金ヶ崎城跡(読み)かながさきじようあと

日本歴史地名大系 「金ヶ崎城跡」の解説

金ヶ崎城跡
かながさきじようあと

[現在地名]敦賀市金ヶ崎

天筒てづつ(一七一・三メートル)から北西の敦賀湾に向かって延びる尾根の先端(八六メートル)にあった中世城跡。金前・鐘ヶ崎とも記され、敦賀城ともよばれた。空堀跡などが一部残るだけで、城郭配置をうかがわせるだけの遺構はない。所在地からは敦賀湾のほとんどを一望でき、天筒山に設けられた支城からは敦賀平野および峠が通る樫曲かしまがり辺りまでを見通せた。

築城時期・築城者は不明だが、養和元年(一一八一)九月木曾義仲を討つべく越前に下向した平通盛が義仲軍と戦った時のことを記す「玉葉」同月一〇日条の「津留賀城」は当城のこととされる。すなわち「通盛朝臣之軍兵、為加賀国人等、被追降事一定云々、仍引籠津留賀城」とあり、一二日条に「伝聞、通盛逃津留賀城、交山林了云々、但実説難知」とみえる。


金ヶ崎城跡
かねがさきじようあと

[現在地名]金ヶ崎町西根 白糸・仮屋

六原ろくはら扇状地の東端、北上川を眼下に見下ろす標高五二―五四メートルの段丘上にある。江戸時代仙台藩が設定した要害の一で、要害主の居館であった。「西根村安永風土記」によると白糸しらいと館といい、本丸・二の丸・くら館・ひがし館・観音かんのん館から構成されるが、近年本丸は崖崩れがあって二の丸に居住しており、兵具などの倉庫である蔵館(南北二四間×東西一〇間)も崖崩れで消滅したとある。また東館(南北四二間×東西四六間)は三の丸に相当するものであると記す。現在郭跡は、北西端から順に丸子まるこ館・二の丸・本丸・東館その他が北西―南東方向に約六〇〇メートル、北東―南西方向に一七〇メートルの範囲に認められる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「金ヶ崎城跡」の解説

かながさきじょうあと【金ヶ崎城跡】


福井県敦賀市金ヶ崎町にある山城跡。別名、敦賀城。敦賀市の北東部、天筒(てづつ)山から北西に敦賀湾に突き出した尾根上の標高86mの小高い丘(金ヶ崎山)に立地する。1180年(治承4)から1185年(元暦2)にかけての6年間にわたる大規模な治承・寿永の内乱(源平合戦)の折、平清盛の甥(おい)にあたる越前守平通盛(みちもり)が木曾義仲との戦いに敗れ、ここに城を築いたのが始まりと伝えられる。城の主要部は、現在の金崎宮の境内に属し、現在も月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪(くるわ)跡、堀切りなどが残り、1934年(昭和9)に国の史跡に指定された。1336年(延元1・建武3)、後醍醐(ごだいご)天皇が足利尊氏方と講和したものの、新田義貞が恒良(つねなが)・尊良(たかなが)両親王を奉じて金ヶ崎城に入り、足利軍を迎え討った。しかし、兵糧がとぼしくなって戦況が不利になり、義貞は金ヶ崎城を脱出して杣山(そまやま)城で態勢を立て直そうとした。翌1337年(延元2・建武4)、義貞は金ヶ崎城を救援しようとするが途中で阻まれ、足利軍の攻撃の前に金ヶ崎城は落城し、恒良親王は捕らえられ、尊良親王、義貞の長男新田義顕(よしあき)ら数百人が自害した。その後の戦国期には、越前の朝倉義景(よしかげ)討伐の軍をおこした織田信長が、敦賀に入って朝倉氏一族が守るこの城を落とし、越前に攻め入ろうとしたときに近江の浅井長政が離反して、挟撃を受ける危機に見舞われた。そこで信長は、木下藤吉郎豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せ、朽木(くつき)を経由して京に退却したが、このときの撤退は「金ヶ崎の退()き口(くち)」として知られる。JR北陸本線ほか敦賀駅から車で約7分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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