葬送後の遺体を安置するために造られた建物のこと。とくに,11世紀から12世紀ころに見られる言葉である。玉屋,玉殿,御魂殿などとも書く。四壁を閉じて人を中に入れなかった。《栄華物語》巻七の中宮定子の葬送場面には〈とりべのゝ南の方に二丁ばかりさりて,霊屋(たまや)といふものを造りて,築土(ついひじ)などつきて,こゝにおはしまさせんとせさせ給ふ〉とある。多くは檜皮葺き(ひわだぶき)の屋であった。霊屋は《日本書紀》に殯宮(もがりのみや)とか殯殿とか喪屋(もや)と書かれているものと,基本的には同じものである。この中で遊部(あそびべ)が死者に付着する凶癘魂(きようれいこん)を鎮める儀礼をした。このあと遺体は喪屋とともに放棄されるか,墳墓に埋葬されなおすかした。この遊部による儀式が忘れられてからは,遺体を安置する施設だけとなった。11世紀になると御魂殿の中で火葬が行われ,そのまま屋を閉じる風も発生した。拾骨された一条天皇の場合は,三昧堂のような1間四方の小堂が造られた。浄土教が浸透すると,霊屋の伝統を受けて中尊寺の金色堂のごとく,埋葬した上に阿弥陀如来を本尊とする堂を建立するようになった。これが,現在なお民俗として残る,埋葬地の上にスヤ,ヒヤ,スズメドウなどといわれる小さな小屋型の堂を置く風を生み出したのである。
執筆者:田中 久夫
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人の死後、埋葬するまでの間、近親者が小屋に忌み籠(ごも)ることが古代にあった。その詳細は明らかでないが、死者とともに隔離生活を送り、死を悲しむと同時に死の穢(けがれ)の拡散を防いだのであろう。その小屋を霊屋、喪屋(もや)、殯宮(もがりのみや)などといった。貴族、豪族の場合は、古墳を築造する期間を過ごした場所とも推定されるが、その期間はかならずしも一致しない。喪屋籠りの習俗は早くに消滅し、現在では通夜(つや)の諸行事が、その変化形式ではないかと推定されている。同様に現在も霊屋とよばれる墓上施設があり、喪屋の形式化したものと考えられている。現行習俗の霊屋は、埋葬した上に置く小屋形のもので、野位牌(のいはい)、灯明(とうみょう)、水、線香などを収める。簡単な屋根だけのものもあり、四角や六角のものもある。葬列で棺にかぶせたサヤ(龕(がん))をそのまま置くものもある。四十九日(しじゅうくにち)まで残したり、朽ちるまで放置したりする。モヤ、タマヤ、スヤ、サヤ、ヒヤ、ヤギョウなどとよばれて広く分布するが、概して西日本に多い。以上とは別に、寺院で檀家(だんか)の位牌を預かって供養する廟所(びょうしょ)を霊屋という。多くは永代(えいたい)供養を依頼するものであるから、関連があるとしても希薄である。
[井之口章次]
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…家康の神号が東照大権現であることから,この形式は権現造と称された。権現造のもとは神社建築であったが,霊屋(たまや)には宝形(ほうぎよう)造(屋根面が一つの頂点に集まる屋根形式)や入母屋造のものも多く,こちらは仏堂がもとになっている。近世の霊廟は神社と仏寺の形式を自由に採用し,また両者を折衷して新しい建築様式を確立した。…
※「霊屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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