日本歴史地名大系 「長隆寺」の解説 長隆寺ちようりゆうじ 三重県:上野市上郡村・下郡村・森寺村長隆寺[現在地名]上野市森寺 東出日新山と号し真言律宗。本尊の木造胎蔵界大日如来坐像(県指定文化財)は藤原前期の作とされる。寺蔵の木造薬師如来坐像(国指定重要文化財)は定朝様式を伝える藤原中期の作である。天平年間(七二九―七四九)行基の開創と伝える。「伊水温故」は当地に寺門一六坊があって家がなかったので地名を森寺(もりでら)と称し、桜本(さくらもと)坊はその一坊であるといい、「三国地志」はその坊名が人家の庭に残るという。 長隆寺ちようりゆうじ 愛媛県:温泉郡中島町大浦村長隆寺[現在地名]中島町大浦 山狩大浦(おおうら)の西方山麓に鎮座。真言宗智山派、山狩山郭公堂正智院長隆寺。本尊は千手観音。寺伝によれば遠流に処せられた藤原親賢が忽那(くつな)島(現中島)に到着した時、無人島の山中において夜中光明を発見、郭公の鳴声に導かれて大里(おおり)山の一角で観音の像を感得したという。創建は応徳元年(一〇八四)三月、当初は天台宗であったが、禅宗を経て天文年間(一五三二―五五)真言宗に転じた。古くは長竜寺または山狩寺と称した。親賢以来代々忽那氏の菩提寺として繁栄、忽那家より住職として入山した静慶・恢西堂・剣山恵蔵主などが知られる。 長隆寺ちようりゆうじ 福島県:いわき市旧四倉町地区長友村長隆寺[現在地名]いわき市四倉町長友字大宮作(おおみやさく)にあり、無量山阿弥陀院と号し、真言宗智山派。本尊は阿弥陀如来。貞和三年(一三四七)岩城朝義の子長隆が恵哲を開山として開いた。初め安養寺と称したが、長隆逝去後、朝義は長隆の念持仏を納め長隆寺と改称した。天文五年(一五三六)恵日(えにち)寺の雄仁が中興。境内に地蔵堂があり、本尊の木造地蔵菩薩立像は国指定重要文化財。 長隆寺ちようりゆうじ 愛知県:一宮市中島村長隆寺[現在地名]一宮市萩原町中島 森下無量山と号し真言宗豊山派。創建は一四世紀頃で中島氏の菩提寺とみられる。本尊は、藤原末期とされる木造の阿弥陀如来坐像。夾侍の日光・月光の両菩薩は室町初期の造像。長隆寺蔵の元禄七年(一六九四)の覚書によると中島落城の際、寺も焼失し、後、応永年間(一三九四―一四二八)に再建されたという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by