江戸中期の文人画家。享保(きょうほう)8年5月4日、京都の町人として生まれる。姓は池野、幼名又次郎、通称は秋平。名を耕、勤、無名、字(あざな)を子職、公敏、貸成と変え、号は子井(しせい)、為竜(いりゅう)、葭庵(かあん)、九霞(きゅうか)、九霞山樵(さんしょう)、霞樵(かしょう)、大雅、竹居、玉梅、三岳道者などとすこぶる多い。堂号は待賈堂(たいかどう)、大雅堂、袖亀堂(しゅうきどう)など。
父池野嘉左衛門(かざえもん)は京都の銀座役人中村氏の下役を務めた富裕な町人であったが、幼いころに死別、教育熱心な母の手で育てられた。数え年7歳のときに早くも宇治万福寺12世の杲堂元昶(こうどうげんちょう)からその能書を褒められるなど、神童と評判を得たほどである。絵は初め『八種画譜』などの中国木版画譜を通じて独学、15歳のときには扇絵(おうぎえ)を描いて生計の足しとするなど、若くしてすでに天賦の才能を示している。やがて中国の明(みん)・清(しん)の新しい画法、とりわけ南宗(なんしゅう)画法に傾倒して同好の士と本格的な研鑽(けんさん)を積み、大和(やまと)郡山(こおりやま)藩の文人画家柳沢淇園(やなぎさわきえん)の感化を受けながら、新進の画家として注目されるようになる。26歳のとき江戸から東北地方に遊んで得意とする指頭画(しとうが)に評判をとり、帰洛(きらく)後さらに北陸地方を遊歴、28歳の1750年(寛延3)には紀州藩に文人画の大家祇園南海(ぎおんなんかい)を訪れるなど、たび重なる遠遊に自然観察を深め、各地の一流の人物と交渉をもち、人格を陶冶(とうや)した。29歳のとき白隠慧鶴(はくいんえかく)に参禅、このころ祇園の歌人百合(ゆり)の娘町(まち)と結婚、真葛(まくず)ヶ原に草庵(そうあん)を結んだ。舶載された中国の画論や画譜、あるいは真偽取り混ぜた中国画蹟(がせき)を通じて独習し、来舶清人伊孚九(いふきゅう)の画法にことに啓発されながら独自の作風を確立した大雅は、30歳代以降、新興の文人画(南画)派の指導者と目されるに十分な目覚ましい活躍期へと入っていく。
大雅の作風は、単に中国の南宗画様式を忠実に模倣したものではなく、桃山以来の障屏画(しょうへいが)をはじめ土佐派や琳派(りんぱ)などの日本の装飾画法、さらには新知見の西洋画の写実的画法までをも主体的に受容し、総合したもので、のびのびと走る柔らかな描線や明るく澄んだ色彩の配合、さらに奥深く広闊(こうかつ)な空間把握をそのよき特徴としている。日本の自然を詩情豊かに写した『陸奥(むつ)奇勝図巻』(1749)や『児島湾真景図』、中国的主題による『山水人物図襖(ふすま)』(国宝、高野山(こうやさん)遍照光院)や『楼閣山水図(岳陽楼・酔翁亭図)屏風(びょうぶ)』(国宝、東京国立博物館)、『瀟湘(しょうしょう)勝概図屏風』などの障屏画、さらに文人画家の本領を発揮した『十便帖(じゅうべんじょう)』(与謝蕪村(よさぶそん)の『十宜帖(じゅうぎじょう)』とともに国宝)、『東山清音帖(とうざんせいいんじょう)』(瀟湘八景図扇面画帖)などの小品と、さまざまな主題や形式からなる品格の高い名作を数多く残している。また、おおらかな人柄を伝える俗気ない大雅の書も、江戸時代書道史にひときわ光彩を放つものとして評価が高い。また篆刻(てんこく)家にして画家の高芙蓉(こうふよう)、書家にして画家の韓天寿(かんてんじゅ)ととくに親密に交友し、白山、立山、富士山の三霊山をともに踏破して、その一部の紀行日記とスケッチを残している(三岳紀行)。門下に木村蒹葭堂(けんかどう)、青木夙夜(しゅくや)、野呂介石(のろかいせき)、桑山玉洲(くわやまぎょくしゅう)らを出し、さらに後進の多くに直接・間接の影響を与えて日本南画の興隆に大きく貢献した。なお、妻の町は玉瀾(ぎょくらん)(1728―1784)と号し、大雅風の山水画をよくする女流画家として聞こえた。安永(あんえい)5年4月13日没。
[小林 忠 2017年1月19日]
『田中一松他編『池大雅画譜』全5帙(1957~1959・中央公論美術出版)』▽『松下英麿著『池大雅』(1967・春秋社)』▽『吉沢忠著『池大雅』(1973・小学館)』▽『佐々木丞平著『日本美術絵画全集 18 池大雅』(1979・集英社)』
江戸中期の文人画家。祇園南海や柳沢淇園,彭城百川(さかきひやくせん)らのあとを受けて日本の文人画を大成した画家の一人。幼名を又次郎,のちに勤,耕,無名などと改め,字は公敏,子職,貨成などといった。大雅堂,待賈堂,九霞山樵,三岳道者,霞樵,玉海,竹居,子井,鳧滸釣叟などの号がある。京都西陣に生まれたと推定される。父池野嘉左衛門は京両替町の銀座役人中村氏の下役であったが,大雅4歳のとき死去,母と2人で住む。6歳の年,知恩院古門前袋町に移住,ここで香月茅庵に漢文の素読,7歳の年に川端檀王寺内の清光院一井に書道を学ぶ。また同年黄檗山万福寺に上り,第12世山主であった杲堂(こうどう)禅師や丈持大梅和尚の前で大字を書し〈7歳の神童〉と賞される。母子家庭ではあったが環境に恵まれ,万福寺への参内では異国情緒に接するなど,若年のころから文人的教養が植え付けられた。15歳の年にはすでに待賈堂,袖亀堂などと号して扇屋を構え,扇子に絵を描いて生計を立てていた。大雅の画家としての天賦の才を見いだしたのは柳里恭(柳沢淇園)である。20歳代の前半には文人画家として《渭城柳色図》などの本格的な絵をのこし,20歳代後半には真景図や中国画の学習において,前半生における一つの完成の域をみる。一方このころから富士,白山,立山から松島へ,さらには吉野,熊野などに,修験者を思わせるような旅をするが,こうした旅と,各地に居て幅広い文化の層の中心を形づくっていた素封家の存在が,大雅の人生と芸術を支えていたものと思われる。また高芙蓉,韓天寿の知己を得たことも彼が文人として成長する上に大きな影響を与えた。 大雅の絵が当時の画壇にあって革新的な意味をもったのは,なんといっても絵画空間の活性化にあった。狩野派,土佐派といった当時の官画系絵画にあっては,表現の形骸化が顕著であったが,大雅の弟子桑山玉洲は,大雅の絵の生き生きとした空間感覚やリアリティに富む表現はなによりも実景をよく学んだことによると指摘している。当時の画家たちの多くがたどったように,官画系画家への入門,そして中国から舶載された版本類の研究や指頭画の試みなどによって獲得したものを統一ある活性化へと導いたのは実景のもつリアリティへの志向であり,それは彼の旅と深くかかわっていたと思われる。40歳代前半の制作と思われる高野山遍照光院の襖絵《人物山水図》は,堅固な構築的構図,しっかりとした遠近法の中に描出された深々たる空間,一点一画のゆるぎない筆致や統一ある色感によって大雅様式の完成を示している。そのほかにも《十便図》(川端康成記念会),《楼閣山水図》(東京国立博物館)など主要作品は枚挙にいとまがないが,書家としての大雅もみのがすことはできない。流麗な中に堅牢な構築性を示す独特の書は,江戸書道史上有数のものである。また大雅の妻池玉瀾(1728-84)も閨秀(けいしゆう)画家として著名で,大雅の教えを受けながらも,その感性豊かな女性特有の柔和な様式は大いに人気を得た。
→十便十宜図
執筆者:佐々木 丞平
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1723.5.4~76.4.13
江戸中期の南画家・書家。名は勤・無名。字は公敏・貸成など。号は大雅堂・霞樵・三岳道者など多数。京都生れ。幼い頃から万福寺に出入りし,黄檗(おうばく)文化に親しむ。「八種画譜」にふれ,柳沢淇園(きえん)・祇園南海の影響をうけつつ南宗画法を身につける。琳派(りんぱ)や水墨画など伝統的な日本画や西洋画法などもとりいれながら,独自の南画様式を確立。与謝蕪村と並ぶ日本南画の大成者で,「山亭雅会図襖」や「楼閣山水図屏風」など明るい大気の広がりと深い空間表現をもつ大画面や,「東山清韻帖」「十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)」のような詩情あふれるものをのびやかな筆致とリズムで描いた。独自の書風で書道史上にも一角を占める。
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…日本文人画の大成者といわれる池大雅,与謝蕪村の合作。清初の文人李漁の別荘であった伊園での生活の良さ,便利さを賞賛した詩《十便十二宜詩》の詩意をくんで描いたもので,十便を大雅が,十二宜のうちの十宜を蕪村が描いている。…
…その意味では士大夫的性格をもった文人と考えてもなんら矛盾するところはなく,この日本における文人の系譜は,浦上玉堂,田能村竹田,渡辺崋山,といった画家達の血の中にも脈々と流れていたと考えられる。他方,同じく初期文人画家の一人である彭城百川(さかきひやくせん)や,日本における文人画の大成者といわれる池大雅,与謝蕪村などは,その生れや環境からして士大夫的といえるものではなかった。たとえば百川は名古屋の薬種商の生れであるし,大雅は京都銀座役人中村家の手代の子であった可能性が大きく,蕪村は大坂の淀川堤に近い毛馬村の地主の息子であったようである。…
※「池大雅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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