日本大百科全書(ニッポニカ) 「離洛帖」の意味・わかりやすい解説
離洛帖
りらくじょう
平安中期の能書、藤原佐理(すけまさ)自筆の書状。一幅。国宝。東京・畠山(はたけやま)記念館蔵。名称は、冒頭の草名(そうみょう)(花押(かおう)の原形)のあとに続く本文の書き出しの「離洛之後……」とある二字による。佐理は991年(正暦2)正月、大宰大弐(だざいのだいに)に任ぜられた。赴任のため洛(京都)を離れて、筑紫(つくし)国(福岡県)に下向途中、5月16日に長門(ながと)国(山口県)赤間泊(あかまのとまり)(現下関(しものせき)市)に到着。滞留中の同19日、時の摂政(せっしょう)・関白藤原道隆に赴任の挨拶(あいさつ)を怠っていたことに気づき、在京の甥(おい)藤原誠信(さねのぶ)(春宮権大夫(とうぐうのごんのだいぶ))を通じてわびの伝言を頼んだのがこの手紙である。ときに、佐理は48歳。旅中、草卒(そうそつ)にしたためた筆にもかかわらず、筆線の潤渇、肥痩(ひそう)の変化の妙は、さすが「三蹟(さんせき)」の1人にふさわしく、みごとな筆致である。この幅には、江戸中期に上代様(じょうだいよう)の能書家で聞こえた近衛家煕(このえいえひろ)(予楽院(よらくいん))の臨模本(写しの一紙)が添えられており、さらにその紙背には、能書帝伏見(ふしみ)天皇の花押が模写されている。古くは、古筆の愛好家で知られた伏見天皇の所蔵であったことが知られ、伝来のゆゆしさを示している。
[神崎充晴]