが、般若湯(はんにゃとう)として用いる習慣もあり、仏教は酒には比較的寛大であった。
ローマ神話の酒神バッカスは、ギリシア神話ではディオニソスとよばれる。主神ゼウスとカトモス王の娘セメレとの間に生まれた。この神の信仰はトラキア地方からギリシアに流入したものと考えられ、大地の豊穣(ほうじょう)をつかさどる神であったが、ブドウの栽培に伴い酒の神ともなった。アジアにも及ぶ広い地域を旅し、各地にブドウの栽培と醸造法を教えたという。その信仰は熱狂的であり、女性信者たちがツタを巻いた杖(つえ)を持って神がかりとなって乱舞し、野獣を殺したりした。また、その祭礼からギリシア演劇が発達したとされる。
エジプト神話のオシリスは、イシスと兄妹結婚してエジプトを統治した王であるが、弟に殺されて死者の国の王となる。この神は、農耕儀礼と結び付いて信仰され、ムギから酒をつくることを教えたと伝えられている。
中国では、夏(か)王朝の始祖禹(う)王のとき、儀狄(ぎてき)が初めて穀類の酒をつくって王に献上したという伝説がある。儀狄は酒神と崇(あが)められ、その名はまた酒の異名ともなっている。
米を基幹原料とする日本の酒と神との関係は、古代日本人が酒神としてどのような神を崇拝していたかを知れば、おのずから明らかになるであろう。日本の酒神には、(1)『古事記』や『日本書紀』の神話に現れ、酒つくりの祖神といわれた神、(2)優れた酒つくりの技能をもったまろうど(賓客)型神人、(3)原初神、の三つの類型がある。
第一類型に属する神には、まず京都市・梅宮大神に斎祀(さいし)され、酒解神(さけとけのかみ)・酒解子(さけとけのみこ)といわれた大山祇神(おおやまづみのかみ)・神吾田鹿葦津(かむあだかしつ)姫(木花開耶姫(このはなさくやひめ))の父娘神があげられる。とくに姫は、神の田、狭名田(さなだ)からとれた米で天甜酒(あまのたむざけ)をつくって新嘗の祭りをするなど、酒つくりの祖神にふさわしい行為が「神代紀」に語られている。次に福岡県・宗像(むなかた)大社や広島県・厳島(いつくしま)神社の祭神である宗像三女神、田心姫命(たごりひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、さらに奈良県・大神(おおみわ)神社の祭神である大物主神(おおものぬしのかみ)・大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)、それに京都市・松尾(まつのお)大社や滋賀県・日吉(ひよし)大社に祭祀されている大山咋命(おおやまぐいのみこと)などがある。
第二類型の神には、伊勢(いせ)の外宮(げくう)に斎祀された豊受大神(とようけおおみかみ)がある。そのほか地方にあって酒つくりの技能を教えた香川県・城山(きやま)神社の祭神神櫛王(かみくしのきみ)、島根県・佐香(さか)神社の久斯(くし)之神、愛知県・酒人(さかと)神社の酒人王(さかとのきみ)などがある。興味あるのは造酒司酒殿坐神(さけのつかささかどのにいますかみ)といって、宮中の造酒司に祀(まつ)られていた神々である。
第三の類型に属する原初神には、酒水の守護神である酒弥豆男神(さかみつおのかみ)・酒弥豆女神(さかみつめのがみ)の2座、竈(かまど)そのものより釜(かま)を神座とした忌火神(いむびのかみ)で大陸渡来の竈神(かまどがみ)4座、それに酒甕(さけがめ)の神3座の計9座が斎祀されていた。これらの神々はまた古代の酒つくりで何が重要視されていたかを知るうえに貴重な手掛りとなるであろう。
日本の酒神に関してまず着目すべきことは、これらの神々の多くが農耕神の範疇(はんちゅう)に組み入れられていることで、酒神が水の神信仰と強く結び付いているのはこのためである。したがって、酒神の神格が、山と、水と、水稲つくりの三つの要素が交絡して形成されたと思われる農耕神的神格と共通性をもつのは当然であろう。また、古代の神祭りが水稲耕作生活と直結し、春の籾播(もみま)き前に山の神を田の神として迎える水口(みなくち)の祭りも、秋の収穫儀礼として新穀による神人の共食共飲、つまり新嘗の祭りが行われたのも、酒つくりが水稲耕作文化の文化複合として伝承されたことに由来する。
神祭りにおいては、酒つくり神事が相嘗(あいなめ)神事の前駆行事として行われたが、酒つくり神事は和歌山市日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)両宮に伝承されているように、同宮の酒殿で、御酒水迎え→御麹(こうじ)合せ→白御酒(しろみき)造り祭→黒御酒造り祭など、酒つくり工程に従って酒つくりを行い、酒ができあがって初めて相嘗御祭が執り行われていたことでも知られる。酒つくりは微生物学的に高度の技能を要求されるだけに、まさに酒神の力を借りなければ、味酒(うまざけ)を醸すことはできなかった。酒造技術が発達した今日でもなお、酒蔵にはかならず酒神が奉斎され、杜氏(とうじ)が酒つくりにあたって酒神にその成果を祈るのは、彼らの心の奥処(おくど)にこのような古代的信仰が秘められているのであろう。とすれば、酒神信仰は酒つくりにおける精神的なよりどころといいかえることができるであろう。
[加藤百一]
飲酒の目的については諸説があるが、同じ釜(かま)の飯を食べ合った仲というのと同様に、同じ甕(かめ)で醸した酒を飲み合うことによって、共同一体感を得られるというのが、最大の目的であったろう。いっしょに飲んだ仲間の顔が一様に紅潮し、同じ血潮が流れていることを確認できるからである。また互いに仲間であり、敵対するものでないことを承認して、契約の手段に使われる。また別に、適度の飲酒はストレス解消に役だつもので、酒が古来「百薬の長」といわれるのはそのためである。群飲の時代から個人の嗜好(しこう)に移るにしたがって、その傾向は助長された。飲酒による共同一体感は、人と人との間に限らず、神と人との間にも共通のものであったから、神祭りに酒は欠かせないものであった。祭りのおりに酒ができあがるように、期日にあわせて酒を仕込むものであった。祭りは、神を迎えてもてなし、神託(しんたく)を伺い、人もお下がりを飲食してから送り返す儀式であるが、そのおりおりに酒を伴う。神には山海の珍味とともにお神酒(みき)を供える。神は陶酔して態度動作で意志表示をする。実際には神ののりうつった人間が代理を務めるのであるが、そのあと神と人とがいっしょに飲み食いをする。そうして村中が一種の興奮状態に至る。酒を飲み合うことが契約のしるしになる例は婚姻の機会などにみられる。現在の婚約にあたる「酒ずまし」「手締めの酒」「口固めの酒」などは内定契約を示しており、夫婦杯(めおとさかずき)、親子杯、兄弟杯はそれぞれが長く契りを結ぶことを約束するものである。
昔の酒の飲み方は、一つの大杯になみなみと酒をつぎ、それを飲み回すものであった。上座(かみざ)の人から順に口をつけていく。人数が多くなると「振り分け」といって、二つの大杯を左右に飲み回したり、座が進んでくると「上り献(のぼりこん)」といって、下座(しもざ)から上座に飲み回したりするが、要は同じ杯の酒を飲み合ってこそ、共同一体感を得やすかったのである。婚礼の場合でも、荷物を運んだ人がその場で立ち去るとき、または婚礼の客が帰るとき、門口で立ったままで茶碗(ちゃわん)酒を飲むことがある。これは別れの酒であり、盛り切り1杯しか飲まない。職人や奉公人が客や主人から与えられる酒は、慰労のためのものである。晩酌(ばんしゃく)のことを「ダリヤメ」などというのは、ダリ(疲労)を自ら慰労する意味であろう。
近世に入って酒の大量生産が可能になり、いつでも購入して飲めるようになると、ハレの日でなくても杯を手にする人は多くなり、また群飲から個人の嗜好品に移ってくる。もともと酒は、祭りの期日にあわせてつくり、祭りのおりに使いきってしまうもので、個人で飲む場合も自家製のものであったが、醸造の技術が進み、灘(なだ)、伏見(ふしみ)などの名産地で大量生産を始める。スギ材で樽(たる)をつくる技術の普及に支えられ、酒の運搬が容易になる。いよいよ大量生産が進む。近世末から近代にかけての資本主義形成の時期に、造り酒屋の果たした役割は大きい。それら酒造業者は、杜氏(とうじ)とよばれる技術者をはじめ、各地の農村から冬の農閑期に人を集め、出稼ぎ人を集める形で酒をつくった。日本では米を原料とする酒が一般的で、清酒の出回るまでは濁り酒(どぶろく)であった。途中で沸かして発酵を止めると甘酒になるので、甘酒も祭りには酒と同様に扱われる。沖縄の泡盛(あわもり)(米を原料とする焼酎(しょうちゅう))をはじめ、芋焼酎、そば焼酎などもある。
[井之口章次]