浮島ヶ原(読み)ウキシマガハラ

デジタル大辞泉 「浮島ヶ原」の意味・読み・例文・類語

うきしま‐が‐はら【浮島ヶ原】

静岡県東部、愛鷹山あしたかやま南麓の田子ノ浦に沿う低湿地富士川の戦いの際、平維盛たいらのこれもり軍勢水鳥羽音に驚いて逃げた所という。[歌枕
富士の嶺にめなれし雪の積もりきておのれ時知る―」〈拾遺愚草・上〉

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「浮島ヶ原」の解説

浮島ヶ原
うきしまがはら

[現在地名]瑞穂区熱田東町・浮島町

裁断さいだん橋の一町ばかり東、築出つきだし町の町家の南裏に塚があって、その上に古松が四、五本あった。これが浮島ヶ原の旧跡牟山戸むやまどともいい、もとは天鈿女命を祀る社があった。洪水高潮など水災の時に周りが浸水しても、ここのみは浮き上っていたので、浮島ヶ原とよんだ(尾張名所図会)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「浮島ヶ原」の意味・わかりやすい解説

浮島ヶ原
うきしまがはら

静岡県富士市から沼津市にかけての沿岸低湿地。かつては沼地であったが、愛鷹(あしたか)山の裾野(すその)と駿河(するが)湾奥部の砂丘との間の潟湖(せきこ)状の富士沼、浮島沼柏原(かしわばら)沼、須津(すど)沼などが、沼川や山地からの小河川の運搬する土砂によって埋め立てられ、沼は消滅した。しかし、排水不良地で湛水(たんすい)の害や、浮島現象が洪水時に生じるため1943年(昭和18)第一昭和放水路を完成、1963年第二放水路を完成して水田化を進めた。泥層や泥炭層などの厚い軟弱地盤地帯であるが、盛り土による土地利用の変化もみられ、国道1号(旧、富士バイパス)が浮島ヶ原を横断する。以前は愛鷹山麓(さんろく)に沿う根方(ねがた)街道が東西の交通路であり、東海道は南の砂丘上を通り低湿地を避けていた。

[北川光雄]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浮島ヶ原」の意味・わかりやすい解説

浮島ヶ原
うきしまがはら

静岡県東部,富士市から沼津市にまたがる低湿地。富士山および愛鷹山南麓に東西約 14km,南北 2kmにおよび,面積 20km2。沿岸州の発達で駿河湾の一部がせきとめられ浮島,柏原,須津沼 (すどぬま) などができた。その後,水田化が進んだが,沼川の排水不良や高潮の浸入で不作地が多かった。現在は昭和放水路や水門の完工と干拓事業の促進で美田地域となっている。須津沼付近は泥炭の軟弱地盤のため,往古の潟の面影が残る。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の浮島ヶ原の言及

【富士川の戦】より

…もともと兵力,軍粮に不安のあった中央平氏軍の戦意は萎縮するばかりであった。他方源頼朝も,20日には富士川近くの賀島(富士市)まで兵を西進させたが,同日夜半,武田信義軍が平氏軍の背後に進出しようとしたところ,富士沼(浮島ヶ原)に群棲する水鳥がいっせいに舞い上った。その羽音を大軍の来襲と誤認した平氏軍は総崩れとなり,なすところなく潰走したという。…

※「浮島ヶ原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android