鈴木正三(読み)スズキショウサン

デジタル大辞泉 「鈴木正三」の意味・読み・例文・類語

すずき‐しょうさん〔‐シヤウサン〕【鈴木正三】

[1579~1655]江戸初期の禅僧仮名草子作者。三河の人。名は重三しげみつ徳川家康秀忠に仕えたが、のち出家曹洞そうとう禅を修め、独自の仁王禅を唱えた。諸国遍歴し、教化のために著述仏教書「盲安杖もうあんじょう」「万民徳用」「破吉利支丹はキリシタン」、仮名草子「因果物語」「二人比丘尼ににんびくに」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「鈴木正三」の意味・読み・例文・類語

すずき‐しょうさん【鈴木正三】

  1. ( 「しょうぞう」とも ) 江戸前期の僧侶、仮名草子作者。本名重三(しげみつ)通称九太夫。正三(しょうさん)は法名。号に石平道人など。三河国(愛知県)の人。はじめ徳川家康家臣であったが、のち出家し曹洞禅を修め、民衆教化を志す。その禅風が勇猛なところから、仁王禅(におうぜん)と称せられた。著は仏書に「盲安杖」「万民徳用」「麓草分」「破吉利支丹」「反古集」など、仮名草子に「二人比丘尼」「因果物語」など。天正七~明暦元年(一五七九‐一六五五

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「鈴木正三」の意味・わかりやすい解説

鈴木正三 (すずきしょうざん)
生没年:1579-1655(天正7-明暦1)

江戸初期の禅僧。本姓穂積氏,俗名は鈴木九大夫重三。出家して正三,石平道人と号し,仮名草子(かなぞうし)作者として鈴木正三を名のる。徳川氏麾下の小土豪として三河国足助(あすけ)庄に生まれ,徳川氏の移封とともに上総に転じた。このころから出離の志をもち,おりから宇都宮で修行中の妙心寺僧大愚宗築,愚堂東寔らと交流した。関ヶ原の戦,大坂の陣に参加後,旗本として江戸駿河台に住した。1616年(元和2)大愚が江戸に南泉寺を開いて住するとこれに参じ,19年武士を捨てて出家した。以後,仏教復興を念願して,大和法隆寺で沙弥戒をうけた真言律僧の賢俊良永,豊後多福寺の妙心寺派僧雪窓宗崔,曹洞宗でのち宇治に興聖寺を再興した万安英種,日蓮宗から天台宗に転じ日蓮宗批判を行った舜統院真超ら同じ志をもつ各宗僧侶と交流し,仏教復興運動の中心となった。正三自身は,三河に帰り千鳥山で修行の後,石平山に庵を構え,32年(寛永9)ここに家康,秀忠の位牌を安置して恩真寺と号し,また各地を巡錫して民衆教化につとめた。なかでも,島原の乱後,天草代官となって復興につとめた弟の鈴木重成の招請によってこの地をおとずれたことは,仏教による民衆教化の志をいよいよ強めることになった。このため江戸へ出て幕府に仏教による治国を献策すべく活動し,家光の嗣子家綱の守役となった松平乗寿や長崎奉行であった馬場利重を通じてその実現に執念を燃やしたが,果たさずして没した。その禅は仁王禅といわれ,念仏,戒律をも重修し,勇猛心をもって自(じ)心中の仏を念ずるというものであり,また,僧侶を役人として民衆教化を役とさせるという仏教治国,あらゆる職業はそれに専念するとき仏行となる(職分仏行説)という世俗倫理を説き,これらを仮名草子にも著すなど,多方面に活動した。著述に,《盲安杖(もうあんじよう)》《万民徳用(ばんみんとくよう)》《麓草分(ふもとのくさわけ)》《因果物語》《二人比丘尼(ににんびくに)》《念仏草子》《破吉利支丹(はキリシタン)》,語録に《驢鞍橋(ろあんきよう)》などがある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鈴木正三」の意味・わかりやすい解説

鈴木正三(すずきしょうぞう)
すずきしょうぞう
(1579―1655)

江戸初期の仮名草子作家、僧侶(そうりょ)。名は重三(しげみつ)、九太夫(きゅうだゆう)とも。法号は俗称を音読して正三(しょうさん)。石平道人(せきへいどうにん)、玄々軒(げんげんけん)とも号した。三河国(愛知県)の武家に生まれ、徳川家康(とくがわいえやす)・秀忠(ひでただ)に200石をもって仕え武功があった。1619年(元和5)剃髪(ていはつ)して曹洞禅(そうとうぜん)を修め、世法即仏法(せほうそくぶっぽう)を説き仁王(におう)禅を提唱した。諸国遍歴ののち故郷の石平山恩真寺に住したが、島原の乱に従軍、のちに天草で寺を建立してキリスト教根絶を志し、『破吉利支丹(はきりしたん)』を著した。1648年(慶安1)江戸へ出て、牛込(うしごめ)に了心庵(あん)を結び、教化と述作に従ったが、77歳で末弟重之(しげゆき)の家に没した。彼の説法を弟子の恵中(えちゅう)(1628―1703)が筆録した『驢鞍橋(ろあんきょう)』や、その著『盲安杖(もうあんじょう)』『麓草分(ふもとのくさわけ)』などは仏教啓蒙(けいもう)書であり、『因果(いんが)物語』『念仏草子』『二人比丘尼(ににんびくに)』などは典型的仮名草子と称せられている。

[青山忠一 2017年8月21日]

『鈴木鉄心編『鈴木正三道人全集』全1巻(1954・正三道人三百年記念会/1962・山喜房仏書林)』『藤吉慈海著「鈴木正三の念仏思想」(『仏教文学研究 6』所収・1968・法蔵館)』


鈴木正三(すずきしょうさん)
すずきしょうさん

鈴木正三

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「鈴木正三」の解説

鈴木正三

没年:明暦1.6.25(1655.7.28)
生年:天正7(1579)
江戸時代の仮名草子作者。本名は鈴木正三。九太夫と称し,石平道人などと号する。三河国(愛知県)東加茂郡足助郷の徳川家の家臣鈴木重次の長子として生まれる。慶長5(1600)年の関ケ原の戦,同19年の大坂冬の陣,元和1(1615)年の大坂夏の陣に出陣するが,同6年に江戸にて出家。寛永15(1638)年に平定された島原・天草の乱に弟重成が出陣し,同18年には天草の初代代官に任じられると,正三も翌年に天草へ渡る。3年間の天草滞在で,仏教への帰依を説き,諸寺を建立,『破吉利支丹』を著した。正三の仏法は「仁王禅」といわれる特異なものであったが,著作には「7部の書」とされる『二人比丘尼』『念仏草紙』などがある。そのひとつ『因果物語』は没後に出版されたが,先に出された「平仮名本」と,それを不当とした弟子達による「片仮名本」の2種類がある。仏書として書かれた「片仮名本」の側からすれば,多くの話を重複しつつも正三の原本を改変し,挿絵を加えて読み物化した「平仮名本」は許せなかったのである。

(樫澤葉子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「鈴木正三」の意味・わかりやすい解説

鈴木正三【すずきしょうさん】

江戸初期の仮名草子作者。本名重三(しげみつ)。出家して正三,石平道人と号する。三河の人。代々徳川氏の家臣で,家康・秀忠に仕え,関ヶ原の戦,大坂の陣に勲功があった。1620年致仕,出家して諸国を巡り仏道を説いた。天草ではキリシタンを一掃すべく仏寺を建て,《破吉利支丹(はキリシタン)》を著した。仮名草子に《二人比丘尼(ににんびくに)》《因果物語》,仏教関係の著作に《盲安杖》《麓草分(ふもとのくさわけ)》など。
→関連項目仮名草子法語

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鈴木正三」の意味・わかりやすい解説

鈴木正三
すずきしょうさん

[生]天正7(1579).1.10. 三河
[没]明暦1(1655).6.25. 江戸
江戸時代前期の臨済宗の僧。仮名草子作者。通称九太夫。名は重三。号は玄々軒,石平道人。三河武士として徳川家康,秀忠に仕え関ヶ原,大坂の陣に参加したが,元和6 (1620) 年出家して越前大安寺の大愚宗築,京都妙心寺の愚堂東寔 (とうしょく) ,江戸起雲寺の万安に師事。諸国を遍歴修行し,三河の石平山恩真寺に住んだ。寛永 14 (37) 年,島原の乱に志願して従軍した。のち江戸牛込天徳寺境内の了心庵に移り,庶民に仁王坐禅を説いた。著書に『万民徳用』『驢鞍橋』のほか,キリシタン排撃の書『破吉利支丹』『でうす物語』,また『因果物語』『二人比丘尼』『念仏草紙』などがある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鈴木正三」の解説

鈴木正三 すずき-しょうさん

1579-1655 江戸時代前期の僧。
天正(てんしょう)7年生まれ。鈴木重成(しげなり)の兄。徳川家康・秀忠につかえたが,42歳で出家。島原の乱後天草にいき,「破吉利支丹(はキリシタン)」をあらわす。のち江戸にでて仏教による民衆教化につとめた。明暦元年6月25日死去。77歳。三河(愛知県)出身。俗名は正三(しょうぞう)。通称は九太夫。号は石平道人。仮名草子に「二人比丘尼(ににんびくに)」,語録に「驢鞍橋(ろあんきょう)」。
【格言など】何(いずれ)の事業(ことわざ)も皆仏行なり。人々(にんにん)の所作の上において,成仏したまうべし(「万民徳用」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「鈴木正三」の解説

鈴木正三 (すずきしょうさん)

生年月日:1579年1月10日
安土桃山時代;江戸時代前期の仮名草紙作者
1655年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の鈴木正三の言及

【二人比丘尼】より

…仮名草子。鈴木正三(しようざん)著。2巻。…

【排耶書】より

…排耶書は37年(寛永14)に起こった島原の乱を契機にして民衆教化のために利用され,幕府の鎖国政策を擁護して民衆の間に反キリシタン思想を鼓吹した。鈴木正三は天草地方の民衆教化のため《破吉利支丹》を著し,豊後臼杵の僧雪窻宗崔(せつそうそうさい)は《対治邪執論(たいじじやしゆうろん)》を書いて特異な排耶論を展開したが,しだいに一般大衆を対象とした読み物風の通俗的な排耶物語《吉利支丹物語》《吉利支丹退治物語》《南蛮寺物語》《南蛮寺興廃記》などが流布するに至った。【五野井 隆史】。…

※「鈴木正三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

仕事納

〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...

仕事納の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android