精選版 日本国語大辞典 「伊沢修二」の意味・読み・例文・類語
いざわ‐しゅうじ【伊沢修二】
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明治時代の文部官僚、国家教育の主唱者。号楽石(らくせき)。嘉永(かえい)4年6月29日信濃国(しなののくに)高遠(たかとお)藩士の家に生まれる。明治維新後、高遠藩貢進生として大学南校に入学、ついで文部省に出仕、1875年(明治8)師範学科取り調べのためアメリカに留学。ブリッジウォーター師範学校、ハーバード大学に学び、またグラハム・ベルに視話法を、メーソンに音楽を学ぶ。1878年帰国。以後文部官僚として近代公教育体制の確立に努めた。とくに師範教育、音楽教育、特殊教育、体操教育の創始・発展に多大の貢献をなし、教科書編纂(へんさん)にも尽力した。また国家教育の実現を主唱して、1890年国家教育社を創設し、翌1891年文部省を退官したが、以後国立教育期成同盟会(1892)、学制研究会(1894)を次々と組織、民間教育運動の中心人物として活躍。また初代台湾学務部長として植民地教育の創始にあたり、晩年には楽石社を創立して吃音(きつおん)矯正事業を行った。高等教育会議議員、貴族院議員。大正6年5月3日没。郷里の高遠公園内に記念碑がある。
[小股憲明]
『『楽石自伝教界周遊前記』(1912・伊沢修二君還暦祝賀会/1988・大空社)』▽『『伊沢修二選集』(1958・信濃教育会)』▽『上沼八郎著『伊沢修二』(1962/新装版・1988・吉川弘文館)』
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教育家。いくつもの分野での先駆者。信州高遠の出身。1870年貢進生として大学南校に入学,74年愛知師範学校長,付属幼稚園で唱歌遊戯を試みる。75年師範学科取調員として渡米,同地で音楽教育の重要性を知り,その旨を78年,文部省に建言。同年帰国,東京師範学校長として教員養成の改革に取り組む。79年建言が受け入れられ音楽取調掛(東京芸大音楽学部の前身)設立,掛長として,在米中に知ったメーソンLuther Whiting Mason(1828-96)を教師に招き,その協力を得て《小学唱歌集》(1882-84)を編纂(へんさん)。また日本最初の《教育学》と題する書物を刊行(1882),86年文部省編輯(へんしゆう)局長として《尋常小学読本》の作成を推進。87年初めて日食の観測に成功。88年音楽取調掛から発展した東京音楽学校の初代校長となる。官を辞した後,国家教育社を創設,忠君愛国の主義を鼓吹。日清戦争後は,台湾総督府の初代学務部長として,〈混和主義〉の立場に立って現地人の教育にあたる。晩年には吃音(きつおん)矯正に尽力。在米中,ベルに会い,完成した電話機で最初にベルと話したのは伊沢と伝えられている。自分の専門ではなくても,社会が必要とする領域には積極的に取り組み,展望を切り開いた転換期の指導者の一人であった。
執筆者:山住 正己
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(上沼八郎)
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1851.6.29~1917.5.3
明治・大正期の教育行政官。信濃国生れ。高遠藩藩校進徳館に学び,1870年(明治3)大学南校貢進生に抜擢される。74年愛知師範学校校長となり,75~78年に師範学科取調べのためアメリカに派遣され,メーソンに西洋音楽,ベルに聾唖教育法を学ぶ。帰国後,東京師範学校校長を務め,体操伝習所,音楽取調掛(のち東京音楽学校)などの創立にたずさわる。95年に台湾に渡り民政局学務部長となる。国家教育社や吃音矯正教育の楽石社を設立した。
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…フレーベルの教育思想に学んで始められたのだが,子どもの自発性を尊重するという,彼の教育思想の本質をとらえきれず,子どもの日常生活に無縁の雅楽をあたえる方式をとったので,全国に普及するにはいたらなかった。 音楽教育開始のための教材作成,教員養成は,79年設立の音楽取調掛(掛長伊沢修二)によって始められる。教材作成にあたっては,伝統音楽のみを継承する方針や西洋音楽一辺倒の方針を排し,和洋折衷の方針が採用された。…
…
【教授の学としての教育学】
〈教育学〉の語は中国から渡来したのではなく,ヨーロッパ語系のペダゴジー(ドイツ語ではPädagogik,フランス語ではpédagogie)の訳語として,1880年代から使用され始めた。この語を使用した最初の著作は伊沢修二著《教育学》(1882)である。この語はギリシア語起源で,子どもを導く人=パイダゴゴスpaidagōgosに由来しており,ペダゴジーは子どもの導き方を意味していた。…
…1932改訂)にいたる文部省の作成あるいは指定した歌を指す。音楽取調掛やその後身である東京音楽学校の編纂した唱歌集には,《蝶々(ちようちよ)》《才女(アンニー・ローリー)》《庭の千草》《埴生(はにゆう)の宿》《蛍の光》《霞か雲か》など,スコットランドをはじめ欧米の歌もとりいれられているが,唱歌作成の基本方針は和洋折衷であり,伊沢修二らが苦心の末,雅楽と洋楽を折衷し,旋律に第4度と第7度があまり登場しない5音音階でつくられることが多かった。当時,階名はヒフミヨイムナと呼んだので第4度と第7度のないものは〈ヨナ抜き〉といわれ,これが唱歌の中心をしめた。…
…1879年(明治12)に文部省の設置した音楽取調掛を拡充整備,87年,上野の東四軒寺跡地に開校した日本で最初の音楽専門学校。初代校長は音楽取調掛長であった伊沢修二。1年の予科の後,2年制の師範科,3年制の本科のいずれかの課程に進学させる方式をとった。…
※「伊沢修二」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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