精選版 日本国語大辞典 「高嶺秀夫」の意味・読み・例文・類語
たかみね‐ひでお【高嶺秀夫】
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教育家。師範教育の功労者。嘉永(かえい)7年8月15日会津若松城下(福島県会津若松市)に生まれる。慶応義塾に学び、1875年(明治8)文部省出仕、師範学科取調を命ぜられ、アメリカ、オスウェゴー師範学校に留学。1878年帰国し、東京師範学校で教育学、教授法、動物学を教えるかたわら、校長補として校長伊沢修二とともに、同校教則改正をはじめ、師範教育の改革に尽力。のち同校校長、高等師範学校校長、女子高等師範学校校長を歴任。ペスタロッチ主義に基づく開発教育を唱道し、明治初期の教授法に一大革新をもたらした。明治43年2月22日没。主著に『教育新論』全4巻(1886)がある。
[三原芳一]
『高嶺秀夫先生記念事業会編『高嶺秀夫先生伝』(1921・培風館/1987・大空社)』
明治期の教育学者。会津藩の上級武士の出身。明治初年の会津戦争の敗北で,藩主近習役として藩主とともに明治政府に捕らえられ東京に引致された。釈放されたのち慶応義塾に入り,福沢諭吉らから英学を学ぶ。1875年福沢の推挙により,伊沢修二らとともに教員養成方法調査のためアメリカに留学。主としてオスウィーゴ師範学校(ニューヨーク州)で教育学,教授法,動物学などを修め,78年帰国し,伊沢とともに東京師範学校の内部改革に当たった。以来,東京師範学校・高等師範学校(東京)の中心的教員として,同校および教育界を指導するが,93年に文相井上毅と意見が衝突して高等師範学校長を辞し,のち97年から没するまで女子高等師範学校(東京)長の職にあった。彼は,帰国後1880年代にペスタロッチ主義に基づく新教授法〈心性開発主義教授法〉の普及につとめた。その著《教育新論》(1885)は開発主義の代表的理論書とされる。日本美術に関する造詣も深く,浮世絵のコレクター・研究者としてフェノロサと親しく,また,動物学者として東京大学理学部助教を兼ね,E.S.モースを助けた。旧会津藩士として,明治政府に批判的姿勢を保持し続けた異色の文化人であった。
執筆者:佐藤 秀夫
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(中川隆)
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