江戸後期の国学者。初め柳村源太を名のったが、飛鳥井(あすかい)深澄、藤原太郎雅澄などとも称した。寛政(かんせい)3年4月27日(一説に20日)土佐藩士の家に生まれ、25歳のときから父にかわって下級武士として勤務。収税吏、門番、築山番、藩公の墓守などを務めた。薄禄(はくろく)で地位も低かったが、学才を認められ、1821年(文政4)31歳のときから藩公一族のため歌道、書道を講じ、また私塾を開いて藩の子弟を教育した。青年時代に藩の儒者宮地仲枝(みやじなかえ)の門人となったほかは、ほとんど独学で『万葉集』を研究、『万葉集古義』141冊を完成した。『万葉集』の本文の注釈95冊を中心とし、枕詞(まくらことば)解5冊、人物伝3冊、品物解5冊、名所考6冊などを含む大部な研究書で、ときに牽強(けんきょう)な解釈を施したところもあるが、用例を広く引き、綿密な調査によって創見を示したところもみられ、近世万葉学の集大成というべき書である。ほかに歌文集『山斎(さんさい)集』などがある。
[稲岡耕二]
『鴻巣隼雄著『鹿持雅澄と万葉学』(1958・桜楓社出版)』
(白石良夫)
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1791.4.27~1858.8.19
幕末期の国学者。土佐国土佐郡福井村出身で微禄の下級藩士。旧姓は柳村だったが,飛鳥井・鹿持と称した。通称源太,のちに藤太,号は古義軒・橿実(かしのみ)など。高知藩儒中村世潭(せいたん)に学び,国学を教授役宮地仲枝に学んだが,ほとんど独学で万葉研究に従事した。その集大成「万葉集古義」は141冊に及ぶ大著で,言霊(ことだま)の風雅によって万葉を解釈したもの。土佐勤王派として名高い武市瑞山(たけちずいざん)は妻の甥。
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…その後,京都に出た闇斎に谷秦山(谷重遠)が学んで復活し,史学,国学,暦学をあわせて〈谷家の学〉として伝えた。その土壌の上に武藤致和(むねかず)の《南路志》,鹿持(かもち)雅澄の《万葉集古義》などが生まれ,維新に連なる尊王思想が形成された。藩校として宝暦年間(1751‐64)に教授館(こうじゆかん)が,幕末にはそれに代えて文武館(のち致道館)が設けられた。…
…この期の民謡の歌詞は,都会地流行の歌謡とともに,《糸竹初心集》《淋敷座之慰(さびしきざのなぐさみ)》《大ぬさ》《松の葉》などに収められ,《大ぬさ》《糸竹初心集》には楽譜も記されている。しかし,純粋な民謡を集めたものとしては,《山家鳥虫歌》《鄙迺一曲(ひなのひとふし)》,鹿持雅澄(かもちまさずみ)編の《巷謡編》(1835)などが有名である。いずれにしても近世では,三味線や尺八を伴奏とする民謡が多くなったことと,それらの楽器の影響を受けて民謡が音楽的に変化したこと,7・7・7・5調の歌詞が多くなったことなどが注目される。…
…注釈書。鹿持雅澄(かもちまさずみ)の著。1844年(弘化1)ころまでに成る。…
※「鹿持雅澄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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