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飯田忠彦 いいだ ただひこ

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美術人名辞典の解説

飯田忠彦

江戸後期の国史家。周防徳山藩士。字は子邦、通称要人・刑部・左馬、号黙叟・環山等。姓源。里見義十郎兼門の子。後河内八尾の飯田謙介の嗣となる。有栖川家に仕える。『日本野史』他著。万延元年(1860)歿、62才。

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デジタル大辞泉の解説

いいだ‐ただひこ〔いひだ‐〕【飯田忠彦】

[1798~1860]江戸末期の歴史家・勤皇家。周防(すおう)の人。安政の大獄で謹慎処分。その後、桜田門外の変で取り調べを受け自刃。著「大日本野史」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

飯田忠彦 いいだ-ただひこ

1800*-1860 江戸時代後期の歴史家。
寛政11年12月18日生まれ。もと周防(すおう)(山口県)徳山藩士。「大日本史」の続編の編修をこころざし,嘉永(かえい)5年「野史(やし)」291巻を完成する。また有栖川宮(ありすがわのみや)家につかえ,安政の大獄に連座し謹慎処分となる。桜田門外の変に関与した嫌疑をうけ,万延元年5月27日割腹した。62歳。字(あざな)は子邦。号は黙叟(もくそう),夷浜釣叟(いひんちょうそう)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

飯田忠彦

没年:万延1.5.27(1860.7.15)
生年:寛政10.12.18(1799.1.23)
江戸後期の有栖川宮家士。史学者。周防国(山口県)徳山城下に生まれる。本姓は里見氏。『大日本史』を読み発憤,独力で続史の編纂を企て,後小松天皇から仁孝天皇に至る歴代の天皇の伝記と臣下の列伝からなる史書『野史』(全291巻・1852)と,770家の系図を考証して収録する『系図纂要』103冊を著す。安政の大獄(1859)の際は,橋本左内に通じていた飯泉喜内と文通していたため有罪になり,押し込めになった。期満ちると隠棲したが,大老井伊直弼が暗殺されると,伏見奉行所に連行され,これに憤慨して自殺した。尊王の精神と学究が結合した努力の人物。<参考文献>武田勝蔵『贈従四位飯田忠彦小伝』,吉田常吉『安政の大獄』

(秋元信英)

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世界大百科事典 第2版の解説

いいだただひこ【飯田忠彦】

1799‐1861(寛政11‐文久1)
江戸後期の歴史家,志士。通称は初め要人,刑部,のち左馬。号は夷浜釣叟,環山,野史氏など。周防(すおう)徳山藩士生田十蔵の子として生まれたが,1821年(文政4)河内八尾の郷士飯田忠直の養子となった。有栖川宮家に仕え,常に尊王の大義を唱え,多くの勤王の志士と交わった。また《大日本史》を読み水戸光圀の偉業を継ぐことを計画,独力で《野史(やし)》291巻を完成して禁裏に献じた。60年の井伊大老暗殺事件について,再度の不審尋問を受けた際憤激して自殺。

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大辞林 第三版の解説

いいだただひこ【飯田忠彦】

1798~1860) 江戸末期の歴史学者・勤王家。周防すおうの人。「大日本史」を読んで感奮、独力で「野史」二九一巻を編む。桜田門外の変で取り調べを受け、憤激して自殺。他に著「諸家系譜」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

飯田忠彦
いいだただひこ

[生]寛政11(1799).12.18. 徳山
[没]万延1(1860).5.27. 江戸
江戸時代後期の国学者,歴史家。徳山藩士里見義十郎の子。河内国八尾の郷士飯田兼介に養われたが,のち離縁。通称要人。字は子邦。天保5 (1834) 年有栖川家に仕えたが,一定の職掌はなく,従来志望していた『野史』の編纂に専念。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

飯田忠彦
いいだただひこ
(1798―1860)

幕末の歴史家、志士。寛政(かんせい)10年12月18日、周防(すおう)国(山口県)徳山藩士里見義十郎の子に生まれ、のち河内(かわち)国(大阪府)八尾(やお)の郷士飯田謙介の養子となる。通称要人、刑部、のち左馬。字(あざな)は子邦、号は夷浜釣叟、環山、黙叟など。16歳のときに『大日本史』を読んで感激し、その続史の編纂(へんさん)を志した。独力で38年間を要し、1851年(嘉永4)ついに『野史』291巻を完成した。一方で有栖川宮(ありすがわのみや)家に仕え、しばしば時勢について上書し、志士と交わる。1858年(安政5)安政(あんせい)の大獄に連座して謹慎処分を受け、期満ちてのち、京都に隠棲(いんせい)中の1860年(万延1)、桜田門外の変で取調べにあい、憂憤のあまり自殺した。[高木俊輔]

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世界大百科事典内の飯田忠彦の言及

【野史】より

…別名《大日本野史》《日本野史》。国学者で勤王家の飯田忠彦の編。水戸藩の《大日本史》のあとを受け,後小松天皇(在位1392‐1412)より仁孝天皇(在位1817‐46)に至る420年余の歴史を,紀伝体・漢文で叙述する。…

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