金ヶ崎城跡
かねがさきじようあと
六原扇状地の東端、北上川を眼下に見下ろす標高五二―五四メートルの段丘上にある。江戸時代仙台藩が設定した要害の一で、要害主の居館であった。「西根村安永風土記」によると白糸館といい、本丸・二の丸・蔵館・東館・観音館から構成されるが、近年本丸は崖崩れがあって二の丸に居住しており、兵具などの倉庫である蔵館(南北二四間×東西一〇間)も崖崩れで消滅したとある。また東館(南北四二間×東西四六間)は三の丸に相当するものであると記す。現在郭跡は、北西端から順に丸子館・二の丸・本丸・東館その他が北西―南東方向に約六〇〇メートル、北東―南西方向に一七〇メートルの範囲に認められる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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かながさきじょうあと【金ヶ崎城跡】
福井県敦賀市金ヶ崎町にある山城跡。別名、敦賀城。敦賀市の北東部、天筒(てづつ)山から北西に敦賀湾に突き出した尾根上の標高86mの小高い丘(金ヶ崎山)に立地する。1180年(治承4)から1185年(元暦2)にかけての6年間にわたる大規模な治承・寿永の内乱(源平合戦)の折、平清盛の甥(おい)にあたる越前守平通盛(みちもり)が木曾義仲との戦いに敗れ、ここに城を築いたのが始まりと伝えられる。城の主要部は、現在の金崎宮の境内に属し、現在も月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪(くるわ)跡、堀切りなどが残り、1934年(昭和9)に国の史跡に指定された。1336年(延元1・建武3)、後醍醐(ごだいご)天皇が足利尊氏方と講和したものの、新田義貞が恒良(つねなが)・尊良(たかなが)両親王を奉じて金ヶ崎城に入り、足利軍を迎え討った。しかし、兵糧がとぼしくなって戦況が不利になり、義貞は金ヶ崎城を脱出して杣山(そまやま)城で態勢を立て直そうとした。翌1337年(延元2・建武4)、義貞は金ヶ崎城を救援しようとするが途中で阻まれ、足利軍の攻撃の前に金ヶ崎城は落城し、恒良親王は捕らえられ、尊良親王、義貞の長男新田義顕(よしあき)ら数百人が自害した。その後の戦国期には、越前の朝倉義景(よしかげ)討伐の軍をおこした織田信長が、敦賀に入って朝倉氏一族が守るこの城を落とし、越前に攻め入ろうとしたときに近江の浅井長政が離反して、挟撃を受ける危機に見舞われた。そこで信長は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せ、朽木(くつき)を経由して京に退却したが、このときの撤退は「金ヶ崎の退(の)き口(くち)」として知られる。JR北陸本線ほか敦賀駅から車で約7分。
出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報
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