日産コンツェルン(読み)にっさんこんつぇるん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「日産コンツェルン」の意味・わかりやすい解説

日産コンツェルン
にっさんこんつぇるん

昭和初年に勃興(ぼっこう)した新興財閥の代表的存在。鮎川義介(あいかわよしすけ)が第一次世界大戦後破綻(はたん)を呈した義弟久原(くはら)房之助家の事業経営を引き受け、1928年(昭和3)久原家の中核企業である久原鉱業を公開持株会社日本産業株式会社に改組したことを出発点とする。その後、満州事変、金輸出再禁止を契機とする経済回復過程のなかで、傘下企業株式の公開による巨額のプレミアム資金の獲得→日本産業および傘下企業の株主割当てによる増資→プレミアム資金、払込資本金を利用しての新事業分野進出、あるいはこれらの資金を利用しての、または日本産業の株式との交換による既存企業の合併→それら被合併企業などの整理統合→子会社として分離独立→……というぐあいに、日本産業の公開持株会社としての機構、機能をフルに活用した「コングロマリット的操作」を繰り返すことによって急膨張を遂げ、日中戦争勃発時には日本鉱業日立製作所日本水産日産自動車などの直系18社、直系子会社59社、その払込資本金総額4億7363万円を擁する三井、三菱(みつびし)両財閥に次ぐ一大企業集団を形成した。さらに、日本経済が戦時体制に移行すると、1937年「満州国政府および関東軍要請を受けて、その本社日本産業を「満州国」に移転し、それを半官半民の満州重工業開発会社に改組、南満州鉄道にかわって満州の産業開発を独占的に担当した。しかし、日産の満州進出は、戦時統制の強化、戦局の悪化のなかで外資導入に失敗し、また関東軍との関係もうまくいかず、挫折(ざせつ)する。そして、戦後の財閥解体によって崩壊した。だがその傘下企業は、日立製作所、日産自動車をはじめ、今日、有力ビッグ・ビジネスに成長したものが多い。

[宇田川勝]

『持株会社整理委員会編・刊『日本財閥とその解体 上巻』(1951)』『宇田川勝著『新興財閥』(1984・日本経済新聞社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「日産コンツェルン」の意味・わかりやすい解説

日産コンツェルン (にっさんコンツェルン)

新興財閥の代表的存在。その母体久原(くはら)房之助の創始した久原財閥。同財閥は第1次世界大戦後の慢性的不況の中で破綻を生じ,房之助は義兄にあたる鮎川義介(あいかわよしすけ)にその再建を委嘱する。鮎川は1928年,同財閥の中核企業の久原鉱業を社会的資金の動員と経営機構の再編を意図して公開持株会社の日本産業株式会社(日産)に改組する。この改組の効果は満州事変,金輸出再禁止以降の経済回復・拡大過程の中であらわれ,日本産業は傘下企業の株式公開→巨額のプレミアム資金の獲得→その資金,あるいは自社・傘下企業の増資資金を利用しての新事業分野への進出→高騰した自社株式との交換による既存企業の合併→それら被合併企業の整理統合→子会社として分離独立……という,ユニークな経営戦略を展開する。その結果,日中戦争勃発時には日本産業は直系18社,直系子会社59社,その合計払込資本金総額4億7363万円を擁する,三井,三菱両財閥につぐ一大企業集団=日産コンツェルンを形成する。さらに37年暮れ,〈満州国〉政府・関東軍の要請により日本産業を〈満州国〉に移駐して,満州重工業開発株式会社に改組,日満両国にまたがるコンツェルンの形成を意図する。しかし,この計画は戦時統制の強化,外資導入の失敗等によって挫折した。戦後の財閥解体によって日産コンツェルンは崩壊したが,その傘下企業には日立製作所,日産自動車をはじめ巨大企業に成長したものが多い。
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百科事典マイペディア 「日産コンツェルン」の意味・わかりやすい解説

日産コンツェルン【にっさんコンツェルン】

鮎川財閥とも。鮎川義介が1928年久原鉱業(久原房之助創立)を譲り受け日本産業と改称し,これを持株会社として形成した最大の新興コンツェルン。1937年には傘下(さんか)に日本鉱業日立製作所日産自動車など有力重工業企業以下直系・傍系150社を擁した。同年日産本社を満州国新京(長春)に移し満州重工業開発とした。第2次大戦後解体,傘下企業は独立した。
→関連項目日産生命保険[相互会社]日本水産[株]日立造船[株]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日産コンツェルン」の意味・わかりやすい解説

日産コンツェルン
にっさんコンツェルン

昭和初年から第2次世界大戦末までに発展した新興財閥の一つで,鮎川財閥ともいう。 1910年戸畑鋳物を設立した鮎川義介が,経営不振となった久原鉱業の再建を依嘱されて社長に就任,28年に日本産業 (資本金 7500万円) と改称,公開持株会社に改組したことに始る。 29年鉱業部門を分離し日本鉱業を設立,以来多くの会社の吸収合併,新規設立,直轄事業の分離などを重ね 37年には日本鉱業,日立製作所日産自動車日本水産日本コロムビア日産化学工業,日本油脂,樺太汽船,大同火災海上保険など重工業を中心とした 18の直系会社,130の傍系会社をもつコンツェルンに成長した。 37年本社を満州に移し,満州重工業開発 (資本金 4500万円) と改称して南満州鉄道株式会社 (満鉄) の重工業関係部門を引継ぐとともに,昭和製鋼,満州炭鉱,満州軽金属製造,同和自動車,満州飛行機製造,満州投資証券などを設立し,日本の満州における植民地経済の中核的存在となった。第2次世界大戦後の財閥解体の際には直系会社を含む資本金総額は 17億円をこえていた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日産コンツェルン」の解説

日産コンツェルン
にっさんコンツェルン

鮎川義介(あいかわよしすけ)が創立した最大の新興財閥。1928年(昭和3)久原房之助から経営破綻した久原財閥の再建を任された鮎川は,満州事変以降の軍需景気を背景に広範に出現した大衆株主に着目し,子会社の株式を売却してプレミアムを入手,その資金で新規事業分野への進出や既存会社の買収を行い,日本鉱業(現,ジャパンエナジー)・日立製作所などの旧久原財閥系企業を中心に日産コンツェルンを形成した。その規模は37年上期末現在77社,払込資本金総額4.7億円余に達し,住友より巨大なコンツェルンとなった。同年鮎川はコンツェルンの親会社日本産業を満州重工業開発会社に改組,満州へ移転した。その結果日産はコンツェルンとしてのまとまりを失い,解体に向かった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日産コンツェルン」の解説

日産コンツェルン
にっさんコンツェルン

昭和初期,鮎川義介(1880〜1967)の日本産業を中心に結成された最大の新興財閥
1928年久原鉱業を譲りうけた鮎川は日本産業に改組。持株会社として,満州事変後の軍需インフレの中で重化学工業の分野に経営を広げ,満州への進出をはかった。第二次世界大戦後,財閥解体により解散したが,日立・日産などの構成企業はそれぞれ独立し再建された。

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世界大百科事典(旧版)内の日産コンツェルンの言及

【新興財閥】より

…日本経済史上初めての大々的な重化学工業化が展開した1930年代に,主として新興の重化学工業を事業基盤にして簇生(そうせい)した企業集団。日産コンツェルン日窒コンツェルン森コンツェルン日曹コンツェルン理研コンツェルンに与えられた名称で,新興コンツェルンとも称される(〈企業グループ〉の項参照)。三井,三菱,住友をはじめとする既成の財閥が株式,社債等による外部資金の調達に消極的であったのに対して,外部資金の調達に積極的であった点が新興財閥に認められる特徴である。…

※「日産コンツェルン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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