コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

阪井久良伎 さかいくらき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

阪井久良伎
さかいくらき

[生]明治2(1869).1.24. 横浜
[没]1945.4.3.
歌人,川柳作家。久良岐とも書く。本名,弁 (わかち) 。東京高等師範学校卒業後,新聞記者をしながら佐佐木信綱主宰の『心の花』に歌論を発表,徒然坊と号して正岡子規の『百中十首』の選をした。のち川柳に転じ,へなづち派の宗匠として名をなし,『へなづち集』を刊行 (1901) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

阪井久良伎 さかい-くらき

1869-1945 明治-昭和時代前期の川柳作家。
明治2年1月24日生まれ。日本新聞社にはいり,明治36年「川柳梗概(こうがい)」を刊行。のち川柳久良岐社をおこし,38年川柳誌「五月鯉」を創刊。狂句を批判し,古川柳にかえることを主張した。昭和20年4月3日死去。77歳。武蔵(むさし)久良岐郡(神奈川県)出身。高等師範卒。本名は坂井弁(わかち)。別号に徒然坊。号は久良岐ともかく。著作はほかに「川柳久良岐点」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典 第2版の解説

さかいくらき【阪井久良伎】

1869‐1945(明治2‐昭和20)
川柳作者。名は久良岐とも書く。横浜生れ。本名弁(わかち)。父保佑は税関副長。退官後東京の麴町区富士見町に定住。久良伎は隣家の渡辺重石丸(いかりまろ)に国学,漢学を学び,のちに共立英語学校,東京高師国文科に学ぶ。1897年日本新聞社に入り,当時は美術と和歌に力を注いだ。のち同窓正岡子規の感化で川柳を研究し,1903年《川柳梗概》を刊行,川柳中興の第一声をあげる。その後《日本》に井上剣花坊が入社して,新川柳を担当したので,久良伎は《電報新聞》(のちの《毎日新聞》)に移り柳壇を設けた。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

阪井久良伎
さかいくらき
(1869―1945)

川柳(せんりゅう)作家。久良岐とも書く。本名坂井辨(わかち)。別号徒然坊(つれづれぼう)、へなつち。横浜(武蔵(むさし)国久良岐郡)に生まれる。国学者渡辺重石丸(いかりまろ)に入門。初め歌人として活躍、さらに新派和歌を諷(ふう)して「へなづち会」を結成した。のち、正岡子規(しき)の影響で、『電報新聞』に拠(よ)って川柳革新の第一声を発し、『川柳梗概(こうがい)』『川柳久良岐点』を発行、また機関誌『五月鯉(さつきごい)』を発刊し、「新風俗詩」としての社交文学的川柳を広めた。門下からは多くの古川柳研究家が輩出。東京青山霊園に葬る。[岩田秀行]
 広重を又なつかしむ木場の雪
『『川柳久良伎全集』全6巻(1936~37・同書刊行会)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典内の阪井久良伎の言及

【川柳】より

…しかし狂句人口は増加し,江戸を中心に,北は山形,米沢へ,東は相模,松本,名古屋,飛驒,京,大坂に拠点ができ,全国的な支持を受けて広まったが,やがて知的遊戯におちた狂句をきらい,初代の古川柳への復古をとなえる明治の新川柳運動の標的にされることになる。雑俳(ざっぱい)【鈴木 勝忠】
[近代の川柳]
 1903年(明治36)井上剣花坊阪井久良伎(くらき)の,川柳は《柳多留》(初編)に戻れという提唱で近代川柳は始まる。2人はそれぞれ《日本》《電報》両新聞に拠って普及につとめた。…

※「阪井久良伎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

阪井久良伎の関連キーワード今井 卯木山路閑古村田周魚今井卯木前田雀郎歌人

今日のキーワード

テロ支援国家

国際的なテロリズム組織を資金や物資などの面から援助している国家。[補説]特に、米国国務省が作成する報告書で指定を受けた、イラン・スーダン・シリアの3か国のこと。北朝鮮は1988年1月に指定、2008年...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android