長屋村(読み)ながやむら

日本歴史地名大系 「長屋村」の解説

長屋村
ながやむら

[現在地名]金沢市東長江町ひがしながえまち御所町ごしよまち一丁目・山王町さんのうまち一―二丁目

御所村の南東、金腐かなくさり川左岸に位置。村域は通称長井谷と称されたが、転訛して村名となった(加能郷土辞彙)。中世は小坂おさか庄の内で、長井村とも称した。応永五年(一三九八)八月一五日の明峰和尚法弟連判書写(「永光寺中興雑記」永光寺文書)に「加賀河北長井竜聖寺弁翁和尚 現住守忍」とある。「賀州本家領謂付日記」天文六年(一五三七)五月一四日条によれば、当時加賀に在国していた前関白二条尹房が近年退転している「浄福寺領 竜聖寺領」の安堵を本願寺証如に求めているが、同月一九日断られている。小坂庄における二条家の拠点は御所付近と伝承されるので、同家が祖先の二条良基創建という伝灯でんどう寺と同じ長井谷に開かれた竜聖寺の外護者となった可能性は高い。


長屋村
ながやむら

[現在地名]糸貫町長屋

見延みのべ村の北、高屋たかや村の東に位置し、糸貫川西岸の緩傾扇状地平野に立地。慶長郷帳に村名がみえ、高八五三石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では幕府領。明和七年(一七七〇)から大垣藩預。正保郷帳では田七五二石余・畑一〇〇石余。明和二年および安永六年(一七七七)の新田検地帳(岐阜大学郷土博物館蔵)によれば字長松ながまつにおいて畑六石余・一町六反余、字大溝おおみぞにおいて畑二石余・六反余を新開している。用水は席田むしろだ用水系の糸貫川から曾井中島そいなかじま(現本巣町)地内の野口のぐち井ともりノ井口とから取水、別にやぶ(根尾川)の水を山口やまぐち(現同上)南原なんばら井口から取水し、南原井組五ヵ村にも属していた。


長屋村
ながやむら

[現在地名]吉田町長屋

かつら村の西、可愛えの川北側に位置し、西南端で西流する支流簸川ひのかわが合流する。南は上入江かみいりえ、北は中馬ちゆうまの各村で、西は土師はじ(現八千代町)に接する。「芸藩通志」に「広十二町余、袤八町余、北に山あり、西南平田にて大川を界とす、村中澗水此に合ふ」とある。山県郡東部を南流してきた可愛川が当地で曲折して東流するため、古くから度々洪水のため災害を受けたが、流路の移動によって川の西側に甲本こうもととよぶ飛郷が残った。

戦国時代には可愛川を防御に利用できる戦略上の要衝であった。慶長年間(一五九六―一六一五)山陰山陽を結ぶ雲石路が整備された際、川の南岸に往還をつけ、入江市いりえいちを通って村の東南端で可愛川を舟で長屋村に渡るようにした。


長屋村
ながやむら

[現在地名]白沢村長屋

白岩しらいわ村の北に位置し、北は鈴石すずいし(現二本松市)小浜成田おばまなりた(現岩代町)。「相生集」は「元禄頃の文書には長谷とも」と記す。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に長屋とみえ、高一千五八石余。享保二一年(一七三六)の長屋村大概帳(白沢村史)によると、古検高一千一四九石余、うち九一石余は新田畑高。反別は田六〇町余・畑七〇町二反余、家数一三〇・二五在家、人数男三〇六・女二五六、馬三三。名主屋敷は字猪子入いのこいりにあった。田畑稼のほかは養蚕を少々行い、畑の春作は大麦・小麦、夏作は煙草・大豆・稗・そばを植えた。


長屋村
ながやむら

[現在地名]名張市赤目あかめ相楽さがら赤目あかめ新川しんかわ

なか村の西に位置し、村の北側を宇陀うだ川が北東に流れる。集落は赤目街道に沿う。古代の長屋は滝川(もと中村条の西界)を西境とし、丈六じようろく村を含んでいた。天永元年(一一一〇)一二月一三日伊賀国名張郡々司等勘注案(東大寺文書)所載の存疑貞観六年(八六四)正月一九日の藤原倫滋申文では倫滋私領の郷村の一つとして長屋をあげている。


長屋村
ながやむら

[現在地名]坂井町長屋

金津かなづ丸岡まるおかを結ぶ丸岡道を挟んで河和田かわだ村と隣接し、竹田たけだ川の支流田島たじま川左岸の自然堤防上に位置する。江戸時代中期以降、丸岡藩領時代に東長屋ひがしながやと西長屋の二村に分れた(元文六年「御領分村名附」遠藤家文書)。「越前地理指南」は枝村として「細川・沖村・東村」を、「越前国名蹟考」は「沖長屋・細河」を記す。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では長畝下のうねしも郷に含まれ、村名は正保郷帳にみえる。


長屋村
ちようやむら

[現在地名]美川町長屋町

手取川河口右岸、本吉もとよし町のうちのみなみ町の東に接する。朝屋・蝶屋とも記す。「平家物語」巻七(篠原合戦)によると、寿永二年(一一八三)五月木曾義仲多田ただ八幡(現小松市の多太神社)に「てうやの庄」を寄進し、同月二一日の木曾義仲のものとされる添状(多太神社文書)には「蝶屋庄十三町」を寄進したとある。これは当地付近とも考えられるが、他の傍証史料を欠くため寄進の事実および庄園としての実態については検討の余地がある。


長屋村
ながやむら

[現在地名]三木市岩宮いわみや

美嚢みの川を挟んで久留美くるみ村の南、美嚢川と志染しじみ川の合流点西側に位置する。西は三木町のうち長屋町。中世は久留美庄に属した。嘉元三年(一三〇五)一二月二九日の久留美庄領家方年貢米算用状(九条家文書)に長屋とみえ、長屋地頭と中分した八丁四反四〇束七把が除外されている。天正七年(一五七九)二月六日の平山合戦前日の軍評定において、別所賀相は総人数を当地に伏せ置き、川向うの羽柴秀吉勢を挑発し、川を渡りきった所で包囲して討取る策を提案したが、久米・志水両氏によって退けられた(別所長治記)


長屋村
ながやむら

[現在地名]富山市八川はちかわ

いたち川右岸の平坦地に位置し、南東はじよう村。立山道が通る。元和(一六一五―二四)頃に北八川村が分村した八ヵ村の一つで、当時長屋という家名の百姓が居住していたのが村名の由来と伝える(越中志徴)。正保郷帳では高三二〇石余、田方二一町余・畑方三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二九五石、免三ツ三歩、小物成は鮎川役三匁(うち一匁は出来)・野役一一匁・鱒役一匁・鮭役二匁、明暦二年(一六五六)の新田高六石があった(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の打銀高三〇一石、免三ツ三歩(「高免帳」杉木家文書)


長屋村
ながやむら

[現在地名]金城町久佐くざ下来原しもくるばら

久佐村の北に位置。南方に位置する堂床どうとこ山を源流とする長屋川が下来原川へ流れ込む。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に「なかや 四丁六反大」とあり、「なかや」は当地に比定される(石見八重葎)。当村の長谷ながやにあった長谷城は長谷縫殿介の拠城という(久佐村誌)。近世の領主の変遷は乙明おとあけ村と同じ。正保国絵図に村名がみえ、高一二八石余。


長屋村
ながやむら

[現在地名]立山町長屋

末上野すえうわの村の東に位置。村名は昔すえ庄を開拓するときに当地に多くの長屋を建てたことにちなむと伝える(五百石地方郷土史要)。また池田いけだ城主が弓庄ゆみのしよう(現上市町)の侵攻を防ぐため将兵を駐屯させる長屋を造ったためともいう。明暦二年(一六五六)の村御印留に村名がみえ、寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高三七石、免三ツ五歩(三箇国高物成帳)


長屋村
ながやむら

[現在地名]備中町長屋

成羽なりわ川左岸にある小村で、対岸は布賀ふか村、北は相坂あいさか(現成羽町)、南は布瀬ふせ村。正保郷帳では「丸山ノ相坂村」の枝村として村名がみえ、松山藩領分四五石余が当村分とみられる。延宝二年(一六七四)の備中国蔵入村々高帳(中山文書)には独立村として記され、高四六石余。


長屋村
ながやむら

[現在地名]新見市長屋

石蟹いしが村の南東、蛇行する高梁たかはし川右岸に位置し、上長屋・下長屋・初水わさみずなどの集落がある。寛永備中国絵図に村名がみえ、高一六〇石余、山崎家治先知。正保郷帳でも同高、松山藩領(以後の領主の変遷は唐松村に同じ)。雑木少・柴山小・芝草山大とあり、枝村として上長屋村をあげる。


長屋村
ながやむら

[現在地名]御薗村長屋

宮川の河口近い右岸にある。上・下の長屋村の二ヵ村からなる。「神鳳鈔」に「長屋御厨」(別本では長屋御薗)が記される。「外宮神領目録」に「長屋御園内小林村田畠段別五升」とあり、長屋御薗は小林おはやし村を含む地であった。永享三年(一四三一)一一月一二日の塩浜売券(太田文書)によれば、長屋紺屋大夫は馬瀬兵衛太郎父子から直銭一二貫文で一段の塩浜を購入している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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