デジタル大辞泉 「フィリップ」の意味・読み・例文・類語
フィリップ(Philippe)
(4世)[1268~1314]カペー朝第11代のフランス王。在位1285~1314。教皇と対立し、三部会の設置、教皇庁のアビニョン移転などにより王権を拡大した。
(6世)[1293~1350]バロア朝初代のフランス王。在位1328~1350。在位中に、イギリス国王エドワード3世との間で王位継承をめぐって百年戦争が起こった。
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フランスの俳優。戦後フランス映画の代表的二枚目スターであるとともに,舞台では〈傷のないダイヤモンド〉と称賛されたほどの名優。南フランスのカンヌに生まれ,ナチ占領下のパリから南フランスに逃げてきた映画人たちに接して映画や演劇に関心をもち,舞台や映画に端役出演したのちパリのコンセルバトアール(国立音楽演劇学校)に学び,卒業後,舞台でカミュの《カリギュラ》(1945)の主役を演じて人気を不動のものにし,さらにラディゲの小説を映画化したクロード・オータン・ララ監督の《肉体の悪魔》(1947)でブリュッセル映画祭の最優秀男優賞を受賞して国際的なスターとなった。その後クリスティアン・ジャック監督《パルムの僧院》(1948),《花咲ける騎士道》(1952),ルネ・クレール監督《悪魔の美しさ》(1950),《夜ごとの美女》(1952),マルセル・カルネ監督《愛人ジュリエット》(1951),ルネ・クレマン監督《しのび逢い》(1954),クロード・オータン・ララ監督《赤と黒》(1954),ジャック・ベッケル監督《モンパルナスの灯》(1957),ロジェ・バディム監督《危険な関係》(1959)などに出演し,洗練された洒脱な演技と個性の魅力で圧倒的な人気を集めた。1951年以降はジャン・ビラール主宰の国立民衆劇場(TNP(テーエヌペー))に属して演劇に情熱をそそぎ,《エル・シド》《ハンブルグの王子》《ロレンザッチオ》などの名舞台を演じ,またハウプトマンの叙事詩を映画化した《ティル・オイレンシュピーゲルの冒険》(1956)を記録映画作家ヨリス・イベンスと共同監督している。しかし,ブニュエル監督《熱狂はエル・パオに達す》(1959)に出演したのを最後に心臓発作のため36歳で急死した。61年にはフランスで記念切手が発行された。なお,1953年に第1回フランス映画祭に出席するため日本を訪れ,そのとき見た日本映画の優秀さをフランスの映画史家ジョルジュ・サドゥールに熱狂的に話し,それがやがて日仏交換映画祭が開催される一つのきっかけとなったといわれる。
執筆者:柏倉 昌美
フランスの小説家。貧しい木靴工の息子として生まれ,父に死なれてからは母とともに物乞い生活をしたことさえある。貧弱な体格では当初志望の理工科大学への入学も不可能とわかり,文学の道を志すにいたる。パリではいろいろと零細な仕事を経た後に,バレスの口ききでパリ市の第7区役所に吏員としての職を得た。このような境遇からうかがわれるように,彼の作品の題材はつねに貧しい人たちの貧しい生活であり,それをイデオロギーの色眼鏡を通さずに,哀愁をこめて的確に描くのが,彼の小説家としての本領であった。当時のフランス文壇の支配的傾向であった象徴主義からも自然主義からも等しく遠い彼の作品は,後のポピュリスムの文学に道を開く態のものだった。作品に《四つの悲しい恋の物語》(1897),《やさしいマドレーヌと哀れなマリー》(1898),《母と子》(1900),《ビュビュ・ド・モンパルナス》(1901),《ペルドリ爺さん》(1903)などがある。
執筆者:若林 真
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フランスの小説家。中部フランスのアリエ県セリィに貧しい木靴職人の子として生まれる。病弱と貧困のため学業を断念、20歳でパリに出て市役所の下級職員となり、34歳で世を去るまでこの職にあった。初めはマラルメと文通するなど象徴主義に関心をもったが、やがてトルストイ、ドストエフスキーなどの影響を受け、社会主義思想の文芸誌『ランクロ』l'Enclosの同人となり、自己の体験に基づきながら、下層労働者・娼婦(しょうふ)など社会の底辺に生きる恵まれない人々の苦しみを描いていった。演劇をも愛し1897年「市民劇場」を主宰したが、たちまち官憲の弾圧を受けた。雑誌『NRF(エヌエルエフ)』にも創成期から参加し、ジッドらとも親交を結んだ。清新にして平易な文体と豊かな感受性をもってさまざまな大衆生活を描いた彼の文学は深い人間愛に根ざしており、ジロドゥー、ラルボー、ジャリなど肌合いを異にする作家たちからも高く評価された。代表作に、地方出の青年の一娼婦に対する悲しくも無力な愛を描いた『ビュビュ・ド・モンパルナス』(1901)があるほか、『母と子』la Mère et l'Enfant(1900)、『ペルドリ爺(じい)さん』le Père Perdrix(1902)などの中編小説がある。死後『小さき町にて』(1910)、『朝のコント』(1916)の短編小説集が出版されたが、いずれも職人・工夫・乞食(こじき)などの生活を気どりのない筆致で描いた珠玉の小品で、短編小説家フィリップの独特な魅力を伝えている。
[須藤哲生]
『淀野隆三訳『ビュビュ・ド・モンパルナス』『小さき町にて』『朝のコント』(岩波文庫)』▽『外山楢夫訳『若き日の手紙』(岩波文庫)』
カペー朝第11代のフランス王(在位1285~1314)。あだ名は端麗王le Bel。フィリップ3世の子。婚姻や封建法などにより、シャンパーニュその他を王領に加え、ローマ法の習練を積んだ法律顧問に補佐されて、強力な中央集権政治を実現した。即位当初、フランドルとギエンヌをめぐってイギリス王エドワード1世と争ったが不調に終わった。戦争による財政難に対処するため、聖職者課税を企図したが、この結果教皇ボニファティウス8世との間に深刻な対立を引き起こした。王はフランス身分制議会の始まりとされる三部会を開き(1302)、聖俗貴族や都市の支持を取り付けるとともに、兵を派して、ボニファティウス8世をアナーニの別荘に急襲させた(1303、アナーニ事件)。ボニファティウス8世の死後、新教皇クレメンス5世は王に屈し、1309年アビニョンに居を移した(アビニョン教皇庁)。また十字軍時代に各国の王侯の寄進によって富裕となっていたテンプル騎士団に着目し、この騎士団を解散させて、その所領や財産を没収し、国王の財庫を豊かにしようと図った。当時テンプル騎士団はフランスに本拠を移していたが、教皇によって王権外にたつ特権を与えられていたから、国王の集権政治にとって障害にもなっていた。王は教皇クレメンス5世の抵抗を抑えて、団長ジャコブ・ド・モレー以下の団員を異端として火刑に処した(1314)。
[井上泰男]
フランスのバロア家系第3代ブルゴーニュ公(在位1419~67)。あだ名は善良公le Bon。百年戦争中、1419年非業の死を遂げた父公を継いで、イングランド・ランカスター王家との同盟に踏み切る。翌年ランカスター王家とバロア王家の和平を斡旋(あっせん)し(トロアの和約)、1422年、イングランド王ヘンリー5世とフランス王女マルグリットとの間の子ヘンリー(アンリ)6世がたって両王家が合同すると、関心をネーデルラントに向け、その地の諸公伯領の領有を図った(ネーデルラント継承戦争)。その間、北フランスはヘンリーの叔父ベドフォード公ジョンが、ロアール川以南は廃嫡された王太子シャルル・ド・バロア(後のシャルル7世)の臨時政府が押さえ、いずれもフィリップの出方をうかがう態勢をとった。1428年ネーデルラントの取得が事実上なり、ここにブルゴーニュ公家の版図は南東フランスのブルゴーニュからネーデルラントにかけて帯状に形成され、昔の「ロタールの国」の再現を思わせた。しかし1429年オルレアンの攻防を経て、1435年アラスの和約にフィリップはシャルル7世と和解し、フランスの外に国家を建てる機会を自ら捨てた。「お人よし」を意味するあだ名の由来はここに求められる。彼の代、公国の財政規模はバロア王家を除いてヨーロッパ最大であり、彼はフランス王に臣従せず、まさに「西方の大公」の尊称にふさわしかった。しかし公国は国家としての一体性を欠き、彼の親フランス王家志向はネーデルラントの離反を招いた。
[堀越孝一]
カペー朝第7代のフランス王(在位1180~1223)。ルイ7世の子。あだ名オーギュストAuguste(尊厳王)はローマ皇帝の別称「アウグストゥス」に由来。「国王は王国の皇帝」とする立場から、フランス国王に対する神聖ローマ皇帝の優位を認めなかったといわれる。彼はカロリング朝の後裔(こうえい)イザベル・ド・エノーを妃としてカロリング朝との結び付きを強調し、王太子ルイを彼の生前から王位につけ、カペー朝の世襲制を名実ともに確立した。第3回十字軍にはイギリス王リチャード1世とともに参加したが(1190)、リチャードと不和になり帰国した。次のイギリス王ジョンのとき、父王ルイ7世の治世にプランタジネット家のものになっていた所領のうち、ノルマンディー、アンジュー、メーヌ、ポアトゥーなどを、封建法上の手続によって奪封した。ドイツ皇帝オットー4世と結んでこの処置に対抗したジョン王をブービーヌの戦い(1214)で破った。さらに余勢を駆って、イギリスのバロン層の反乱を機会に王太子ルイをイギリスに遠征させたが(1216)、これは失敗した。しかし、大陸では旧イギリス領の支配を確保したばかりか、オーベルニュやシャンパーニュをも王領に併合し、トゥールーズ伯とアルビジョア派に対する十字軍を支持して、南フランスにも王権を拡大する道を開いた。内政面でも、都市コミューンを認可することで都市領主の弱体化を図り、定期金知行(ちぎょう)(フィエフ・ラント)の政策によって多方面の封臣を獲得するなど敏腕を振るった。王領の新しい行政機構として注目されるのは、有給官僚のバイイを、これまでの世襲職のプレボの上位に置き、裁判の審級制を開始して、プレボの独立性を抑えたことである。後の高等法院や財務官房も彼の治世にその端緒が置かれたもので、カペー家の王政は拡大された王領の基礎のうえに飛躍的に発展した。
[井上泰男]
フランスの俳優。カンヌに生まれる。法律を学ぶが、映画監督M・アレグレの勧めで演技を習い、ニースのカジノ座で初舞台を踏む。パリに出てコンセルバトアールで演技を磨き、カミュの『カリギュラ』(1945)の主役で不動の地位を築き、1951年以降はTNP(テーエヌペー)(国立民衆劇場)の主演俳優として活躍した。映画では『白痴』(1946)で認められ、『肉体の悪魔』(1947)でスターの座を占め、以来もっぱらロマンチックな役柄で人気を集めたが、心臓麻痺(まひ)のため36歳で急逝。ほかに映画の代表作として、『花咲ける騎士道』『夜ごとの美女』(ともに1952)、『赤と黒』(1954)、『モンパルナスの灯(ひ)』(1957)、『危険な関係』(1959)など。
[登川直樹]
カペー朝第10代のフランス王(在位1270~85)。ルイ9世の子。大胆王le Hardiのあだ名があるが、実際には性格が弱く、廷臣たちの影響を受けやすかった。叔父でシチリア王を兼ねるアンジュー家のシャルルの対外政策を支持したが、シチリアの晩鐘事件(1282)でフランス兵が虐殺され、アンジュー家のシチリア支配が瓦解(がかい)してからは、彼がアラゴン十字軍の主役となり、アラゴン王ペドロ3世と戦うことになった。しかしカタルーニャでの戦いは、シチリアにもましてフランス側の惨敗に終わり、また疫病が軍隊内に流行して、王自身も1285年10月、ピレネー山麓(さんろく)のペルピニャンにおいてその犠牲となって没した。
[井上泰男]
バロア朝初代のフランス王(在位1328~50)。父はカペー王家のフィリップ4世の弟バロア伯シャルル。母は第二アンジュー家系のマルグリット。フィリップ4世の3人の息子が後継の男子に恵まれず相次いで死去したのち、1328年、フランス王選出の封建会議によって選ばれて即位。このとき候補者は複数あり、なかでもフィリップ4世の娘の子、イングランド王エドワード3世は有力であった。エドワード3世はいったんこの決定を認めながら、のち1340年、フランドルに進駐してフランス王を称した。百年戦争の端緒である。フィリップ6世は、スロイスの海戦に海軍を失い、1346年ノルマンディーに兵を入れたエドワード3世にクレシーで敗れ、翌年カレーを占領された。戦局は不利であり、加えて経済不況は物価の高騰と通貨の混乱を招き、財政難打開のために塩の専売特権を設定したのが、彼の唯一の業績であった。彼の死去した1350年は、黒死病(ペスト)がようやく魔の手を収めようとしているころであった。
[堀越孝一]
フランスのバロア家系初代ブルゴーニュ公(在位1363~1404)。フランス王ジャン2世の第4子。百年戦争のポアチエの戦い(1356)で、大胆公le Hardiのあだ名を得た。1363年にブルゴーニュ公領を授封され、さらに妃マルグリットの父でフランドル伯のルイ・ド・マールの死(1384)にあたり、その遺領フランドル、フランシュ・コンテ、ルテル、アルトアの諸伯領を加えた。フランス王の兄シャルル5世の死(1380)ののち、ブルボン公とともに、若きシャルル6世の摂政(せっしょう)として、フランス王国の政治を指導した。一族の巧妙な婚姻政策によって、ブルゴーニュ公家のネーデルラントへの拡張を準備した。1388年にシャルル6世の親政が始まったが、まもなく、王の狂気は本格的な精神錯乱となり(1392)、その摂政職およびイギリスやドイツに対する政策をめぐって、王弟のオルレアン公ルイと激しく対立した。
[井上泰男]
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…1360年のブレティニー・カレー条約までを第1期,1415年のアザンクールの戦,もしくは1420年のトロアの和約の前と後を第2期,第3期に分けることができる(図)。
[ブレティニー・カレー条約まで]
1337年,フランス王フィリップ6世(在位1328‐50)は,1328年に彼が即位したときイギリス王エドワード3世がアキテーヌ(ギュイエンヌ)公領について彼に立てた臣従誓約に不備があったと言いたてて,公領の没収を宣言した。エドワード3世はこれに対し,フィリップ6世を〈自称フランス王〉と呼び,フランス王の封臣としての立場を自ら解除した。…
…とりわけ,ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェとの結婚を通じて,シチリア王国がシュタウフェン朝の皇帝の手中に帰したことは,すべての反シュタウフェン政治勢力を結集せしめる結果となった。そして,1197年,ハインリヒ6世が2歳の王子(フリードリヒ2世)をシチリアに残して夭折すると,この機をとらえた教皇は諸侯を動かしてウェルフェン家のオットー4世Otto IV(在位1198‐1215)をドイツ国王に選出せしめ,これに対抗するシュタウフェン派は皇帝の末弟フィリップPhilipp(シュワーベン公)を擁立,ドイツは二重国王体制の混乱に陥る。 1208年,フィリップが私怨によって暗殺され,中心を失ったシュタウフェン家の勢力を再び興したのは,フリードリヒ2世であった。…
…
[スイスの宗教改革]
これより先,1522年以来,エラスムスとルターの影響下に,ツウィングリがスイスのチューリヒで市政府と提携しつつ宗教改革運動を展開し,この運動はバーゼル,ベルンなどにも広がっていた。ルター派のヘッセン方伯フィリップPhilipp der Grossmütige(1504‐67)は,ドイツのプロテスタントとツウィングリ派とを合同させようと図り,29年,マールブルクの居城で,ルター,メランヒトンらとツウィングリらスイスの改革指導者との宗教会談(マールブルク会談)を開かせたが,聖餐の典礼の解釈をめぐって両者は意見が合わず,合同の試みは挫折した。まもなく起こったスイスのカトリック諸州との戦争で,ツウィングリが31年に陣没したのち,この地の宗教改革は壊滅にした。…
… 1247年チューリンゲン方伯家の男系断絶ののち,ブラバント家のハインリヒ1世Heinrich I(1244‐1308)がヘッセン方伯となり,92年帝国諸侯に列せられた。方伯は1277年以降カッセルに居城を構え,ヘッセンに勢力を伸ばそうとするマインツ大司教と争いつつ支配圏を広げ,フィリップ寛仁伯Philipp der Grossmütige(1504‐67)の時代にその勢力は絶頂に達した。時あたかも宗教改革の時代,彼は1526年自国にプロテスタンティズムを導入するとともに,27年ドイツ最初のプロテスタントの大学としてマールブルク大学を創立,またルター派とカルバン派の仲介を試みるなどプロテスタント諸侯の中心として活躍した。…
…ヌベール,オーセール,マコンなどは分離して,それぞれ伯領をつくった。
【バロア家系ブルゴーニュ公家】
1361年,最後の当主フィリップ・ド・ルーブルの死後,直系の相続者を欠いた公領は,いったんフランスのバロア王家に吸収されたのち,1363年,王家当主ジャン(ジャン2世)の末男フィリップに与えられた。これがバロア家系ブルゴーニュ公家の起源である。…
…ビラールは主宰していたアビニョンの野外劇フェスティバルの方式をこの大ホール(座席数約2700)にも適用し,額縁舞台の慣習を打ち破り,チップ制を廃止し,観客組織を強化するなどして,ことに50年代,失われた原初の演劇の感動を今日の大観衆に分けもたせることに成功した。なお,これにはG.フィリップやM.カザレスら名優たちの活躍も大いにあずかっている。シェークスピア,コルネイユ,モリエール,クライストなど古典の読み直しと,ブレヒト劇のフランスへの紹介の功が特筆される。…
※「フィリップ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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