誕生寺(読み)タンジョウジ

デジタル大辞泉 「誕生寺」の意味・読み・例文・類語

たんじょう‐じ〔タンジヤウ‐〕【誕生寺】

岡山県久米郡久米南町にある浄土宗の寺。山号は栃社山。法然誕生の地に、建久4年(1193)弟子の蓮生(熊谷直実)が創建。産湯井戸などの遺跡が残る。
千葉県鴨川市小湊こみなとにある日蓮宗の寺。山号は小湊山。日蓮誕生の地に、建治2年(1276)日家にっけが佐久間重貞の外護を得て創建。元禄16年(1703)に現在地に移転。

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精選版 日本国語大辞典 「誕生寺」の意味・読み・例文・類語

たんじょう‐じタンジャウ‥【誕生寺】

  1. [ 一 ] 岡山県久米郡久米南町にある浄土宗の寺。山号は栃社(とちこそ)山。宗祖法然誕生の地にあたり、建久四年(一一九三)その弟子熊谷蓮生坊直実が創建。天正六年(一五七八)日蓮宗への改宗を拒否したため領主宇喜多直家により破壊されたが、元和八年(一六二二)深誉により再興された。
  2. [ 二 ] 千葉県鴨川市にある日蓮宗の寺。同宗霊跡寺院(大本山)。山号は小湊山。建治二年(一二七六)日蓮誕生の地に日家(にっけ)が創建。

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日本歴史地名大系 「誕生寺」の解説

誕生寺
たんじようじ

[現在地名]久米南町里方

浄土宗の特別寺院。栃社山と号し、本尊は法然木像。宗祖法然房源空の生誕地、源空の父漆間時国の邸跡とされる。寺域内外に、誕生椋、片目川、菩提寺ゆかりの樹齢八〇〇年という大イチョウ、源空が故里をあとにしてたどった古道など、源空の伝記や伝承で知られる遺跡が多くある。また柵原やなはら町の本山ほんざん寺は、源空の両親が子授けを祈願した寺と伝えられる。

当寺草創についての近世成立の所伝がいくつかある。その一つは元禄八年(一六九五)編の「蓮門精舎旧詞」誕生寺の伝で、そこでは草創について、源空生誕のときの奇瑞の一つ、漆間館西方の椋の大木に白旗二流が降ったことにちなんで、父の時国が椋の近辺に一宇を建立した。これを誕生寺と名付け、館の門前の天台宗浄土院の本尊釈迦如来像を移して本尊としたという。のち源空の浄土宗開宗の承安五年(一一七五)、上人自作の御影像が京都から当寺に送り下され、本堂に安置、前記の釈迦像は別に釈迦堂を建立して移したと伝える。元禄九年当寺住持の通誉連阿筆録の「栃社山浄土院誕生寺略記」(寺蔵)も、これと同様の所伝をのせる。第二の所伝は元禄四年成立の「作陽誌」の所説で、これは承安五年源空開宗の年、故郷に帰った源空が父の墓前にぬかずき、父の遺命に基づいて栃社の地に一宇を建てて栃社山誕生寺と名付け、父の護持した阿弥陀如来像を本尊に、また自作の御影像を寺に安置したことに始まるという。第三の所伝は元禄一六年京都知恩院の僧義山編修の「円光大師行状画図翼賛」の誕生寺の伝で、「何時何人ノ建立と云事、定カナラス、影堂ノ本尊ハ上人四十三歳ノ真形、三尺ノ坐像ノ木像ナルヲ、熊谷入道持参シ奉テ安置スル所、大師御自作ノ尊像ナリト申伝フ」とある。草創の時期を不明としつつも、御影堂本尊の源空像を四三歳の自作像とし、この像を熊谷直実が当地に持参したとする。


誕生寺
たんじようじ

[現在地名]天津小湊町小湊

国道一二八号の日蓮にちれんトンネル南方にある日蓮宗の霊跡寺院。小湊山と号し、本尊は十界大曼荼羅。小湊こみなと寺ともいわれる。建治二年(一二七六)日蓮の高弟日家が日蓮誕生の地を記念して高光山誕生寺として開創したと伝える。平成三年(一九九一)祖師堂に安置される日蓮坐像の胎内から願文・写経・薬草など中世から近世に至る多数の納入品が発見され、貞治二年(一三六三)八月二九日の日静願文をはじめとする貞治二年在銘の胎内納入文書群によって一四世紀中頃以前に当寺が開かれていたことが裏付けられている。なお日静願文に「夫□□□日蓮大菩薩於当国安房東条郡片□□□誕生有之、去貞応元年壬午」とあり、正慶二年(一三三三)頃の成立とされる日道の御伝土代(日蓮正宗歴代法主全書)には貞応元年(一二二二)二月一六日に日蓮は「あわの国なかさの郡東条片海郷海人ノ子」として生れたと記される。


誕生寺
たんじようじ

[現在地名]大門町島

しま集落の中央にある。長隆山と号し、法華宗本門流。本尊十界大曼荼羅。法華宗八品派の宗祖日隆(京都本能寺の創建者)が生地浅井あさい郷の当地に応永二二年(一四一五)創建したとされる。日隆は浅井城主桃井尚儀の次男として同城内で至徳二年(一三八五)に生れたという。開山は日隆でありながら自らは二代となり、初代には家臣中村元成(法号日永)を据えた。そのため当初は元成寺と称したが、三世日樹が本紹寺と改めた(大門町史)。慶長年中(一五九六―一六一五)前田利長の高岡在城中に高岡に移転するとともに本光ほんこう寺と改称し、当地の堂宇は誕生院、また島の番神ばんじん堂と称されていた。


誕生寺
たんじようじ

[現在地名]大宮町上岩瀬

御城山東泉院と号し、浄土宗。本尊は了誉聖冏。寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)によると、瓜連うりづら(現瓜連町)常福じようふく寺末寺で、「永正八年未八月廿日立申候」とある。この地は浄土宗七祖で常福寺中興の了誉聖冏の誕生地であった。「大日本地名辞書」には了誉について「世姓源氏、常州人也、父久慈郡岩瀬城主、白吉志摩守義満、母橘氏、暦応四年生焉」とあり、「白吉は白石の譌ならん」という。


誕生寺
たんじようじ

[現在地名]一志町大仰

産湯山と号し、天台真盛宗。本尊阿弥陀如来坐像。天台真盛宗の開祖真盛誕生の地であり、寺伝によれば明応四年(一四九五)二月晦日、真盛(円戒国師)死去の際、成願じようがん(現白山町)初代盛伝がその館跡に一宇を創立して華香けこう寺と号した。産湯山の由来は、真盛の誕生に際して使った産湯の井戸があったという伝承による。


誕生寺
たんじようじ

[現在地名]奈良市三棟町

三棟みつむね町南部に所在。異香山法如ほうによ院と号する浄土宗の尼寺。本尊中将姫。誕生堂・三棟殿みつむねでんともいう。寺伝によれば、寺号の由来は奈良時代横萩右大臣豊成の館があった所で、中将姫誕生の地というが、一説には古く釈迦誕生仏を安置したことによるともいう。文政九年(一八二六)に本堂が再建された(寺蔵文書)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「誕生寺」の意味・わかりやすい解説

誕生寺(岡山県)
たんじょうじ

岡山県久米(くめ)郡久米南(くめなん)町にある浄土(じょうど)宗の寺。栃社山(とちこそさん)浄土院と号する。浄土宗祖法然(ほうねん)(源空)の生誕の地に1193年(建久4)弟子の蓮生(れんしょう)(熊谷直実(くまがいなおざね))が創建したと伝える。円光大師(法然)二十五霊場の第一番とされる。のち領主宇喜多直家(うきたなおいえ)は念仏を忌み、日蓮(にちれん)宗徒とともに諸堂を破壊したが、宇喜多氏滅亡ののち住僧深誉(じんよ)らにより、知恩院の援助を受けて再建された。本尊は宗祖影像。境内は広く、御影(みえい)堂(本堂)、山門(以上、国重要文化財)、法然両親の尊廟(そんびょう)や産湯(うぶゆ)の井戸、誕生椋(むく)などがある。4月第3日曜日には法然両親追恩二十五菩薩(ぼさつ)大法要(練供養(ねりくよう))が営まれる。JR津山線誕生寺駅から徒歩10分。

[森 章司]

『高橋良和著『誕生寺』(1977・探究社)』


誕生寺(千葉県)
たんじょうじ

千葉県鴨川(かもがわ)市にある日蓮(にちれん)宗の寺。小湊山と号する。本尊は十界本尊。日蓮生誕の地に建てられた寺で、日蓮宗霊跡寺院の一つ。1276年(建治2)日蓮在世中、弟子寂日坊日家(じゃくにちぼうにっけ)、興津(おきつ)城主佐久間重貞(さくましげさだ)の外護(げご)により創建。1498年(明応7)津波のため流失し土地は海没(現在地の南西約300メートルの海中、蓮華潭(れんげたん)の地といわれる)、妙(鯛)ノ浦(たいのうら)に移転再建された。一時、不受不施(ふじゅふせ)派に属したが、受不施にかわり、寺領70石を給せられた。1703年(元禄16)ふたたび津波のため流出、徳川光圀(みつくに)の外護により宝永(ほうえい)年間(1704~11)現在地に建設された。その後、火災にあったが再建され、現在に至っている。祖師堂、本堂、竜王堂、誕生堂、太田堂などがあり、4月15、16日に千部読誦会(どくじゅえ)、2月16日に宗祖御降誕会、11月12日に御会式(おえしき)などが行われる。なお、寺の前はタイの群棲(ぐんせい)する鯛ノ浦

[田村晃祐]


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改訂新版 世界大百科事典 「誕生寺」の意味・わかりやすい解説

誕生寺 (たんじょうじ)

千葉県鴨川市の旧天津小湊(あまつこみなと)町にある日蓮宗の寺。山号は小湊山。1276年(建治2)日蓮の弟子寂月房日家(につけ)が日蓮誕生の地に建立したと伝える。1498年(明応7)地震と津波によって流失したため妙(たえ)の浦(鯛ノ浦)に再建,近世初頭正木頼忠,里見義頼が寺領を寄進しているから,これ以前にかなりの寺院になっていたことが知られる。17世紀初頭,日蓮宗内に不受不施・受不施の論争がおこると,当寺の日運は不受不施を主張して,誕生寺は関東における不受不施派の拠点の一つになったが,1665年(寛文5)日明は武蔵碑文谷(ひもんや)法華寺日禅,同谷中感応寺日誠らとともに幕府によって受不施に改めさせられ,寺領を与えられた。1703年(元禄16)大津波にあったのち,大中院日孝は徳川光圀の支援を得て現在地に移転して堂宇を再建したが,58年(宝暦8)類焼,1842年(天保13)一乗院日闡により巨大な祖師堂が再建された。境内に,日蓮誕生のおりに湧き出たという誕生井戸がある。
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誕生寺 (たんじょうじ)

岡山県久米郡久米南町にある浄土宗の寺。栃社(とちこそ)山浄土院と号し,浄土宗の開祖法然の生誕地に建てたもの。草創に関しては,父の漆間(うるま)時国が館の西の椋(むく)のそばに寺を建て,法然が43歳のとき自作の御影(みえい)を京都より送ったという寺伝があるが,確証はない。しかし,《法然上人絵伝》(知恩院本)に誕生寺の名が出てくるから,同書の成立した14世紀前半ころには建立されていた。法然生誕の聖地として崇敬をうけ,ことに領主原田氏の保護のもとに発展した。日蓮宗に帰依した宇喜多(うきた)直家から改宗を迫られ,1578年(天正6)日蓮宗徒が乱入して堂舎を破壊したが,1600年(慶長5)宇喜多氏の滅亡後,ときの住職深誉(じんよ)は復興にとりかかり,04年津山藩主森忠政から寺領50石の寄進をうけ,以後寺運は隆盛に向かった。法然上人二十五霊場の第1番で,毎年4月19日に法然の父母追恩のため二十五菩薩の練(ねり)供養が行われる。
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百科事典マイペディア 「誕生寺」の意味・わかりやすい解説

誕生寺【たんじょうじ】

千葉県天津小湊町(現・鴨川市)にある日蓮宗の寺。小湊寺とも。1276年日家が日蓮の誕生地の跡に創建したという。15世紀末津波で流失し,鯛ノ浦(妙ノ浦)へ移建。江戸中期にまた津波にあい,現在地に移る。徳川氏の帰依を受けた。18世紀中葉焼失したが,明治時代に修復した。
→関連項目天津小湊[町]鴨川[市]鯛ノ浦

誕生寺【たんじょうじ】

岡山県久米南町にある浄土宗の寺。熊谷直実(蓮生房)が法然の誕生地に創建したものとされるが,草創については所伝がいくつかある。1578年宇喜多直家が日蓮宗への改宗を強要したが従わず,ために日蓮宗徒によって破壊された。1601年御影堂を再建,以後堂宇を整えた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「誕生寺」の意味・わかりやすい解説

誕生寺
たんじょうじ

日蓮宗の寺。千葉県鴨川市にある。大本山。小湊山と号す。弟子の日家が建治2 (1276) 年に日蓮の故郷に創建したといわれ,日蓮を開山第一祖とした。江戸幕府の帰依が厚かったが,宝暦年間 (1751~64) に焼失,一時衰えたが明治に再建された。

誕生寺
たんじょうじ

浄土宗の寺。岡山県久米郡久米南町にある。栃社山と号す。熊谷蓮生房が建久4 (1193) 年に法然の誕生地に創建したと伝える。天正6 (1578) 年に日蓮宗徒によって諸堂を破壊されたが,本山の援助により再建された。

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デジタル大辞泉プラス 「誕生寺」の解説

誕生寺〔岡山県〕

岡山県久米郡久米南町にある寺院。浄土宗。山号は栃社山、院号は浄土院。1193年、法然上人が誕生した地に弟子の蓮生が創建したと伝わる。本尊は円光大師(法然上人)。御影堂、山門は国の重要文化財に指定。

誕生寺〔千葉県〕

千葉県鴨川市にある日蓮宗の寺院。「小湊誕生寺」とも。日蓮上人の生家跡に1276年に創建。1703年の津波被害の後、現在地の小湊に移転。1758年、大火により仁王門を残し全焼するが、再建。

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