日本の代表的な社会学者,経済学者,また歌人。社会学と近代経済学の両分野にわたって第一級の理論的大著を多く含む107冊の本,500点余の論文を書いた。現,佐賀県小城市の旧三日月町の旧家に生まれる。父は神職で農業も営んでいた。出生年1883年はマルクスの没年,シュンペーターとケインズの生年にあたり,高田自身これらの事実を生前しばしば口にし,またこの3人を強く意識して対抗意識を燃やしていた。京都帝国大学文学部社会学科で米田庄太郎に師事し,1910年卒業する。京都大学法科大学講師,広島高等師範(現,広島大学),東京商科大学(現,一橋大学),九州帝国大学法文学部,京都帝国大学経済学部(1938-39経済学部長)の教授を経て,43年民族研究所長となる。戦後は51年大阪大学経済学部,大阪府立大学経済学部教授(1957-59経済学部長),竜谷大学経済学部教授を歴任する。また3冊の歌集があり,64年には宮中御歌会の召人を務めた。65年文化功労者。京都で没する。
社会学者としては,デュルケーム,ジンメル,M.ウェーバー,マッキーバーなどの諸学説の吸収からスタートし,分業論に関する最初の著書から階級理論・勢力論の構築に進み,さらに社会学理論の中心部分をなす社会関係論および社会発展論で独創的な理論を提示し,また国家論および民族論を手がけた。いずれの分野においても,社会学を法則定立的,命題体系演繹的な科学に高めた最初の人であった。高田の階級理論および勢力論は,〈力の欲望〉と呼ばれる勢力欲求を仮設することから始まり,武力,権力,富力,文化力,威力という五つの勢力手段の相互依存,相互加速に関する諸命題の展開を内容としている。また,その階級理論および勢力論の動学理論は,社会変動の究極的原因は人口の増加に伴う社会的関係にあるとする〈第三史観〉テーゼに関する一連の命題仮説の構築から成っている。他方,社会関係論および社会発展論は,〈結合定量の法則〉と名付けられた独創的な仮説命題を出発点とし,これに社会的密度の増加についてのデュルケームの命題を組み合わせて演繹された多数の命題体系から成っている。
経済学者としては,L.ワルラス,パレートVilfredo Pareto,K.ウィクセルの一般均衡理論を日本において最も早い時期に吸収し,ミクロ経済学の理論体系を構築した。しかし経済学に先だって社会学の研究からその研究経歴を開始した高田は,社会学上の勢力理論を経済学にもちこみ,経済主体の合理的選択の仮定から数学的に演繹されるミクロ経済学の〈効用経済〉の世界は現実の分析とはほど遠い架空のもので,現実の経済の動きは〈勢力経済〉として説明されねばならないとした。この観点から,とりわけ利子論および賃金論に没頭し,これら経済学上の分配理論を社会学上の勢力理論,階級理論と結びつけようとした。また晩年はケインズ理論を吸収してマクロ経済学の理論の構築に向かったが,ここでも勢力理論をマクロ経済の分析に接合する努力を重ねた。こうして,日本における新古典派経済学の学祖であったが,同時に日本における新古典派経済学批判(市場の失敗論)の学祖でもあった。また日本で最も早い《資本論》(マルクス)の紹介者でもあり,さらに高田独自の社会学理論と経済学理論の両面からするマルクス批判の諸論点の展開者でもあった。主著に《社会学原理》(1919),《経済学新講》全5巻(1929-32)などがある。
執筆者:富永 健一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
社会学者、経済学者。明治16年12月27日、佐賀県に生まれる。1910年(明治43)京都帝国大学哲学科卒業。米田庄太郎(よねだしょうたろう)の指導を受け、大学院で研鑽(けんさん)後、広島高等師範学校、東京商科大学、九州帝国大学教授などを歴任。1929年(昭和4)京都帝大教授、民族研究所所長(1943~1945)を経て、第二次世界大戦後は教職追放になったが、1951年(昭和26)大阪大学教授として復職。1964年文化功労者となる。「高田社会学」とよばれる社会学の体系は、『社会学原理』(1919)、『社会学概論』(1922)、『社会関係の研究』(1926)などによって完成をみたが、終始、社会学を一特殊社会学として位置づけ、コントやスペンサーなどの総合社会学的傾向に反対した。社会を「有情者の結合」あるいは「不限定なる接触への用意」と規定、社会学を人間結合の学とみた。
社会構造および社会変動の説明としては、前者は、「群居性による同質化」と「力の欲求による異質化」の2原理を用い、後者については、「第三史観」すなわち人口の増加による変動を重視して唯物および唯心史観に対し、新しい原理を提示した。彼の結合社会学は、ドイツのフィーアカントやアメリカのマッキーバーなどにも影響を与えたほどであり、日本社会学界の偉大な先駆者として貢献するところが多かった。晩年は経済学者としてその研究に精力を注いだが、その『勢力論』(1940)も社会学的発想の基盤がある。そのほか『民族論』(1941)など多方面の活躍をしている。昭和47年2月2日死去。
[鈴木幸寿]
『『社会学原理』(1919・岩波書店)』▽『『社会学概論』(1922、1971・岩波書店/2003・ミネルヴァ書房)』▽『大道安次郎著『高田社会学』(1953・有斐閣)』
大正・昭和期の社会学者,経済学者,歌人 京都大学名誉教授;大阪大学名誉教授。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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…マッキーバーは,このような〈本能〉説と〈合理〉説のあいだのはてしない論議は避けるのが賢明であるとして,両者の中間に〈意志された関係willed relations〉という概念を立てることを提案し,これによって社会の形成を説明しうるとした(《コミュニティ》1917)。高田保馬は,マッキーバーのこの説を受けてこれを〈望まれたる共存〉と表現し,共存の欲求というものを仮説した。高田は,この共存の欲求には2種類のものがあるとし,その一つは他者との結合それ自体を求める〈結合のための結合〉,もう一つは目的達成のための手段として他者との結合を求める〈利益のための結合〉であるとして,上記の両説をそれぞれ位置づけた(《社会学概論》初版1922,改訂版1950)。…
※「高田保馬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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