改訂新版 世界大百科事典 「門割制度」の意味・わかりやすい解説
門割制度 (かどわりせいど)
薩摩藩全般に施行された強制割地制度。名称の初見は1197年(建久8)の《大隅国図田帳》所載姶良(あいら)庄の元吉門であるが,その性格は未詳。中世の門(かど)は垣内村(かいとむら)のような血縁ないし地縁共同体であったが,島津氏の領国一円化とともに,とくに1658年(万治1)ごろから1722-26年(享保7-11)の総検地ごろまでの外城制度の確立過程の進展のなかで,下人(被官)や一族が解体されて新門を分立していったので,高も人員も平均的な門に変貌した。古い門の解体のなかから島津氏の家臣団に編入されて旧貫を離れる者もいたが,そのまま土着して近世の百姓化した者も多かった。門割制度のしくみは1村を数方限(ほうぎり)に分け名主が頭となり,方限はまたいくつかの門(百姓の組)に分けて名頭(みようず)(乙名)が数家部の名子らの頭となっている生産共同体であった。門中の名子はほぼ同量ずつの耕地を配当されるわけだが,各人の耕地は村中に分散する〈錯圃制〉であった。また耕地は数年ごとに割り替えられるのであるが,これは錯圃制と相まって天災を各人に均分し,ひいては農民間の階級分解を防止するはたらきがあるので,台風銀座の薩摩藩領の農地制度としては合理的なものであった。しかし反面において割替制は略奪耕作の弊も伴った。そこで藩当局のとった実際的措置は,何門は何人高というふうに固定化し,これを名頭がうけとり門の内部の事情に応じて各人の請取高をきめ,年貢や賦役は名頭が代表で門全員の責任を負っていた。用夫(いぶ)(15~60歳の壮丁)の数に応じて門高をきめるということはなかった。さて年貢は約9割ほどであったので農民は芋・粟食で,山野の開作にたよっていたが,なによりも百姓を苦しめたのは月に10日ほどの過剰賦役であったから,幕末には農村の分解が生じた。しかし薩摩藩のような劣弱な生産力地帯でなおかつ雄藩として終始しえたのは,この門割制度の効であった。
執筆者:原口 虎雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報