日本歴史地名大系 「蒲御厨」の解説
蒲御厨
かばのみくりや
浜松市の東部、天竜川右岸の旧長上郡地区に成立した御厨。蒲間・鎌とも記された。室町期には奈良東大寺領となり、寛正六年(一四六五)に写された明徳二年(一三九一)頃の蒲御厨年貢公事銭注文写(東大寺文書、以下同文書は省略)によれば、
永保元年(一〇八一)六月一二日の遠江国牒(朝野群載)に蒲御厨とみえ、寛徳二年(一〇四五)起請以後の新立庄園であるとして延久元年(一〇六九)の新制に従い前司藤原為房により停廃されていたが、永保元年伊勢大神宮司は朝廷および遠江国衙にこの停廃は不当と訴えている。蒲氏家譜(蒲神明宮文書)には藤原鎌足一〇代の後裔にあたる藤原仲挙が開発したとみえる。なお「三代実録」貞観一六年(八七四)五月一一日条にみえる蒲太神は、当御厨の鎮守蒲神明宮にかかわるとする説もあるが不詳。「神鳳鈔」によると伊勢内宮(皇大神宮)領で五五〇町・三〇石を上納していた。皇大神宮が本家で、蒲氏は庄官となり、蒲神明宮の神官を兼ねて惣検校職となった。建久三年(一一九二)八月日の伊勢大神宮神領注文(神宮雑書)によれば、嘉承三年(一一〇八)に注文が作成され、永久年間(一一一三―一八)に宣旨を得ているので、この頃に復活した。建久三年当時の給主は内宮一禰宜成長らであった。辰馬悦蔵氏が所蔵する大般若経巻三一九は、奥書によると天承元年(一一三一)六月二八日に松尾社(現京都市西京区)の秦頼親の娘源氏が願主となり、蒲御厨の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報