日本経済史上初めての大々的な重化学工業化が展開した1930年代に,主として新興の重化学工業を事業基盤にして簇生(そうせい)した企業集団。日産コンツェルン,日窒コンツェルン,森コンツェルン,日曹コンツェルン,理研コンツェルンに与えられた名称で,新興コンツェルンとも称される(〈企業グループ〉の項参照)。三井,三菱,住友をはじめとする既成の財閥が株式,社債等による外部資金の調達に消極的であったのに対して,外部資金の調達に積極的であった点が新興財閥に認められる特徴である。新興財閥の本格的研究は1970年代に入ってようやく開始されたにすぎず,未解明の点が数多く残されている。たとえば,五つの企業集団を新興財閥(コンツェルン)という名称の下に一括する理論的根拠すら,いまだに提示されていないのが現状である。
新興財閥という名称は1930年代のジャーナリストが与えたもので,学術用語としては批判的検討の余地がある。当時は注目すべき企業集団の簇生に直面して,その理解の手がかりを既成の財閥に求め,五つの企業集団を既成の財閥に対する新興の財閥と把握したのであろう。ところで,財閥の特徴は第1に,多角的にさまざまな事業を営む多数の子会社の株式を所有する持株会社を頂点とするコンツェルンという企業形態をとる企業集団であった。持株会社は企業集団全体の利害という観点から,個々の傘下企業を統轄管理した。第2に,持株会社は財閥家族の独占的出資によっていただけでなく,主要子会社については持株会社が株式の100%を掌握しており,排他的であった(資本の封鎖性)。このような財閥の特徴に照らして五つの企業集団を検討してみると,コンツェルン形態をとり,しかも持株会社が統轄管理機能を発揮した例は日産と日窒だけである。また五つの企業集団はすべて株式を公開しており,特定の家族の独占的出資の下におかれていた例は一つとしてない。したがって学界に定説化している財閥理解からすれば,五つの企業集団を財閥に分類することは不可能である。
財閥は1937年以降,戦時経済下における膨大な投資資金の必要に当面すると資本の封鎖性が桎梏(しつこく)となり,資金調達のため持株会社,傘下子会社の株式を限定的とはいえ公開せざるをえなくなる。それにしても持株会社は傘下子会社の資金需要に十分こたえることができず,この面から持株会社の統制力が低下し,コンツェルン体制は変容する。つまり,重化学工業を担う企業形態としてコンツェルンは必ずしもふさわしいものではなかったのである。一方,みずからの金融機関をもたず,当初から外部資金依存の資金調達を行っていた五つの企業集団は,戦時経済下における財閥の株式公開を先取りしていたといえよう。また,五つの企業集団の経営者はコンツェルンという企業形態による発展を念頭においていたようであるが,多くは挫折するか,日産のように崩壊していることは,戦時経済下における財閥の変容を予見させるものでもあった。このように五つの企業集団の動向が財閥の戦時経済下における変容を先取りする,あるいは予見させるものであったということは,五つの企業集団を財閥という概念から解放された企業集団として把握すべきことを示唆しているといえよう。その際,敗戦後の財閥解体措置により財閥のコンツェルン体制は崩壊し,同時に旧財閥系企業は封鎖的支配からも解き放たれて,高度経済成長期にいわゆる〈企業集団〉として再編成されるのであるから,戦後も視野におさめた座標軸で五つの企業集団を論ずべきである。
→財閥
執筆者:大塩 武
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
明治・大正期に基盤を確立した三井、三菱(みつびし)、住友などの既成(旧)財閥に対して、満州事変前後から日中戦争期にかけて勃興(ぼっこう)した企業集団をいう。新興コンツェルンともよばれた。その代表的コンツェルンは次の五つである。
(1)日産コンツェルン 大正末年破綻(はたん)に瀕(ひん)した久原(くはら)房之助の事業再建を引き受けた義兄鮎川義介(あいかわよしすけ)が、1928年(昭和3)久原家の中核企業である久原鉱業を公開持株会社日本産業に改組したのが起点。その傘下に久原、鮎川親族の支配下にある諸企業を中心とする既存企業を吸収あるいは新設し、1937年ごろまでに三井、三菱両財閥に次ぐ一大コンツェルンを形成した。さらに同年末には日本産業を「満州国」に移転させ、満州の産業開発にあたった。
(2)日窒(にっちつ)コンツェルン 野口遵(したがう)が1908年(明治41)日本窒素肥料を設立したことに始まる。日本最初の硫安、合成アンモニア生産に成功したのち、豊富・低廉な電力を求めて朝鮮に進出し、日本、朝鮮にまたがる電気化学工業中心のコンツェルンを形成した。
(3)森コンツェルン 森矗昶(のぶてる)が鈴木三郎助の支援を得て、1926年(大正15)日本沃度(ようど)、1928年(昭和3)昭和肥料の2社を設立。前者でアルミニウムの国産化、後者で国産技術による合成アンモニアの生産に成功し、それらを足場に電気化学、冶金(やきん)工業中心のコンツェルンを形成した。
(4)日曹(にっそう)コンツェルン 中野友礼(とものり)が自分の特許「食塩電解法」の企業化のため1920年(大正9)日本曹達(ソーダ)を設立したことに始まり、ソーダ工業を起点に鉱業、鉄鋼、人絹などに事業網を拡大してコンツェルンを形成した。
(5)理研コンツェルン 理化学研究所(1917設立)の3代目所長大河内正敏(おおこうちまさとし)によって、同研究所の資金確保とその研究成果を工業化する目的の下に形成された。
既成財閥が金融、商事、鉱工業などを手広く経営するコンツェルンであったのに対し、これら新興財閥は重化学工業、電力事業に基盤を置くコンツェルンであり、新技術の企業化や朝鮮、満州などの植民地への進出、あるいは新しい経営理念の提唱などに熱心で、満州事変以後の重化学工業勃興(ぼっこう)のなかで積極的に事業網を拡大し、有力な経営体に成長した。しかし、新興財閥は資金的基盤が脆弱(ぜいじゃく)で、戦時統制経済の進展に伴って既成財閥との競争も激化し、さらに植民地への進出も、戦局の悪化によって成果をあげることができず、しだいに弱体化していき、戦後の財閥解体で崩壊した。
[宇田川勝]
『宇田川勝著『新興財閥』(1984・日本経済新聞社)』
満州事変後の重化学工業化進展の過程でうまれたコンツェルンのこと。松下電器グループや中島飛行機グループを含める場合もあるが,一般的には鮎川(あいかわ)義介のつくった日産,野口遵(したがう)の日窒,森矗昶(のぶてる)の森,中野友礼(とものり)の日曹,大河内正敏の理研の5グループをさす。持株会社の株式が公開され,資金調達の中心は株式市場だったこと,重化学工業中心の企業集団で,傘下企業相互間に技術的関連をもっていたことなどの特徴があり,戦時下の国策に対応して,朝鮮・満州などに積極的に進出した。持株会社の株式が一族のみの所有で,傘下の金融機関に資金調達を依存する三井や三菱などの既成財閥とは著しく異なっていた。太平洋戦争の戦時体制下で再編され,戦後解体。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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