駅売弁当の略であるが,停車時分の短縮と窓を密閉した車両の増加に伴い,車内でも販売されている。1885年7月15日,日本鉄道会社の新線(上野~宇都宮)開通のさい,同社の懇望で宇都宮の旅館白木屋(現,白木屋ホテル)が販売したのが始まりである。握飯2個にたくあんだけのタケの皮包みで金5銭は,ウナギ丼10銭という当時にしては割高であったが,列車回数が1日に2両連結の4往復(1982年の東北新幹線開通直前では少なくとも12両連結列車が約100往復)では,この価格でも採算割れであった。第2番目は3ヵ月後の信越本線横川駅,3番目は86年3月の同線の高崎駅であった。販売はいずれも駅舎内とホームの売店に限られ,車窓販売は97年ころの国府津駅(東海道本線)に始まる。初期の駅弁業は,鉄道建設時の労務者募集・用地提供・宿舎食事などの便宜供与といった協力にたいして,販売許可を与えられて開業したものが多く,今日の業者は世襲制による3代目,4代目も珍しくない。
駅弁販売は,その始まりから今日までまったく無休で行われており,完全休止は1923年9月の関東大震災時の被災地域内における列車不通の数日間にすぎず,第2次大戦時の空襲下でも販売された。内容,味ともに最低だったのは戦中戦後で,食糧管理法の規制で,外食券(1食分のグラム量を表示した回数券様式で各人に配布された)に現金を添えて買った。米飯はごく少量で副食はヒジキの塩煮だけ,またはふすまを混ぜたパンに,副食はカボチャとダイコン,ニンジンの葉の塩煮などで,肉も魚も皆無,それでもホームには風雨寒暑をいとわず長蛇の列ができた。その後に麦を材料とした人造米が規制外の主食として短期間だけ代用されたが,51年には鉄道旅客だけを対象に“等外米(くず米)”が各駅弁業者に限り特配されるようになり,このころから幕の内弁当も復活し,地方色豊かな,アイデアをこらした駅弁が現れ始める。握飯にたくあんだけの駅弁にとって代わる弁当らしい駅弁の第1号は,山陽鉄道会社線の神戸~姫路の山陽線部分開通の翌1889年(月日は不詳)に売り出された。包装もタケの皮から木の香り漂う経木の2段式折箱になり,かまぼこ,タイ,きんとん,伊達巻(だてまき),鶏肉,百合根,奈良漬などが入っていた。さらに3段式(副食が2段)のものも現れたが,その後は2段式が一般化した。大正時代には混雑の車内で立ったままでも食べやすいようにと上下2段の角を小さなかすがいで連結したものもあった。内容的にみると,関東以北の駅弁は関西に比べて著しく立ち遅れ,発祥地の宇都宮をはじめとして,唯一の副食のたくあんが梅干しに代わっただけという状態が大正末年ころまで40年も続いた。価格は最初の5銭から1888年に7~10銭になった。この価格は,米相場の高下に応じて毎月変動したものである。その後は,91年に12銭,97年ころからは並弁15銭,上弁30銭になり,この価格は1942年ころまで長く続いた。戦後になって,51年から80円,53年に100円,61年に150円と推移した。74年には300~400円が普通になったが,それに先立って72年3月東海道新幹線の岡山延長のさい初めての1000円駅弁が,しゃぶしゃぶ弁当の名で新神戸駅にお目見えした。
国鉄(1987年より民営化されてJRとなった)では駅弁を普通と特殊に大別する。前者は広範囲の嗜好に合うように調製した幕の内弁当,後者は米飯を主としてこれに特別の材料(肉・魚などの単一または複合加工品)を内容とするものときめている。第2次大戦前の特殊弁当は鶏飯か夏だけのアユずしであったが,1955年ころから〇〇飯,××ずしなどとうたった駅弁が各地に見られるようになり,代表格の“峠の釜飯”(信越本線横川駅)は58年2月に発売された。また同年同月,第1回全国駅弁大会が大阪市の高島屋で開かれ,以後駅弁大会は年とともに各地のデパートやスーパーへも伝わり盛況をみせている。1982年の駅弁の総点数は約1500,そのうち前記の特殊が1035で,すし類は521にのぼる。また,駅弁販売駅は345,業者は総数384を数える。年間の総売上高は約505億円で,各業者は売上額に応じて国鉄所定の営業料金を各鉄道管理局に納めている。なお,駅弁の包装紙には調製日時を明示し,3時間を超えたものは販売しないことになっている。
執筆者:藤野 英夫
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鉄道の駅構内で販売する弁当。1885年(明治18)7月18日上野―宇都宮間に日本鉄道会社が汽車を開通させた。その鉄道工事中に工事関係者に出す弁当を請け負っていた宇都宮市内の白木屋が、日本鉄道の委嘱を受けて旅客用駅弁を宇都宮駅で販売したのに始まるというのが、通説になっている。駅弁の名は昔も今も変わりはないのに、中身は現在のものとは大違いであった。最初の駅弁は、竹の皮包みの握り飯2個に沢庵(たくあん)漬けが2切れついているだけのもので、価格は金5銭であった。当時うな丼(どん)10銭、天丼はりっぱなエビが入っていて4銭の時代。駅弁が5銭という高値であったのは、当時汽車の本数、車両数が著しく少なく、1日4往復で、旅客数も限られ、駅弁の売れ行きは微々たるもので、赤字営業だったからである。それから半年後に信越線が開業し、横川駅の駅弁が始められ、3番目の駅弁は翌1886年3月に高崎駅で売り出された。明治末から大正の初めにかけて駅弁は普及し、味を誇るものが数多くできてきた。国有鉄道の時代になってから鉄道弘済会(こうさいかい)ができて、駅構内の物品販売を独占するようになったが、従来の駅弁は代々家業として営業しているのでその権利を尊重して、弘済会では飯物を取り扱わないことになっていた。1943~1950年(昭和18~25)の間は第二次世界大戦の戦中・戦後の時代で物資不足のために、駅弁の中身は貧弱きわまるものではあったが、それでもほとんど休まずに駅弁は存在した。食糧管理下にあったので外食券が必要だったり、代用食のパンにカボチャの葉の煮物がついた駅弁もあった。
現在のJR駅弁には「普通弁当」と「特殊弁当」がある。前者は米飯に魚、野菜、卵焼き、昆布巻きなどを配した一般向きの内容で、円筒形の握り飯がついていると幕の内弁当と名づけられる。元来幕の内弁当は江戸時代、歌舞伎(かぶき)見物の客が幕間(まくあい)に用いたもので、芳町(よしちょう)萬久(まんきゅう)という店が専業にしていたもの。幕の内とは煮しめのことをいったものだが、それに配する円筒形の握り飯をいつしか幕の内と称するようになった。この形態の駅弁は、1888年(明治21)山陽線が神戸から姫路まで延長したときに初めてつくられた。従来の竹の皮包みのものが経木(きょうぎ)に変わったのである。姫路駅の駅弁はこのように歴史も古く内容も優れており、いまでも人気がある。「特殊弁当」は、うなぎ、すし、とり飯などで、これには価格の少々高いものもある。かつての駅弁は郷土色が豊かで、その地方独特の産物を入れてあったので、見るだけでも楽しいものもあった。いまはそれが薄くなってきたが、駅弁の種類は多くなっている。
現在、駅弁の有名品としては、北海道函館(はこだて)本線森駅のいかめし、長万部(おしゃまんべ)駅のかにめし、奥羽本線米沢駅の牛肉どまん中、高崎線高崎駅のだるま弁当、信越本線横川駅の峠の釜(かま)めし、東海道本線静岡駅の鯛(たい)めし、北陸本線金沢駅のお贄(にえ)寿し、富山駅のますのすし、紀勢本線松阪駅の牛肉弁当、山陽本線広島駅のしゃもじかきめし、山陰本線鳥取駅のかに寿し、予讃(よさん)線松山駅の醤油(しょうゆ)めし、鹿児島本線鳥栖(とす)駅のかしわめしなどがある。
折詰め駅弁は、初め二段形式で飯と菜とが別折になっていたが、昭和年代になって一段式が一般化した。駅弁は、列車の構造形態の変化により、売り方も変わってきた。肩から大きな箱を下げて、車窓から客の手にすばやく渡す鮮やかなセールスぶりは、いまはほとんどみられなくなった。
JR以外に私鉄でも駅弁は販売されており、駅弁の種類は2000種以上とみられている。また、各種の集会用弁当や、デパートなどで行われる「駅弁大会」など、駅内商品にとどまらず、各方面に需要が拡大している。
[多田鉄之助]
外国では駅弁として食事の形を整えたものは少なく、多くは、サンドイッチなどの軽食を駅や車内で売っている程度である。数少ない例としては、肉、野菜、果物、パン、ワインの小瓶をセットにして紙袋に詰めたイタリアの駅弁がある。
[角田 俊]
『雪迺舍閑人著『汽車辨文化史』(1979・信濃路)』
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…芝居などの幕の引かれた間に食べることから幕の内と呼んだのがはじめで,現在の仕出し弁当の代表となった。1885年には駅弁が登場するようになった。弁当は地域ごとの日常食から,非日常の儀礼食の2系統があるが,都市において儀礼食が日常の弁当となるにつれ,その即席性と選択の多様性を商品化することにより,近代産業の重要なひとつの部分を占めるにいたった。…
※「駅弁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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