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長沢蘆雪 ながさわ ろせつ

美術人名辞典の解説

長沢蘆雪

江戸後期の画家。山城国淀藩士の上杉家に生まれ、長沢家養子となる。名は政勝・魚、字は氷計・引裾、通称は主計別号に干洲漁者・干緝。画法円山応挙に学び、独自の画境を開いた。奇抜な発想と大胆な画面構成で傑作が多い。寛政11年(1799)歿、45才。

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百科事典マイペディアの解説

長沢蘆雪【ながさわろせつ】

江戸中期の円山派の画家。名は魚,蘆雪は号。円山応挙の高弟で,大胆な筆法による奇抜な構想の花鳥・動物・人物画に異彩を放った。おだやかな水墨山水画も残している。代表作は無量寺,草堂寺,大乗寺等の障壁画,厳島神社の《山姥図額》《宮島八景図帖》など。
→関連項目円山派

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

長沢蘆雪 ながさわ-ろせつ

1754-1799 江戸時代中期-後期の画家。
宝暦4年生まれ。長沢家の養子となる。円山応挙(まるやま-おうきょ)にまなぶが,個性のつよい作風と奇行のため破門されたという。襖(ふすま)絵が兵庫県の大乗寺,和歌山県の無量寺などにのこる。寛政11年6月8日死去。46歳。本姓は上杉。名は政勝,魚。字(あざな)は氷計(ひょうけい)。通称は主計。作品に「山姥(やまうば)図」「群猿図」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

長沢蘆雪

没年:寛政11.6.8(1799.7.10)
生年:宝暦4(1754)
江戸中期の画家。名は政勝,魚,字は氷計,引裾,別号は于緝,于洲漁者。山城(京都府)淀藩の下級武士上杉和左衛門を父として生まれ,のちに長沢家を継いだ。少年期を淀で過ごしたが,早くに京都に出て円山応挙に入門したと伝えられ,天明2(1782)年版『平安人物志』の画家部に既に名が載っている。このころの作品は安永7(1778)年の「東山名所図」(個人蔵)などにみるように割合おとなしいものが多かったが,すでに円山派の技法を完全に自分のものとしている。やがて,応挙画風の枠を破る独自の個性を開花させていく。天明6年南紀串本の無量寺の僧愚海が,応挙に南紀の東福寺系諸寺の襖絵制作を依頼してきたが,応挙に代わり,蘆雪が同年暮れから翌7年にかけ南紀に下ることになった。無量寺に「虎図」「唐子琴棋書画図」,草堂寺に「朝顔図」,成就寺に「花鳥群狗図」「群雀図」などの襖絵を制作,特に巧みな筆さばきと奇抜な構想をもちいて描いた鳥獣に特色を発揮した。こうして,蘆雪は障壁画を得意とするようになり,松江西光寺の「竜図」,豊橋正宗寺の「蘭亭曲水図」「花鳥図」など,多くの優作を遺し,寛政2(1790)年には応挙と共に御所の障壁画制作に参加した。才気あふれる筆さばきと人の目を驚かす構図を駆使して描いてきた蘆雪も,同5年ごろの奈良薬師寺「岩浪群烏図」,7年の大乗寺「群猿図」などで,晩年の内面的深化を示すようになった。その内面の変化は傑作「山姥図額」(厳島神社蔵),「月夜山水図」(穎川美術館蔵)となって実を結んだ。奔放な性格ゆえに様々な逸話が残っている。例えば,応挙自身の絵手本を何くわぬ顔で持参して,師に手直しさせた件で破門されたと伝えられる。また,ねたみを受けて,毒殺されたともいう。46歳で没し,京都の回向院に葬られた。<参考文献>辻惟雄『奇想の系譜』,宮島新一「長沢蘆雪」(至文堂『日本の美術』219号)

(河野元昭)

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世界大百科事典 第2版の解説

ながさわろせつ【長沢蘆雪】

1754‐99(宝暦4‐寛政11)
江戸中期,京都画壇に活躍した画家。名は政勝,または魚。氷計,引裾の字がある。蘆雪は号。淀藩士と伝えられる上杉和左衛門の子に生まれ,幼年期を淀で過ごす。20歳代後半には京都で円山応挙に師事し,頭角をあらわしていたと思われる。天明2年(1782)版《平安人物誌》はすでに蘆雪の名を載せ,画家として一家をなしていたらしく,源琦(げんき)と並んで応挙門下の俊英とうたわれた。1786年暮れから翌春に制作された壮年期を代表する,串本の無量寺の《虎図》,富田(とんだ)草堂寺の《岩上白猿図》など,南紀の寺院に障壁画がのこる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

長沢蘆雪
ながさわろせつ

[生]宝暦4(1754).丹波/淀
[没]寛政11(1799).6.8. 大坂
江戸時代中期,円山派 (→円山四条派 ) の画家。名は政勝,魚。字は氷計,引裾 (いんきょ) 。号は于緝 (うしゅう) ,蘆雪。淀藩の武士上杉和左衛門の子で長沢氏を継ぐ。 10代で円山応挙に師事したらしく,20代には師の技法を継承した作品を描き,29歳の頃すでに京都で画家として名声を得た。 30歳頃から妙心寺と関係を結びその末寺に作品が現存。 40歳頃薬師寺で大量の襖絵を描き,そののち皆川淇園 (きえん) 主催の新書画展観に新奇な作品を何度も出品。 46歳のとき暗殺されたと伝える。主要作品は無量寺方丈襖絵『竜虎図』 (1786) ,『寒山拾得図』 (87,高山寺) ,薬師寺襖絵『岩浪群烏図』 (93頃) ,絵馬『山姥 (やまんば) 図』 (97,厳島神社) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

長沢蘆雪
ながさわろせつ
(1754―1799)

江戸中期の画家。丹波(たんば)国(京都府)篠山(ささやま)藩の家臣であったが、のち山城(やましろ)国(京都府)淀(よど)藩に仕えた。名は正勝(まさかつ)また魚(ぎょ)、字(あざな)は氷計(ひょうけい)、引裾(いんきょ)。于緝(うしゅう)、蘆雪と号した。円山応挙(まるやまおうきょ)に絵を学んで早くから個性的表現で頭角を現し、1786年(天明6)の冬以降は師にかわって南紀(和歌山県)の諸寺に絵筆を振るい、これが大きな転機となった。その後の代表作に正宗寺(豊橋市)の旧方丈障壁画や大乗寺(兵庫県)の障壁画、厳島(いつくしま)神社(広島県)の『山姥(やまんば)図』、『花鳥游魚(ゆうぎょ)図巻』、『海浜奇勝図』(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)などがある。表現様式は実に多様で、応挙に学んだ精緻(せいち)で構成的な写生画の視点にたちながら、自らの豊かな生命感を奔放に表出した作家として評価が高い。[玉蟲玲子]
『辻惟雄・山川武他著『水墨美術大系14 若冲・蕭白・蘆雪』(1973・講談社) ▽辻惟雄著『奇想の系譜』(1970・美術出版社)』

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