鏡宿(読み)かがみしゆく

日本歴史地名大系 「鏡宿」の解説

鏡宿
かがみしゆく

現鏡地内にあった中世東海道の宿駅で、同街道は古代には東山道、近世には中山道の道筋にあたる。鏡山から北に延びる丘陵先端鞍部の東麓にあり、同鞍部西麓の現野洲やす郡野洲町大篠原おおしのはら小篠原こしのはら一帯は、古代東山道篠原駅の所在地に比定される。当宿はこの篠原駅が衰退するのに代わって発展したものと思われ、「東関紀行」には篠原駅が仁治三年(一二四二)頃にはすでに衰退していた様子を記すが、正応二年(一二八九)二月、当地に宿泊した「とはすがたり」の作者後深草院二条は遊女で賑う当宿の光景を書きとめている。宿としての機能は平安末期頃には整っていたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「鏡宿」の意味・わかりやすい解説

鏡宿 (かがみのしゅく)

中世の東山道の宿駅名で,現在の滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡にあたる。源平内乱期からあらわれ,交通の要所として《吾妻鏡》《源平盛衰記》《太平記》などに記載がある。源義経が奥州藤原氏を頼る途中で元服した地といわれ,元服の池,烏帽子掛の松などを伝える。また源頼朝も1195年(建久6)3月東大寺大仏開眼供養会への上洛の際に宿陣しており,1252年(建長4)3月には宗尊親王将軍として鎌倉に下る際の宿所ともなった。さらに《梅松論》によれば1333年(元弘3)4月鎌倉幕府軍として上洛した足利尊氏が,後醍醐天皇の命をうけ帰順を決意した地という。その後も尊氏は,51年(正平6・観応2)弟直義を追討する際に宿陣している。このほか鏡宿は《古今集》などによまれた名勝鏡山のふもとにあることから,鎌倉期の紀行文である阿仏尼の《十六夜日記》や《東関紀行》などにもその名がみられる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

事典・日本の観光資源 「鏡宿」の解説

鏡宿

(滋賀県蒲生郡竜王町)
湖国百選 街道編指定の観光名所

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の鏡宿の言及

【金売吉次】より

…各地の伝説では,吉次を炭焼藤太の名とも,その子の名ともされ,あるいは黄金採掘で富を築いた富豪の名とも,その召使の名ともされ,一面では致富譚として伝えられ,他面では非業の死を遂げる没落譚として伝えられる。《平治物語》に義経の郎従堀弥太郎を金商人とし,《弁慶物語》に〈金細工の吉内左衛門信定〉〈腹巻細工の四郎左衛門吉次〉なる者が登場し,《平治物語》《烏帽子折》に義経元服の地とされる鏡宿が鋳物師(いもじ)村とも称されたことなどから,炭焼・鋳物師・金細工・金商人は相互に交流があって,これらの漂泊民が義経・吉次伝説の成長・伝播などに関与したのではないかと推測されている。吉・藤の字を名に持つ一群の人々や鋳物師たちは,話を好む芸能の徒でもあったらしいことは,さまざまな例があり,また《古今著聞集》興言利口の部などにうかがえ,《義経記》で牛若丸に奥州の歴史と状況を語る吉次の雄弁も,これらのことを暗示するものとも考えられなくはない。…

【源義経】より

…平安末期~鎌倉初期の武将。源義朝の末子,頼朝の異母弟。母は九条院の雑仕女(ぞうしめ)常盤(ときわ)。幼名牛若,九郎と称す。平治の乱(1159)で父義朝が敗死したのち母および2人の兄今若(のちの阿野全成(ぜんじよう)),乙若(のちの円成(えんじよう))とともに平氏に捕らえられたが,当歳の幼児であったため助けられて鞍馬寺に入れられた。この時期の義経の行動についてはまったく不明で,ほとんどが伝説・創作の域を出ない。…

※「鏡宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android