一遍(読み)イッペン

デジタル大辞泉 「一遍」の意味・読み・例文・類語

いっぺん【一遍】[人名]

[1239~1289]鎌倉中期の僧。伊予の人。時宗じしゅうの開祖。法名は智真ちしん延暦寺に入り、太宰府法然の孫弟子聖達に浄土教を学ぶ。のち熊野参籠さんろう、霊験により一遍と号し、他力念仏を唱えた。衆生済度のため、民衆に踊り念仏を勧め、全国を遊行ゆぎょうした。遊行上人捨聖すてひじり円照大師

いっ‐ぺん【一遍】

一回。一度。「一遍乗ってみたい」→一遍に
ひとわたり。一部始終
理趣分をこそ―読み侍りしか」〈発心集
(名詞の下に付き、接尾語的に用いて)表面のみで、内実のこもらないさまを表す。「通り一遍のあいさつ」「義理一遍
[類語](1一度一回ひとたび一朝/(2一通り一渡り

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精選版 日本国語大辞典 「一遍」の意味・読み・例文・類語

いっ‐ぺん【一遍・一反】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 行為や事態の回数としての一度。一回。
    1. [初出の実例]「種子一斗五升、惣単功十四人半。耕地一遍」(出典:延喜式(927)三九)
    2. 「無二の懇念をいたして、若(もし)は十反、若は一反も唱へ給ふ物ならば」(出典:平家物語(13C前)一〇)
  3. 物事の始めから終わりまで。ひとわたり。一部始終。
    1. [初出の実例]「太子焼香披見。日別一二巻。至冬一遍了」(出典:聖徳太子伝暦(917頃か)敏達天皇七年)
    2. [その他の文献]〔魏志注‐賈達伝〕
  4. 空間的なある範囲の一方の端から他の端までの全体。そこらじゅう。ずっとひとわたり。一円。
    1. [初出の実例]「当国儀、太刀も刀も不入躰に而、一篇申付候間、可心易候」(出典:高野山文書‐(天正一二年)(1584)八月四日・羽柴秀吉朱印状)
    2. 「去て美濃国一篇に仰付けられ」(出典:信長公記(1598)首)
  5. 抵抗力がはたらく間もなく、たちまち事態が成り立つさま。すぐさま。いちどき。同時。→一遍に
    1. [初出の実例]「思ひがけない下卑た言葉が吐き出されたので一ぺんでいやになった」(出典:若い人(1933‐37)〈石坂洋次郎〉上)
  6. ( 名詞に付いて接尾語的に用いる ) 表向きだけで中に誠意のこもらない意を表わす。
    1. [初出の実例]「せめて来世の夫婦とおぼされて、をりをり一遍(イッペン)の御回向ねがひはべるぞかし」(出典:読本・昔話稲妻表紙(1806)五)
    2. 「親方も義理一遍(ペン)のやうにいふと」(出典:土(1910)〈長塚節〉一六)

いっぺん【一遍】

  1. 鎌倉中期の僧。時宗の開祖。諱(いみな)は智真。諡(おくりな)は円照大師。伊予の人。大宰府で証空の弟子聖達に浄土教を学ぶ。のち他力念仏を唱道。全国を巡り、衆生済度のため民衆に踊り念仏をすすめ、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)、捨聖(すてひじり)といわれた。延応元~正応二年(一二三九‐八九

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改訂新版 世界大百科事典 「一遍」の意味・わかりやすい解説

一遍 (いっぺん)
生没年:1239-89(延応1-正応2)

鎌倉中期の僧。時宗の開祖。諱(いみな)は智真。伊予国の豪族河野道広の子。河野氏は瀬戸内海の水軍を率いる有力な武士であったが,承久の乱で京方について没落し,一遍が生まれたころにはかつての力を失っていた。幼いときに寺に入り,1248年(宝治2)に出家して随縁と名のった。51年(建長3)大宰府に行き,法然の弟子として知られた浄土宗西山義の祖証空の門弟である聖達に師事して,仏教の学問につとめた。その間,智真と名を改めたが,63年(弘長3),父の死を聞いて伊予に帰り,還俗した。しかし,一族の所領争いなどが原因で再び出家し,九州の聖達を訪ねなどするうちに,71年(文永8),信濃国の善光寺に参詣したときに,独自の阿弥陀信仰を感得して〈二河白道(にがびやくどう)図〉を写した。伊予に帰った一遍は,窪寺(愛媛県松山市)の草庵で念仏を修し,念仏に対する信仰を深めて〈十一不二頌〉を作った。74年,妻と娘,かつての従者1人を同行として遊行(ゆぎよう)の旅に出て,布教の生活に入った。四天王寺高野山など当時浄土教の拠点となっていた所を巡ろうとした一遍は,さらに人々の間で阿弥陀の浄土に最も近い所とされていた紀伊国の熊野に赴き,本宮の証誠殿に参籠した。百日参籠の間に,一遍は,衆生の浄土往生は,信・不信,浄・不浄にかかわりなく,阿弥陀如来の名号によって定まったことであるから,ただひたすら〈南無阿弥陀仏 決定往生六十万人〉と記した札を人々にくばるようにという夢告を得た。この〈熊野権現の神勅〉によって,いっさいのものを捨てて阿弥陀如来にまかせきるという立場が確立したとし,のちにこのときを時宗開宗のときとするようになった。智真の名を一遍と改めたのもこのときである。一遍は同行と別れ,名号の札をくばる賦算(ふさん)を続ける旅に出,四国・九州・山陽を巡り,京都で布教を行ったのち,79年(弘安2),信濃国の伴野(長野県佐久市)を訪れたとき,空也の先例にならって踊念仏を催したが,それが予想外の人気を集めたため,その後一遍の赴く所では必ず踊念仏が行われて,数多くの庶民がそれに加わるようになった。

 遊行は奥州,関東と続き,82年には鎌倉に入ろうとしたが,幕府に阻止されて果たせなかった。こうした中で,一遍の宗教者としての人気はしだいに高くなり,84年に京都に入ったときには大歓迎を受け,結縁(けちえん)を願う人々は跡を絶たないありさまであった。京都を出た一遍は,山陰路から摂津国にまわり,播磨国の諸寺を訪ねるなどしながら賦算を続けたが,87年,備後国に行き,翌年には故郷に帰った。その後四国の各地を遊行し,89年8月23日,摂津国の和田岬(神戸市)の観音堂(のちの真光寺)で没した。その直前,所持していた聖教の一部を書写山に奉納し,残りの書籍類のすべてを焼き捨てたことは広く知られる。臨終にみずから聖教や記録を焼却した一遍の,生涯と思想を伝える資料はきわめて少ないが,おりにふれて語ったことばは《播州法語集》や《一遍上人語録》にまとめられ,各地を遍歴した遊行の生涯は《一遍聖絵》や《遊行上人縁起》(《一遍上人絵伝》)などによって伝えられている。

 一遍の信仰の核心は阿弥陀信仰であるが,ひたすら念仏を唱えようとする衆生の努力によって,阿弥陀如来の救いにあずかれると説く法然,阿弥陀如来の救いを信ずる心がおこったとき救いがきまると説く親鸞に対し,一遍は,救いは衆生の努力や阿弥陀如来の力によるのではなく,名号そのものにあると説き,ひたすら名号を唱えれば,阿弥陀如来と衆生と名号とが渾然一体となり,そこに救いの世界があると教えた。そこには,他力念仏の一つの極致が見られる。一遍は,そうした信仰を,名号札をくばる賦算と踊念仏によって広めようとしたが,名号札は救いの証拠として人々の心をとらえ,念仏踊は民衆に解放感と宗教的な心の高揚をもたらした。そして躍動する宗教心を広めるため,一遍は16年にわたる遊行の生活を送り,遊行の中ですべてを捨てる信仰を深めた。

 鎌倉時代のはじめ,比叡山の教学を批判する中からおこった鎌倉新仏教は,祖師の周囲に集まった人々の活動によって徐々に社会の各層の間に浸透していったが,活動の幅を拡大して広く民衆を救おうとしたとき,民衆の生活と密接に結びついている土着の信仰への対応を迫られた。鎌倉仏教の展開の最終段階に登場した一遍は,神祇信仰をはじめ,伝統的なさまざまな信仰を宥和し,その宗教的な力を幅広く吸収する中で,鎌倉時代の仏教の中で大きな流れとなった浄土教を純化し,土着化させることに成功した僧であった。一遍は教団を組織する意図を持たなかったため,時宗教団の形成は鎌倉新仏教諸宗の中でおくれたが,室町時代には大教団に発展し,各地の宗教的な活動に大きな影響を及ぼした。

 1886年に円照大師,1940年には証誠大師の勅諡号(ちよくしごう)が下された。20世紀に入ってからは,知識人の間に一遍を賛仰する人々が相次いであらわれた。
時宗
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「一遍」の意味・わかりやすい解説

一遍
いっぺん
(1239―1289)

鎌倉時代の僧。時宗(じしゅう)の開祖。諡(し)号は円照(えんしょう)大師。伊予(愛媛県)の豪族河野(こうの)氏の出身で、河野七郎通広(みちひろ)(?―1263)の子。現在、松山市道後湯月町の宝厳(ほうごん)寺門前に「一遍上人(しょうにん)御誕生旧蹟(きゅうせき)」の碑が立っている。幼名を松寿丸、のち通尚(みちひさ)と称した。10歳のとき母を亡くし、出家して随縁と名のった。14歳で大宰府(だざいふ)の浄土宗の西山流(せいざんりゅう)の僧聖達(しょうたつ)(生没年不詳)の門をたたく。聖達の紹介により、肥前(ひぜん)(佐賀県)清水(きよみず)の華台(けだい)に師事して浄土宗の教学を学び、華台の勧めにより名を智真(ちしん)と改めた。25歳で父の死にあい伊予に帰国。ここで妻をめとり在俗の生活を送りつつ仏に仕えていたが、親類縁者との間に生じた所領関係に絡む事件に巻き込まれたことがきっかけで、輪廻(りんね)の業(ごう)を断とうとして再出家を決意し、33歳の春信濃(しなの)(長野県)の善光寺に参詣(さんけい)し、二河白道(にがびゃくどう)の図を写す。図は煩悩(ぼんのう)のたとえである火と水の二河に挟まれたただ一筋の狭く細い白道が、念仏行者の歩むべき極楽浄土(ごくらくじょうど)へ至る道を表しており、それを故郷に持ち帰った智真は、窪寺(くぼでら)の庵室(あんしつ)に掲げて本尊とし、専修(せんじゅ)念仏の行(ぎょう)に入り、そこで得た信心の内容を十一不二偈(げ)に記した。十一不二とは、十劫(じっこう)の昔、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が正覚(しょうがく)を得て阿弥陀仏(あみだぶつ)となったとき、衆生(しゅじょう)の救済は約束されたのであるから、衆生は、ただ1回の念仏で往生できるという意である。

 36歳の2月、同行3人を伴って伊予国を出立、夏のころ熊野本宮証誠殿(くまのほんぐうしょうじょうでん)に参籠(さんろう)し、阿弥陀仏を本地とする熊野権現(ごんげん)の神託を受けた。神託によって智真は衆生の信不信、浄不浄の区別にこだわることのない念仏勧化(かんげ)の実践に確信を得、やがて新宮で「六字名号(みょうごう)一遍法」で始まる六十万人偈(げ)を感得して名を一遍と改め、「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と記した念仏算(ふだ)(念仏勧化の札)を賦(くば)る賦算(ふさん)の旅(遊行(ゆぎょう))を続けた。一遍は止住する寺をもたず、少数の弟子を同伴して全国各地を遊行したので遊行上人(1世)とも捨聖(すてひじり)ともいわれた。行く先々で民衆に念仏を勧め、所によってそれは踊念仏にまで高揚することもあった。正応(しょうおう)2年8月23日、遊行の途次、兵庫和田岬の観音堂において51歳で没した。現在、神戸市兵庫区真光寺に一遍の墓がある。一遍は臨終に所持の書籍などすべてを焼却したというから、著作は残っていない。後人の手により『一遍聖絵(ひじりえ)』『一遍上人絵伝』などの伝記と、二、三の『法語集』が編集された。

 一遍の教法の特色は、衆生(機・能帰(のうき))と阿弥陀仏(法・所帰(しょき))とを一体とみる(機法不二(きほうふに)・能所(のうしょ)一体)ところにある。この能所一体は南無阿弥陀仏と唱える名号において実現されると説く。また神祇(じんぎ)に対しても不拝を説く法然(ほうねん)(源空(げんくう))や親鸞(しんらん)とは異なり、一遍は神祇崇拝を肯定する。そのほか、西山教学の継承、真言密教の影響、禅との親近なども指摘されている。

[広神 清 2017年5月19日]

『大橋俊雄校注『日本思想大系 10 法然・一遍』(1971・岩波書店)』『大橋俊雄著『一遍』(1983・吉川弘文館)』『金井清光著『一遍と時衆教団』(1975・角川書店)』『今井雅晴著『時宗成立史の研究』(1981・吉川弘文館)』『河野憲善著『一遍教学と時衆史の研究』(1981・東洋文化出版)』


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朝日日本歴史人物事典 「一遍」の解説

一遍

没年:正応2.8.23(1289.9.9)
生年:延応1.2.15(1239.3.21)
鎌倉中期の僧。時宗の開祖。出家して随縁と称し諱を智真という。のち他力念仏にめざめて一遍と改めた。伊予(愛媛県)の有力武士,河野通広の子として生まれる。10歳のとき母と死別し,父のすすめによって出家し随縁と名乗る。建長3(1251)年13歳のとき九州に赴き,浄土宗西山派の証空の弟子,聖達に入門し,仏教の学問を修めたが,その間に智真と名を改めた。弘長3(1263)年,父の死をきいて伊予に帰り,還俗して家督を継いだ。しかし一族の所領争いなどで希望を失い,ふたたび出家して,文永8(1271)年信濃国(長野県)の善光寺に詣で,阿弥陀如来による救いを描いた「二河白道図」を書写している。その後,郷里にもどり,3年のあいだ窪寺(松山市)の草庵に籠もって念仏を修し「十一不二頌」を作った。十劫の昔に実現している弥陀の正覚と,衆生の現在の一念による往生は,一体のものでふたつのものではない(不二),という思想を詩にしたものである。このあと菅生の岩屋(愛媛県)に参籠し,修験的な行にも挑戦している。 文永11年は蒙古が襲来した年であるが,このとき36歳。超一,超二らをともなって念仏を勧化する旅に出た。超一,超二をその妻と娘とする見方があるが,そうだとすると女,子ども連れの遊行・漂泊の旅に出たことになる。四天王寺,高野山をへて熊野に詣で,本宮の証誠殿に100日の参籠をしているとき,衆生の浄土往生は信・不信,浄・不浄にかかわりなく阿弥陀如来の名号によって定まる,という熊野権現の夢告を受けた。それを機に名を一遍と改め,「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と記した札を人びとにくばる賦算の行を始めるようになった。時宗開宗の時点といってよい。 以後,九州,四国,山陽,京都の各地を巡り,41歳のとき信濃国の伴野(長野県佐久市)を訪れ踊り念仏を始めた。平安時代の空也の念仏にならったものだが,民衆の人気を博し,かれの遊行・伝道の生活に欠かせないものとなった。次いで奥州を巡って関東へと旅を続け,再度の蒙古来襲のあった翌年(1282)には鎌倉に入ろうとし,幕府にはばまれ果たさなかった。そのため藤沢から東海道に出て,弘安7(1284)年,ふたたび京都に入って熱狂的に受け入れられた。その後も四国,山陽道,山陰道と,とり憑かれたような行脚をつづけ,正応2(1289)年摂津国の和田岬(神戸市)の観音堂で息を引きとった。ときに51歳であった。その臨終の直前,聖教の一部を書写山に奉納し,そのほか一切の所持品を焼却している。生涯を文字通り一所不住の旅に過ごし,救いは南無阿弥陀仏の名号そのものにありとして,一切を放棄する捨て聖の境涯をつらぬいた。浄土信仰の極致をきり開いたといってもよく,踊り念仏の普及とともに民衆のあいだにダイナミックな宗教運動を展開した点で特筆される。『播州法語集』『一遍上人語録』『一遍聖絵』などによってその言行を知ることができる。

(山折哲雄)

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百科事典マイペディア 「一遍」の意味・わかりやすい解説

一遍【いっぺん】

鎌倉時代の時宗(じしゅう)の開祖。伊予国の豪族河野道広の子。諱(いみな)は智真(ちしん),遊行上人(ゆぎょうしょうにん)と称された。1271年信濃善光寺で阿弥陀信仰を感得,1274年より布教の生活に入った。勧進帳や念仏札を携え全国を遊行し,踊念仏を行った。教団を組織する意図がなかったが,室町期には大教団に発展し,大きな影響を及ぼした。諡(し)号は円照(えんしょう)大師。著書《一遍上人語録》《播州(ばんしゅう)法語集》。→一遍上人絵伝
→関連項目鎌倉仏教河野氏飾磨津清浄光寺浄土教白河関真光寺念仏仏教法語和讃

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「一遍」の意味・わかりやすい解説

一遍
いっぺん

[生]延応1(1239).2.15. 伊予
[没]正応2(1289).8.23. 播磨
鎌倉時代の僧。時宗の開祖。 10歳で母に死別し,その後天台を学び,13歳で九州の法然の浄土教の流れである西山派の聖達に師事。 36歳のとき (1274) ,四天王寺,高野山に詣で,熊野で熊野本宮証誠殿に参籠していたところ,「信,不信をえらばず,浄,不浄をきらはず,その札をくばるべし」という啓示を受け,念仏の札を配る念仏賦算の時宗が成立した。以後,13歳のとき改名した智真を一遍と改め,念仏賦算のため,諸国遊行の旅に出た。遊行上人 (ゆぎょうしょうにん) と呼ばれたゆえんである。一遍は,念仏の器には上,中,下の3種類があるといい,最も望ましい像は,妻子をもち家にありながら,しかもそれに執着しないで往生できるもの,それに対し,最も望ましくない形は,それまでの既成仏教のように,妻子も家も万事捨離した出家の形で往生すること,とした。ところで,一遍は妻子や家への執着から離れることができないので,万事を捨てて往生しようとした。ここに,理念のうえでは従来の価値観を逆にしたが,その実践では従来への復古となった。そこに,断食行とか入水往生などという古代仏教の復帰をみるのも当然の理といえる。死の2週間前頃,「一代聖教皆つきて,南無阿弥陀仏になりはてぬ」と述懐し,所持していたすべての書籍などを焼捨てた。そのため,一遍の著作は今日発見されていない。弟子たちの聞き書きである『播州法語集』『一遍聖絵』などによって,その思想を知るしかない。一遍の時宗はそののち,急速に全国に流布盛行したが,真宗の蓮如の段階で急速に衰えた。その理由を教理のないこととみる説がある。一遍は 10世紀の空也 (くうや) を先達とし,踊り念仏をすすめた。また,「捨聖 (すてひじり) 」とも称された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「一遍」の解説

一遍
いっぺん

1239.2.15~89.8.23

鎌倉中期の僧。時宗の開祖。諡号(しごう)は証誠(しょうじょう)大師。伊予国の豪族河野氏の出身。1248年(宝治2)出家して随縁と号し,51年(建長3)浄土宗西山義の聖達(しょうたつ)・華台に師事し智真(ちしん)と改名。その後一度還俗し,67年(文永4)再出家ののち,信濃善光寺への参詣,伊予窪寺での別行をへて,己心領解(こしんりょうげ)の法門である「十一不二頌(ふにのじゅ)」を感得して一遍と改める。74年紀伊国熊野本宮証誠殿(しょうじょうでん)に参籠し同権現の神託をうけ,よりいっそう他力念仏の深奥を理解する。日本全土を廻国巡礼(遊行(ゆぎょう))し,「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と刷られた算(ふだ)をくばり(賦算(ふさん)),踊念仏を修して人々に念仏を勧めた。その数は250万人に及んだという。兵庫和田岬(神戸市)の観音堂(現,真光寺)で死去。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「一遍」の解説

一遍 いっぺん

1239-1289 鎌倉時代の僧。
延応元年2月15日生まれ。時宗(じしゅう)の開祖。浄土宗西山派の聖達(しょうたつ)にまなぶ。信濃(しなの)(長野県)善光寺などに参籠(さんろう)し念仏往生をさとる。紀伊(きい)熊野権現(ごんげん)(和歌山県)で神託を得,全国を遊行(ゆぎょう)。踊り念仏をひろめ,おおくの庶民をはじめ公家,武家にもあがめられた。正応(しょうおう)2年8月23日死去。51歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。俗姓は河野。法名は智真。通称は遊行上人。諡号(しごう)は円照大師,証誠(しょうじょう)大師。

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旺文社日本史事典 三訂版 「一遍」の解説

一遍
いっぺん

1239〜89
鎌倉時代の僧で,時宗の開祖
法名知真。伊予の豪族河野通広 (みちひろ) の子。伊予で天台宗を修め,のち浄土宗を学ぶ。善光寺・高野山・熊野などを巡拝し,伊予に帰って時宗を開く。生涯自分の住む寺をもたず,勧進帳と念仏札を携えて全国を念仏遍歴し,神社信仰を利用し民衆に念仏踊をすすめて教化につとめたので,遊行上人 (ゆぎようしようにん) と称された。一遍は死にのぞみ所持する経典などを焼いたが,死後門弟により法語類を集成した『一遍上人語録』がある。

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普及版 字通 「一遍」の読み・字形・画数・意味

【一遍】いつぺん

ひと通り。

字通「一」の項目を見る

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367日誕生日大事典 「一遍」の解説

一遍 (いっぺん)

生年月日:1239年2月15日
鎌倉時代後期の時宗の僧
1289年没

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世界大百科事典(旧版)内の一遍の言及

【踊念仏】より

…踊念仏はこの方向で鎮魂舞踊に発展し,やがて盆踊ともなるが,一方では宗教的エクスタシーを味わうための宗教舞踊になった。これは一遍のはじめた時宗の行儀として有名であり,歓喜踊躍の踊念仏といわれる。また鎮魂舞踊の踊念仏は二つに分かれ,一つは死霊亡霊を鎮める大念仏や虫送り念仏,古戦場の供養念仏になった。…

【鎌倉[市]】より

…これは“辻説法”に象徴されているような,宗祖日蓮の積極的な布教の中心が,まず鎌倉の商工業・交易地や街頭と深いかかわりをもっていたことを示唆し,当時,日蓮の門弟たちの教えが,鍛冶番匠の宗教だと非難された事実を思い起こさせる。日蓮にややおくれて一遍もまた,鎌倉での布教にその運動の成否をかけようとしたが,幕府によって鎌倉入りを阻止され,結局は郊外の片瀬の地で多くの人びとを教化した。鎌倉仏教の興起と都市鎌倉は,やはり深い関連があったのである。…

【高野聖】より

…萱堂聖は法灯国師(臨済宗法灯派の派祖,心地覚心)によって結ばれ,唱導説経を特色とした。千手院聖は遊行聖一遍を祖として勧進にすぐれ,その経済力によって室町時代の高野聖はほとんど時宗化された。しかし室町時代末期になると,高野聖の宗教的機能が低下したばかりでなく品性も悪化し,世の嫌われ者になった。…

【時宗】より

…鎌倉時代におこった浄土教の一宗派。一遍を祖師とする。一遍は法然の弟子聖達に念仏の教えを学んだが,1日に6回,定められた時刻に念仏をとなえる集団を六時念仏衆,六時衆と呼び,一遍自身と弟子たちを一緒にして〈時衆〉と称した。…

【浄土教】より

…つぎの平安時代初期に樹立された天台宗の教団内に阿弥陀信仰の浄土教がおこり,とくに円仁が入唐して五台山に巡礼し法照の五会念仏にもとづく念仏三昧法を移入し,ついで源信が《往生要集》を著して地獄と極楽の詳細を描き出してから,浄土教の全盛時代を迎えるにいたる。平安末期から鎌倉時代にかけて,ひとえに善導によると称した法然は,源信の教義をも受けて専修念仏を強調し,《選択本願念仏集》を著して浄土宗を開き,その弟子の親鸞は《教行信証》を著して絶対他力の信仰を鼓吹し,浄土真宗の祖となり,また一遍は全国を遊行して念仏をすすめ時宗の祖とされる。彼らは,いずれも〈浄土三部経〉を所依の経典としたが,なかでも法然が《観無量寿経》を重視したのに対し,親鸞は《無量寿経》を,一遍は《阿弥陀経》を重んじた。…

【念仏】より

…空也は民間に念仏を広め,民間仏教史上に大きな足跡を残したが,その念仏は鎮魂呪術的な性格と機能をもったものとして民間に受容された。後世,一遍によって全国に広められた踊念仏の起源は空也念仏にあるとされるが,一遍の踊念仏にも死霊鎮送の性格がみられる。念仏は,源信らの二十五三昧結衆の起請文にもうかがわれるように,はやくから葬送や死者追善の儀礼と密接な関係をもっていたが,念仏が葬送・追善と結びつく一因は,念仏には罪障消除の功徳があると考えられたからである。…

【仏教】より

…彼は往生の当否は称名よりも,阿弥陀仏への絶対的な信心にあるとし(信心為本),しかも《歎異抄(たんにしよう)》のなかで〈善人なをもて往生をとぐいはんや悪人をや,しかるに世のひとつねにいはく,悪人なを往生す,いかにいはんや善人をや〉,阿弥陀仏の〈願をおこしたまふ本意,悪人成仏のためならば,他力をたのみたてまつる悪人,もともと往生の正因なり〉と,絶対他力と悪人正機の説を述べた。法然・親鸞におくれて元寇のころ,念仏門に新境地を開いたのが,時宗の宗祖一遍である。一遍は,念仏往生の鍵は信心の有無,浄や不浄,貴賤や男女に関係するのではなく,すべてを放下(ほか)し,〈空〉の心境になって,名号(みようごう)(念仏)と一体に結縁(けちえん)することにあると説いた。…

【遊行】より

…中世の高野聖,善光寺聖(善光寺),絵解聖(絵解き),熊野比丘尼らの遊行は,その奉じる寺社の信仰を勧めたが,一部で商人化,売笑化の道をたどった者もいた。 しかし,遊行聖の典型は,寺に住せず,踊念仏と賦算(ふさん)(念仏の札配り)の一生を送った時宗開祖一遍と,彼に従った時衆に見いだしうる。一遍没後は他阿真教が遊行上人となり,道場経営にも力を入れた。…

【遊行上人】より

清浄光(しようじようこう)寺(遊行寺ともいう)を拠点とし,回国する時宗の指導者の称。特に時宗の開祖一遍,その弟子で時宗遊行派の祖他阿真教をさすことも多い。遊行は,本来修行僧が衆生教化と自己修養のために諸国を巡歴することで,仏教の修行の主要なものの一つであった。…

※「一遍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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