高須賀村(読み)たかすかむら

日本歴史地名大系 「高須賀村」の解説

高須賀村
たかすかむら

[現在地名]谷田部町高須賀

下別府しもべつぷ村の西、小貝こかい川東岸の微高台地上に位置。村域の上原うえはら遺跡からは縄文土器・石器が出土。波奈はな遺跡には縄文土器が散布。熊の山くまのやま遺跡は集落跡で弥生土器が出土。真瀬熊の山ませくまのやま古墳群は円墳六基からなり、ほかに熊の山城跡・高須賀城跡がある。

文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「七百弐拾九石五斗仁升九合九勺 たかすか」とあり佐竹(東)義久領となっていた。江戸時代には天領で、寛政五年(一七九三)には竹垣直温が代官となった(竹垣君徳政之碑)が、「寛文朱印留」の麻生藩新庄氏領目録に「高須賀村入新田高」とあり、麻生藩領の村からの出作による新田があり、その分は麻生藩領となっていたと推測される。


高須賀村
たかすかむら

[現在地名]幸手市高須賀

外国府間そとごうま村の南、しま右岸の沖積地に位置する。村の中ほどを日光道中が通る。村の西方に天明六年(一七八六)洪水で生じたうち沼がある(郡村誌)。当地香取社の弘治三年(一五五七)銘の懸仏(所在不明)に「香取大明神高須賀」とみえる。江戸時代には葛飾郡幸手領に属した(風土記稿)。田園簿には高須加村とみえ、田二二石余・畑二〇〇石余、ほかに野銭永一一〇文があり、幕府領。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施された(「風土記稿」など)。延享三年(一七四六)三卿の一橋領となるが、寛政九年(一七九七)再び幕府領となり幕末に至る(同書など)


高須賀村
たかすかむら

[現在地名]亘理町荒浜あらはま

阿武隈川が大きく蛇行して海に注ぐ右岸にある。河口近くに亘理四ヵ浜に数えられる端郷の箱根田浜はこねだはま荒浜があり、その南側はとりうみである。「安永風土記」には、洪水や潮の干満にかかわらず水のかからない所とあり、これをもって村名の由来と記している。正保郷帳では田三〇貫五八七文・畑七貫一四七文で水損・旱損の注記がある。「安永風土記」では田二二貫六八九文・畑八貫五六八文で、一貫六一九文の新田分が蔵入地。残りは亘理伊達氏の知行地(うち新田五貫八二四文)。人頭一二人のうち寛永一九年(一六四二)の竿答百姓五人、百姓家数一六(うち水呑四)、男四四・女三〇、馬五。


高須賀村
たかすかむら

[現在地名]中村区角割かくわり町・牛田うしだ通・高須賀町

北を下中しもなか村と接する。天保村絵図によれば、集落は、ほぼ中央部に集まり、西端をやなぎ街道が通る。平行して中江なかえ用水が流れ、村の西は畑作が多く、東半分には田が広がる。「熱田初穂田」「伊勢初穂田」と記される熱田社領がある。「理趣釈口決抄」写本(真福寺蔵)の奥書に「於尾州愛知郡乍ノ郷高須賀大乗坊書写了貞治三年四月十四日」とみえる。高須賀の地名について、「府志」は、村内に高塚があることに由来するとし、「尾張志」「尾張国地名考」は、砂が集まった地(白洲)を須賀と称すると説明している。


高須賀村
たかすかむら

[現在地名]倉敷市高須賀

高沼たかぬま村の東に位置する。当初は旗本早島戸川領の高沼新田のうちとして開墾されたが、一応完成した延宝七年(一六七九)の翌年高須賀新田と高沼新田に区分された(岡山県農業土木史)。当初の開発人は大坂具足屋長右衛門であったが、諸新田年暦(早島町史)では早島はやしま(現都窪郡早島町)庄屋助左衛門の名が記され、具足屋が権利を放棄したのち助左衛門が開発人となったと思われる。元禄三年(一六九〇)早島戸川領添新田が開発され高須賀新田に編入された(「早島戸川役所日記写」納所文書)


高須賀村
たかすかむら

[現在地名]幸手市惣新田そうしんでん

惣新田村の西に位置する。惣新田高須賀村とも称した。葛飾郡幸手領に属した(風土記稿)。田園簿では高五九石余(皆畑)、ほかに新畑一九石余があり、下総関宿藩領。寛文期(一六六一―七三)も同藩領であったが(寛文朱印留)、元禄八年(一六九五)上野前橋藩主酒井忠挙が検地奉行となって武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施されており(「風土記稿」など)、この間に上知されたものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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