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高嶺秀夫 たかみねひでお

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高嶺秀夫
たかみねひでお

[生]安政1(1854).会津若松
[没]1910
明治期の教育者。師範教育の功労者。慶應義塾などで英学を学んだのち,文部省よりアメリカオスウィーゴ師範学校に留学,ペスタロッチ主義 (→ペスタロッチ ) の教育学を学び,帰国後東京師範学校の校長となった。

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デジタル大辞泉の解説

たかみね‐ひでお〔‐ひでを〕【高嶺秀夫】

[1854~1910]教育家。会津の生まれ。米国オスウィーゴ師範学校に留学。ペスタロッチ主義による開発教育を唱えるとともに、東京師範学校などで日本の教員養成教育の改革に貢献した。著「教育新論」など。

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百科事典マイペディアの解説

高嶺秀夫【たかみねひでお】

日本で最初の本格的教育学者。会津藩の中流武士の家に生まれる。慶応義塾で英学を修め,同塾教員となる。1875年,伊沢修二らとともに師範教育調査のため米国に派遣され,オスウィーゴ師範学校に留学。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高嶺秀夫 たかみね-ひでお

1854-1910 明治時代の教育者。
嘉永(かえい)7年8月14日生まれ。慶応義塾にまなび,明治8年アメリカのオスウェゴー師範学校に留学,ペスタロッチ教育法を研究。帰国後東京師範校長,女子高等師範校長,東京美術学校長,東京音楽学校長を歴任。伊沢修二と協力,師範教育の確立につとめた。明治43年2月22日死去。57歳。陸奥(むつ)会津(あいづ)(福島県)出身。

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朝日日本歴史人物事典の解説

高嶺秀夫

没年:明治43.2.22(1910)
生年:安政1.8.15(1854.10.6)
明治時代の著名な教育者,教育学者。旧会津藩士,藩学日新館に学んで明治1(1868)年4月藩主松平容保の近習役,9月会津戦役をむかえる。謹慎のため上京,その後福地源一郎,沼間守一,箕作秋坪 の塾で英学などを学ぶ。同4年7月慶応義塾に転学して英学を修め,同8年におよぶ。この間,同5年に英学の授業を担当する。8年7月文部省は師範学科取り調べのため,3人の留学生を米国に派遣留学させることを決定し,高嶺秀夫,伊沢修二(愛知師範学校長),神津専三郎(同人社学生)が選ばれた。高嶺は,1875年9月にニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学,1877年7月卒業。この間,校長シェルドン,教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ,ジョホノットと交流を深めた。また,コーネル大学ワイルダー教授(アガシーの弟子)に生物学を学んだ。明治11年4月帰国,東京師範学校(筑波大学)に赴任後は精力的にオスウィーゴシステムの構築に努力,師範教育のモデルを創出した。その後,女高師(お茶の水女子大)教授・校長などを歴任した。<参考文献>『高嶺秀夫先生伝』,中川隆「東京師範学校における開発教授論の形成過程」(『日本の教育史学』18集)

(中川隆)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

たかみねひでお【高嶺秀夫】

1854‐1910(安政1‐明治43)
明治期の教育学者。会津藩の上級武士の出身。明治初年の会津戦争の敗北で,藩主近習役として藩主とともに明治政府に捕らえられ東京に引致された。釈放されたのち慶応義塾に入り,福沢諭吉らから英学を学ぶ。1875年福沢の推挙により,伊沢修二らとともに教員養成方法調査のためアメリカに留学。主としてオスウィーゴ師範学校(ニューヨーク州)で教育学,教授法,動物学などを修め,78年帰国し,伊沢とともに東京師範学校の内部改革に当たった。

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大辞林 第三版の解説

たかみねひでお【高嶺秀夫】

1854~1910) 教育者。会津出身。アメリカ、オスウェーゴー師範学校卒。東京師範学校、東京女子高等師範学校校長として明治期の教師養成教育を確立。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高嶺秀夫
たかみねひでお
(1854―1910)

教育家。師範教育の功労者。嘉永(かえい)7年8月15日会津若松城下(福島県会津若松市)に生まれる。慶応義塾に学び、1875年(明治8)文部省出仕、師範学科取調を命ぜられ、アメリカ、オスウェゴー師範学校に留学。1878年帰国し、東京師範学校で教育学、教授法、動物学を教えるかたわら、校長補として校長伊沢修二とともに、同校教則改正をはじめ、師範教育の改革に尽力。のち同校校長、高等師範学校校長、女子高等師範学校校長を歴任。ペスタロッチ主義に基づく開発教育を唱道し、明治初期の教授法に一大革新をもたらした。明治43年2月22日没。主著に『教育新論』全4巻(1886)がある。[三原芳一]
『高嶺秀夫先生記念事業会編『高嶺秀夫先生伝』(1921・培風館/1987・大空社)』

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