開田村(読み)かいだむら

日本歴史地名大系 「開田村」の解説

開田村
かいだむら

面積:一四九・三九平方キロ

木曾郡の北西、御嶽おんたけ(三〇六三・四メートル)の北東麓を占める平均標高一一〇〇メートルの高原性の盆地で、南流する木曾川の三支流西野にしの川・把之沢たばのさわすえ川に沿って、西野・把之沢・末川の集落と耕地が散在している。村役場は把之沢にある。北隣の南安曇みなみあずみ奈川ながわ村へは月夜沢つきよざわ峠、東隣の木曾福島きそふくしま町へは折橋おりはし峠と地蔵じぞう峠、西隣の岐阜県益田ますた高根たかね村へは長峰ながみね峠と、わずか南隣の三岳みたけ村へ西野川となって開けているほかは、村から外へ出るには峠を越えなければならないといった隔絶的な土地柄から、古い風俗習慣を残している。

開田村
かいでんむら

[現在地名]長岡京市開田・神足こうたり天神てんじん長岡ながおか八条が丘はちじようがおか

現長岡京市のほぼ中央部にあり、台地の縁辺部と低平地よりなる。今里いまざと村の南に接する。

「仁和寺御伝」(真光院本)開田准后の条には「一、以此開田一庄、奉当寺三宝、永可止他公役雑事等事」などの、建長三年(一二五一)三月二日付法助願文を収載する。法助は九条道家の第五子で、仁和寺門跡となったが、このように開田庄を所領とし、同荘には開田院もあり(仁和寺諸院家記)、法助は開田准后と称される。開田院の遺跡を現三尊さんぞん(西山浄土宗)とする見解もあり、「山城名勝志」には「縁起ニ云、開田御室戒壇院、当大寺者、桓武天皇勅願延暦三年草創云云、今改号仁和山小法院三尊寺」と記す。

開田村
かいだむら

[現在地名]大子町下金沢しもかねざわ田野沢たのさわ

おし川の上流域および支谷田野沢沿いにあり、北は左貫さぬき村・はなわ村。「水府志料」に「土人伝説に、古昔は上金沢村、下金沢村、相川村三村共、関田郷と申たるよし。此村十二天(鰐)口の銘に、関田村金沢十二天とあり永禄六癸亥年棟木にも関田邑とあり。今三村ともに此十二天の産子あれば、三村一村なりといふも、左もあるべきことなり」とみえる。佐竹知行目録(彰考館蔵)の永禄一二年(一五六九)九月二六日には「闕田之村関沢」とみえる。

開田村
ひらきだむら

[現在地名]岱明町開田

(二〇八メートル)の南麓に位置し、東は築地ついじ(現玉名市)、西は金山かなやま(現荒尾市)西照寺さいしようじ村、南は庄山しようやま村に接する。慶長一一年(一六〇六)の検地帳表紙に「大野内開田村」とある。近世は坂下手永に属する。元禄国絵図に「上村之内開田村」とあって、じよう村からの分村。小村棚田がある(肥集録)。文化八年(一八一一)の坂下手永略手鑑では高三一四石四斗余、田一五町六反六畝余・畑九町五反五畝余。明治一四年(一八八一)頃の戸数五七・人数二八六、牡馬三一、水車一、浮田うきだ溜池など三溜池を用水とする。

開田村
かいでむら

[現在地名]落合町開田

旭川の西岸にあり、北は福田ふくだ村に続く平野部、南は山に続く山地が旭川に迫る山裾で、この山地の南は上市瀬かみいちぜ村。中央部を大山往来が南北に通る。江戸時代、旭川は当地で東西二つに分れ、下市瀬村と西原にしばら村の際で合流した(作陽誌)正保郷帳では田高一三九石余・畑高四九石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では村位は下、改出高一五三石余、開高四四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報