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池大雅 いけの たいが

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美術人名辞典の解説

池大雅

江戸中・後期の文人画家。京都生。名は無名、字は公敏・貸成、別号に烏滸釣叟・霞樵・竹居等。画扇屋を営みながら舶載の画譜などを通して中国南宗画を独学する一方、柳沢淇園や祗園南海の教えを受け、日本画の伝統と西洋絵画の表現法をとり入れて独自性と風格に富んだ画風を形成、日本南画の祖と呼ばれた。安永5年(1776)歿、54才。

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デジタル大辞泉の解説

いけ‐たいが【池大雅】

いけのたいが(池大雅)

いけ‐の‐たいが【池大雅】

[1723~1776]江戸中期の南画家。京都の人。名は勤(きん)、別号に霞樵(かしょう)など。柳沢淇園(やなぎさわきえん)祇園南海と交わり、清人の伊孚九(いふきゅう)の画法を学ぶ。日本南画の大成者とされる。また、書にもすぐれた。いけたいが。

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百科事典マイペディアの解説

池大雅【いけのたいが】

江戸時代の南画家。京都の人。名は勤,通称菱屋嘉左衛門。大雅堂,九霞山樵などと号す。《芥子園画伝》など当時舶載の木版画譜によって中国南宗画を学び,さらに琳派など日本の伝統画派や西洋画の画法を採り入れ,自由奔放で個性的な大雅様式を確立した。
→関連項目伊孚九飲中八仙指頭画蕭雲従席画万福寺万鉄五郎

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

池大雅 いけの-たいが

1723-1776 江戸時代中期の画家,書家。
享保(きょうほう)8年5月4日生まれ。妻は池玉瀾。15歳のころから扇屋,篆刻(てんこく)を業とした。柳沢淇園(きえん)の影響をうけ,文人画を独学。日本各地を旅し,詩情豊かな作品をうみだした。日本の文人画の祖。安永5年4月13日死去。54歳。京都出身。姓は池野。名は勤,無名。字(あざな)は公敏,貸成。通称は秋平。別号に大雅堂,九霞山樵。代表作に「山亭雅会図」「楼閣山水図」,与謝蕪村(よさ-ぶそん)との合作「十便十宜帖」など。
【格言など】照るといひ曇ると見るも世の中の人の心にありあけの月

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世界大百科事典 第2版の解説

いけのたいが【池大雅】

1723‐76(享保8‐安永5)
江戸中期の文人画家。祇園南海や柳沢淇園,彭城百川(さかきひやくせん)らのあとを受けて日本の文人画を大成した画家の一人。幼名を又次郎,のちに勤,耕,無名などと改め,字は公敏,子職,貨成などといった。大雅堂,待賈堂,九霞山樵,三岳道者,霞樵,玉海,竹居,子井,鳧滸釣叟などの号がある。京都西陣に生まれたと推定される。父池野嘉左衛門は京両替町の銀座役人中村氏の下役であったが,大雅4歳のとき死去,母と2人で住む。

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大辞林 第三版の解説

いけたいが【池大雅】

1723~1776) 江戸中期の南画家。京都の人。柳沢淇園きえん・祇園南海に師事。日本風な文人画を大成。代表作「山水人物図」「十便帳」など。いけのたいが。

いけのたいが【池大雅】

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

池大雅
いけのたいが

[生]享保8(1723).5.4. 京都
[没]安永5(1776).4.13. 京都
江戸時代中期の南画家。幼名を又次郎,名を耕,勤,無名 (ありな) 。字は子職,公敏,貸成。号は待賈堂,九霞,大雅堂,三岳道者,霞樵ほか多数。通称は秋平。姓は池のほとりに住したので池野,池と称した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

池大雅
いけのたいが
(1723―1776)

江戸中期の文人画家。享保(きょうほう)8年5月4日、京都の町人として生まれる。姓は池野、幼名又次郎、通称は秋平。名を耕、勤、無名、字(あざな)を子職、公敏、貸成と変え、号は子井(しせい)、為竜(いりゅう)、葭庵(かあん)、九霞(きゅうか)、九霞山樵(さんしょう)、霞樵(かしょう)、大雅、竹居、玉梅、三岳道者などとすこぶる多い。堂号は待賈堂(たいかどう)、大雅堂、袖亀堂(しゅうきどう)など。
 父池野嘉左衛門(かざえもん)は京都の銀座役人中村氏の下役を務めた富裕な町人であったが、幼いころに死別、教育熱心な母の手で育てられた。数え年7歳のときに早くも宇治万福寺12世の杲堂元昶(こうどうげんちょう)からその能書を褒められるなど、神童と評判を得たほどである。絵は初め『八種画譜』などの中国木版画譜を通じて独学、15歳のときには扇絵(おうぎえ)を描いて生計の足しとするなど、若くしてすでに天賦の才能を示している。やがて中国の明(みん)・清(しん)の新しい画法、とりわけ南宗(なんしゅう)画法に傾倒して同好の士と本格的な研鑽(けんさん)を積み、大和(やまと)郡山(こおりやま)藩の文人画家柳沢淇園(やなぎさわきえん)の感化を受けながら、新進の画家として注目されるようになる。26歳のとき江戸から東北地方に遊んで得意とする指頭画(しとうが)に評判をとり、帰洛(きらく)後さらに北陸地方を遊歴、28歳の1750年(寛延3)には紀州藩に文人画の大家祇園南海(ぎおんなんかい)を訪れるなど、たび重なる遠遊に自然観察を深め、各地の一流の人物と交渉をもち、人格を陶冶(とうや)した。29歳のとき白隠慧鶴(はくいんえかく)に参禅、このころ祇園の歌人百合(ゆり)の娘町(まち)と結婚、真葛(まくず)ヶ原に草庵(そうあん)を結んだ。舶載された中国の画論や画譜、あるいは真偽取り混ぜた中国画蹟(がせき)を通じて独習し、来舶清人伊孚九(いふきゅう)の画法にことに啓発されながら独自の作風を確立した大雅は、30歳代以降、新興の文人画(南画)派の指導者と目されるに十分な目覚ましい活躍期へと入っていく。
 大雅の作風は、単に中国の南宗画様式を忠実に模倣したものではなく、桃山以来の障屏画(しょうへいが)をはじめ土佐派や琳派(りんぱ)などの日本の装飾画法、さらには新知見の西洋画の写実的画法までをも主体的に受容し、総合したもので、のびのびと走る柔らかな描線や明るく澄んだ色彩の配合、さらに奥深く広闊(こうかつ)な空間把握をそのよき特徴としている。日本の自然を詩情豊かに写した『陸奥(むつ)奇勝図巻』(1749)や『児島湾真景図』、中国的主題による『山水人物図襖(ふすま)』(国宝、高野山(こうやさん)遍照光院)や『楼閣山水図(岳陽楼・酔翁亭図)屏風(びょうぶ)』(国宝、東京国立博物館)、『瀟湘(しょうしょう)勝概図屏風』などの障屏画、さらに文人画家の本領を発揮した『十便帖(じゅうべんじょう)』(与謝蕪村(よさぶそん)の『十宜帖(じゅうぎじょう)』とともに国宝)、『東山清音帖(とうざんせいいんじょう)』(瀟湘八景図扇面画帖)などの小品と、さまざまな主題や形式からなる品格の高い名作を数多く残している。また、おおらかな人柄を伝える俗気ない大雅の書も、江戸時代書道史にひときわ光彩を放つものとして評価が高い。また篆刻(てんこく)家にして画家の高芙蓉(こうふよう)、書家にして画家の韓天寿(かんてんじゅ)ととくに親密に交友し、白山、立山、富士山の三霊山をともに踏破して、その一部の紀行日記とスケッチを残している(三岳紀行)。門下に木村蒹葭堂(けんかどう)、青木夙夜(しゅくや)、野呂介石(のろかいせき)、桑山玉洲(くわやまぎょくしゅう)らを出し、さらに後進の多くに直接・間接の影響を与えて日本南画の興隆に大きく貢献した。なお、妻の町は玉瀾(ぎょくらん)(1728―84)と号し、大雅風の山水画をよくする女流画家として聞こえた。
 安永(あんえい)5年4月13日没。池大雅美術館(京都市西京区松尾万石町)は、少年時代から晩年までの作品、関係資料を数多く集め、常時展観している。[小林 忠]
『田中一松他編『池大雅画譜』全5帙(1957~59・中央公論美術出版) ▽松下英麿著『池大雅』(1967・春秋社) ▽吉沢忠著『池大雅』(1973・小学館) ▽佐々木丞平著『日本美術絵画全集 18 池大雅』(1979・集英社)』

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世界大百科事典内の池大雅の言及

【十便十宜図】より

…日本文人画の大成者といわれる池大雅,与謝蕪村の合作。清初の文人李漁の別荘であった伊園での生活の良さ,便利さを賞賛した詩《十便十二宜詩》の詩意をくんで描いたもので,十便を大雅が,十二宜のうちの十宜を蕪村が描いている。…

【文人画】より

…その意味では士大夫的性格をもった文人と考えてもなんら矛盾するところはなく,この日本における文人の系譜は,浦上玉堂,田能村竹田,渡辺崋山,といった画家達の血の中にも脈々と流れていたと考えられる。他方,同じく初期文人画家の一人である彭城百川(さかきひやくせん)や,日本における文人画の大成者といわれる池大雅,与謝蕪村などは,その生れや環境からして士大夫的といえるものではなかった。たとえば百川は名古屋の薬種商の生れであるし,大雅は京都銀座役人中村家の手代の子であった可能性が大きく,蕪村は大坂の淀川堤に近い毛馬村の地主の息子であったようである。…

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