出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
平安後期から鎌倉初期にかけて活躍した慶派の仏師。生没年不詳。藤原期の大仏師定朝5代目の康朝の弟子と考えられ運慶の父,快慶の師に当たる。12世紀末に院派仏師や円派仏師といった旧勢力に圧せられていた慶派一門を率いて,その勢力を挽回させ,南都の東大寺,興福寺の復興事業に当たっては運慶や快慶らとともに手腕をふるい,のちの慶派発展の基礎を築いた。1152年(仁平2)高さ5尺の吉祥天を造ったというのが記録上の最初の事蹟で,77年(治承1)蓮華王院五重塔の造仏の功で法橋となる。88年(文治4)から翌年にかけて興福寺南円堂の本尊不空羂索観音像をはじめ四天王像,法相六祖像を造り,92年(建久3)ごろ蓮華王院不動三尊を制作した。その後96年には東大寺大仏殿の増長天,また運慶と協力して大仏の脇侍虚空蔵菩薩などを造像した。彼の作風は興福寺南円堂にのこる諸像によってうかがうことができる。これらの諸像には藤原時代の仏像が示す典雅で調和のとれた表現は影をひそめ,康慶が天平彫刻の古様に学んでそれをとり入れながら,新鮮ではつらつとした新しい様式を目指したことがうかがえる。法相六祖像の個性的風貌や力強い衣文の彫り口は,前代にはみられないもので,鎌倉様式の萌芽というべきだろう。こうした作風は次代の運慶に受け継がれ,さらに高い完成をみる。
執筆者:佐藤 昭夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(浅井和春)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
生没年不詳。平安後期から鎌倉初期にかけての仏師。運慶の父で、慶派正統の成朝(せいちょう)が関東へ下った後を受けて慶派を主宰し、院派の院尊、円派の明円らの京都仏師に圧せられていたのを挽回(ばんかい)させ、奈良の東大寺、興福寺の復興事業にも、運慶や弟子の快慶とともに手腕を振るって、後の慶派全盛の基礎を築いた。その作風は興福寺南円堂の不空羂索観音坐像(ふくうけんさくかんのんざぞう)をはじめ四天王、法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう)などによってうかがうことができる。1189年(文治5)の作であるこれらの像は、前代(藤原時代)の仏像の優雅端麗な姿は影を潜め、変化に富んだ動態、生き生きとした個性的な表情など、力強さをその量感や顔だちに表している。こうした作風はさらに運慶に引き継がれ、運慶様式として完成する。
[佐藤昭夫]
生没年不詳。平安末~鎌倉初期の仏師。運慶の父。東大寺・興福寺の復興造像で活躍。一門からは運慶・快慶をはじめ有力な仏師を多く輩出した。1188年(文治4)から翌年にかけて造立した興福寺南円堂諸像(不空羂索(ふくうけんじゃく)観音・四天王・法相六祖像が現存。しかし四天王像は現中金堂の像が本来の像とする説が有力)は写実的で力強く,鎌倉新様式の胎動がうかがえる。1177年(治承元)の蓮華王院五重塔の供養で法橋(ほっきょう),94年(建久5)の興福寺総供養時には法眼(ほうげん)であった。96年の東大寺大仏殿の脇侍像と四天王像の造立が最後の事績だが,同年4月7日の銘をもつ伎楽面が東大寺と神童寺(京都府木津川市山城町)に現存する。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…この様式が奈良時代様式への復古なのか,また新しい中国宋代様式の影響なのか議論の分かれるところである。なによりもこの像が鎌倉彫刻を主導する康慶や運慶の様式に通ずる点が重視されよう。1176年(安元2)の奈良円成寺の大日如来像(運慶作)や1177年(治承1)の静岡瑞林寺の地蔵菩薩像(康慶作か)などが遺品として続く。…
※「康慶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
《〈和〉doctor+yellow》新幹線の区間を走行しながら線路状態などを点検する車両。監視カメラやレーザー式センサーを備え、時速250キロ以上で走行することができる。名称は、車体が黄色(イエロー)...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新