関口村(読み)せきぐちむら

日本歴史地名大系 「関口村」の解説

関口村
せきぐちむら

[現在地名]文京区関口一―三丁目

小日向こびなた村の西にあり、東流する江戸川(旧平川)神田上水の流域を占める。南は中里なかざと村・早稲田村・下戸塚しもとつか(現新宿区)、西は下高田しもたかだ村、北は雑司ヶ谷ぞうしがや村。村内に神田上水と江戸川を分ける大洗おおあらい堰がある。天正一八年(一五九〇)に目白台下に堰を築いてひら川の水を小日向小石川・湯島・神田下からのちの小川おがわ(現千代田区)辺りまで通じさせたといわれているが、当地がこの堰(大洗堰の前身)の堰口に位置したことから元和―寛永(一六一五―四四)頃には関口村と称したとされる。「関口町旧記書上」によれば、徳川家康の江戸入府後、当村は鷹匠の細田加右衛門、佐々与右衛門(実時)・孫山市右衛門に与えられたといい、寛永二年一二月一一日の徳川秀忠知行宛行状(記録御用所本古文書)で佐々実時に「豊島郡関口村三拾石八斗」など、合せて二八〇石余が与えられている。


関口村
せきぐちむら

[現在地名]神川町関口

植竹うえだけ村の北に位置し、東と北は元安保もとあぼ村。村名は安保領一三ヵ村用水(安保用水)の堰口にあたることに由来するという(郡村誌)。田園簿では田方一〇六石余・畑方一三〇石余、旗本新見・室賀の二家の相給。国立史料館本元禄郷帳では室賀領(幕末に至る)。享保一七年(一七三二)一部が上野沼田藩領となり、寛保二年(一七四二)からの上総久留里藩領を経て幕末に至る(「風土記稿」、延享三年「久留里藩領知目録」久留里藩制一班など)。元和六年(一六二〇)に検地が行われ田畑屋敷二六町七反余、うち田七町八反余・畑一八町九反余(「検地帳」落合家文書)


関口村
せきぐちむら

[現在地名]石鳥谷町関口

北上川に稗貫川が流入する地にあり、東は滝田たきだ村、南東は猪鼻いのはな村。天正一九年(一五九一)一一月五日の南部信直知行宛行状(宝翰類聚)によれば、三ヶ尻加賀が当村で一五三石余を宛行われている。慶長八年(一六〇三)一二月一二日の南部利直知行宛行状(花巻北文書)では、北九兵衛が当村などで一千石を与えられている。同一五年一〇月六日の南部利直知行宛行状写(同文書)では、九兵衛が当村で一八四石余を与えられている。


関口村
せきぐちむら

[現在地名]湯沢市関口

雄物川右岸の段丘上に位置する。北は湯沢町に接し、村内を羽州街道が通る。

「語伝仙北之次第」によれば、天正一〇年(一五八二)由利衆が小野寺氏を大沢おおさわ(現平鹿ひらか郡雄物川町)に攻めた時の小野寺氏の有力家臣に関口氏の名がある。その後同一八年頃と思われる「御年貢取り立て等その日記共の写」(色部文書)に「最上へ渡分」として「関口」の名があり、最上氏の支配を受けた。「奥羽永慶軍記」によれば、文禄四年(一五九五)九月、最上勢が湯沢城を攻撃する折に、「関口ノ城主小野寺カ一族佐々木嘉助春道トイフ者アリ、(中略)折シモ春道モ小野寺ニ野心ヲ挟メハ何ノ異論モナク一味ヲソシタリケル」とあり、その離反を伝える。


関口村
せきぐちむら

[現在地名]甲府市大里町おおさとちよう

古市場ふるいちば村の東にある。地名の由来は堰の取入口にかかわるものか。天正五年(一五七七)閏七月七日の武田家印判状(内田文書)に内田刑部右衛門尉遺跡として、「河東・関口」とみえ、両所合せて七五貫文と夫一人が孫の徳千代丸に譲与されたことを認めている。この関口を当地にあてる説がある。慶長古高帳では高二二七石余。慶長六年(一六〇一)検地帳(県立図書館蔵)では田八町七反余・畑六町四反余、桑四四把、屋敷八反余。三冊のうち一冊が残る貞享元年(一六八四)の検地帳(同館蔵)によれば耕地の八割を田が占め、うち中田以上は約六割、畑のうち中以上は約八割。


関口村
せきぐちむら

[現在地名]厚木市関口

東を相模川、西を中津なかつ川によって挟まれた中津原なかつはら台地にあり、南は中依知なかえち村、北は山際やまぎわ村・下川入しもかわいり村に境を接する。八王子道が中央を南より北へ抜け、信玄しんげん道が南から北西へ抜ける。中・近世は依知えち郷に属し、正保国絵図に関口村と現れる。

近世は、元和期(一六一五―二四)まで幕府直轄領、以後幕府・旗本領、旗本領のみの二給が繰返される。税地九八町八反余のうち、田は四町一反余、畑は七一町二反余を占める。またおもな物産は、米・大麦・小麦・粟・蕎麦・麺粉・味噌・蘿蔔・甘薯・鶏卵・香魚(鮎)・製茶・豆腐・沢庵漬・乾繭・真綿・提糸・糸・絹綿交織・木綿織物・小竹・桑葉などである。


関口村
せきぐちむら

[現在地名]櫛引町常盤木ときわぎ

高橋たかはし村の北方、北流する青竜寺しようりゆうじ川の右岸に位置する。大鳥おおとり街道から分岐して山麓の谷定たにさだ(現鶴岡市)に至る道が横断し、北はなか村。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高三一六石余。寛永元年庄内高辻帳では高三四三石余。慶応三年(一八六七)の検地帳写(山添村史)によると田方二五町余・畑方一町余と田がちの村で、田は中田、畑は下畑が多い。弍郡詳記では高三四五石余、免五ツ六分二厘、家数一〇。


関口村
せきぐちむら

[現在地名]朝日村関口

高根たかね川左岸に位置し、北西で大須戸おおすど川が高根川に注ぐ。北は早稲田わせだ村、西は板屋越いたやごし村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大国但馬分せきくち村 上」とみえ、本納一三八石五斗二合・縄高二七八石八斗六升四合、家一四軒とある。近世は村上藩領、のち幕府領、幕末には米沢藩預所。


関口村
せきぐちむら

[現在地名]棚倉町関口

伊野下いのしも村の東、阿武隈高地西縁丘陵に立地。地内を久慈くじ川支流大草おおくさ川が南西流する。奈良時代の土師器を出土する上志宝かみしほう遺跡がある。江戸時代の領主の変遷は伊野上村と同じ。正保郷帳では高二一九石余、うち田一八二石余・畑三六石余。元禄郷帳では高三〇〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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