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高田保馬 たかた やすま

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美術人名辞典の解説

高田保馬

社会・経済学者。佐賀県生。京大卒。社会学の体系化を企て、またマルクス主義に反対して人口論的立場から第三史観を提唱した。京大・阪大教授。民族研究所初代所長。文学・経済学博士。昭和47年(1972)歿、89才。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

高田保馬

佐賀県小城(おぎ)郡三日月村(現・小城市三日月町)生まれ。京都帝大や大阪大、大阪府立大で経済学部長を務めた。「社会学原理」「社会学概論」などの著書があり、社会学の発展に貢献したとして、1964年に文化功労者に選ばれた。歌人として約5千首の歌を残し、63年には「歌会始」の召人として招かれた。県立佐賀北高校など佐賀県内の11校の小中高校の校歌を作詞している。

(2011-09-29 朝日新聞 朝刊 阪神 1地方)

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デジタル大辞泉の解説

たかた‐やすま【高田保馬】

[1883~1972]社会学者・経済学者。佐賀の生まれ。京大教授。人々の結合を重視する立場から社会関係を分析。唯物史観に次ぐ社会学史観を提起。著「社会学原理」「勢力論」など。

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百科事典マイペディアの解説

高田保馬【たかたやすま】

社会学者,経済学者。佐賀県出身。京都帝国大学文科大学卒。東京商科大学(現,一橋大学),九州帝大,京都帝大,大阪大学の教授を歴任。社会学ではデュルケームジンメルウェーバーなど,経済学ではワルラスパレートウィクセルなどを早くから吸収しつつ,人口量や人口密度を動因として社会的〈結合〉の分化・発展を説く〈第三史観〉を唱え,経済学の分野でも〈勢力経済〉説を唱えるなど特異な立場をとる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高田保馬 たかた-やすま

1883-1972 大正-昭和時代の社会学者,経済学者。
明治16年12月27日生まれ。東京商大,九州帝大教授をへて昭和4年京都帝大教授。戦後阪大教授をつとめる。総合社会学を批判,独自の理論社会学体系を樹立,また近代経済学の導入につとめた。39年文化功労者。昭和47年2月2日死去。88歳。佐賀県出身。京都帝大卒。著作に「社会学原理」「階級及第三史観」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

たかたやすま【高田保馬】

1883‐1972(明治16‐昭和47)
日本の代表的な社会学者,経済学者,また歌人。社会学と近代経済学の両分野にわたって第一級の理論的大著を多く含む107冊の本,500点余の論文を書いた。現,佐賀県小城郡三日月町の旧家に生まれる。父は神職で農業も営んでいた。出生年1883年はマルクスの没年,シュンペーターケインズの生年にあたり,高田自身これらの事実を生前しばしば口にし,またこの3人を強く意識して対抗意識を燃やしていた。京都帝国大学文学部社会学科で米田庄太郎に師事し,1910年卒業する。

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大辞林 第三版の解説

たかたやすま【高田保馬】

1883~1972) 社会学者・経済学者。佐賀県生まれ。京大教授。勢力論を構築して、社会関係論を展開。また、一般均衡理論をいち早く吸収、利子論に貢献。著「社会学原理」「経済学新講」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高田保馬
たかたやすま

[生]1883.12.27. 佐賀
[没]1972.2.2. 京都
社会学者,経済学者。 1910年京都帝国大学哲学科卒業。 29年同大学教授。早くから貧農,人口,社会主義の問題に関心をもち,やがて社会学,経済学を専攻。日本に初めて近代的理論社会科学を導入し,独自の体系を打立てて大正,昭和の社会学界,経済学界に指導的地位を占めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高田保馬
たかたやすま
(1883―1972)

社会学者、経済学者。明治16年12月27日、佐賀県に生まれる。1910年(明治43)京都帝国大学哲学科卒業。米田庄太郎(よねだしょうたろう)の指導を受け、大学院で研鑽(けんさん)後、広島高等師範学校、東京商科大学、九州帝国大学教授などを歴任。1929年(昭和4)京都帝大教授、民族研究所所長(1943~1945)を経て、第二次世界大戦後は教職追放になったが、1951年(昭和26)大阪大学教授として復職。1964年文化功労者となる。「高田社会学」とよばれる社会学の体系は、『社会学原理』(1919)、『社会学概論』(1922)、『社会関係の研究』(1926)などによって完成をみたが、終始、社会学を一特殊社会学として位置づけ、コントやスペンサーなどの総合社会学的傾向に反対した。社会を「有情者の結合」あるいは「不限定なる接触への用意」と規定、社会学を人間結合の学とみた。
 社会構造および社会変動の説明としては、前者は、「群居性による同質化」と「力の欲求による異質化」の2原理を用い、後者については、「第三史観」すなわち人口の増加による変動を重視して唯物および唯心史観に対し、新しい原理を提示した。彼の結合社会学は、ドイツのフィーアカントやアメリカのマッキーバーなどにも影響を与えたほどであり、日本社会学界の偉大な先駆者として貢献するところが多かった。晩年は経済学者としてその研究に精力を注いだが、その『勢力論』(1940)も社会学的発想の基盤がある。そのほか『民族論』(1941)など多方面の活躍をしている。昭和47年2月2日死去。[鈴木幸寿]
『『社会学原理』(1919・岩波書店) ▽『社会学概論』(1922、1971・岩波書店/2003・ミネルヴァ書房) ▽大道安次郎著『高田社会学』(1953・有斐閣)』

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世界大百科事典内の高田保馬の言及

【社会】より

マッキーバーは,このような〈本能〉説と〈合理〉説のあいだのはてしない論議は避けるのが賢明であるとして,両者の中間に〈意志された関係willed relations〉という概念を立てることを提案し,これによって社会の形成を説明しうるとした(《コミュニティ》1917)。高田保馬は,マッキーバーのこの説を受けてこれを〈望まれたる共存〉と表現し,共存の欲求というものを仮説した。高田は,この共存の欲求には2種類のものがあるとし,その一つは他者との結合それ自体を求める〈結合のための結合〉,もう一つは目的達成のための手段として他者との結合を求める〈利益のための結合〉であるとして,上記の両説をそれぞれ位置づけた(《社会学概論》初版1922,改訂版1950)。…

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