諸教育活動のなかで、自然事象や人間の文化・社会を科学的に理解させようとする活動が通常の意味における科学教育である。一般には、自然科学を中心とした教育活動をさすが、今日では社会科学的なアプローチも強く求められている。
このような科学教育は、学校教育のなかで行われるものと、社会教育のなかで行われるものに大別できるが、さらに、それらはいずれも一般教養を目的として行われるものと、職業的な専門家の育成を目的として行われるものとに区別することができる。
科学教育が組織的、計画的に行われる場としては、学校教育や企業内教育などがある。社会教育のなかで行われる科学教育の形態としては、博物館、公民館などの各種文化施設において行われるもののほかに、テレビ、ラジオ、新聞などのマスコミュニケーションによるもの、書物、雑誌などの各種刊行物によるものなど数多くある。
[木村仁泰]
科学教育は、人間の文化遺産のなかでもとくに自然科学に基礎を置いている。そのため、科学教育は、自然科学研究が培ってきたところの自然認識の科学的方法、およびそれらの所産としての科学的知識に基づいている。すべての人々が一般教養としてこれらの技能や知識を身につけ、それによって実生活の改善に役だて、よりよい人間生活を営むために、科学が貢献できることが期待されている。また種々な場面での意志決定を科学的態度で行い、その重要な論拠として科学的知識が有効に働くことが、一般市民の基礎教養として求められている。他方では、自然科学を中心とする諸科学の維持と発展に科学教育が貢献し、その専門家を養成することも重要な課題である。
[木村仁泰]
ルネサンス以降、西欧の文化、社会、実生活において自然科学は重要な役割をもつようになってきた。19世紀中ごろまでの科学は、キリスト教の教義の説明にも用いられ、好意的に迎えられたが、「地動説」やダーウィンの『種の起原』(1859)に示された進化論は、キリスト教的宇宙観、世界観、人間観の立脚点を揺るがし、キリスト教側のあからさまな反感と嫌悪感をもたらした。これに加えて、古典語を主とした人文的教科の教育をもって学校教育の中核とする教育伝統が支配的であったため、ガリレオ・ガリレイの実験物理学に代表される実験・実証を基礎とする近代科学を学校教育のなかに導入することは困難を極めた。
思想的には、すでに17世紀の初頭に科学教育に関する考え方が示されている。たとえば、イタリアのカンパネッラは、共産的理想国家を描いた『太陽の都』(1623)のなかで、全住民に対する科学教育を構想した。またコメニウスは『大教授学』(1657)において、学校カリキュラムへ自然科学教育を導入することを構想している。
今日の教育の一般的原理を説いた人物として知られているルソーやペスタロッチは、科学は教えられるべきものではなく、生徒が自らの研究を通して創造していくものであると考えた。とくに『エミール』(1762)に示されたルソーの「子供に科学を教えるな、彼にそれを創造させよ」という考え方は、現在においても科学教授の黄金律として評価されている。
科学教育の発見的教授法の理念を示したといわれるディースターベークFriedrich Adolf Diesterweg(1790―1866)と、彼を中心とした教育者たちは、ペスタロッチ主義に基づき、子供の自己活動・直観・発見を原則とする初等科学教育論を展開した。
また自然科学が今日の社会、文化、実生活において果たしている役割の重要性から説き起こし、それとの関連で一般教育としての科学教育の必要性を啓蒙(けいもう)し発展させたのが、イギリスにおけるチンダル(ティンダル)であり、T・H・ハクスリーであり、H・スペンサーであった。それは1860~1870年代のことである。彼らの顕著な生活経験主義的立場にたった科学教育を、さらに際だった形で具体化しようとしたのが、イギリスの化学者アームストロングH・E・Armstrong(1848―1937)であった。彼の科学教育は「発見的教授法」または「実験室教授法」とよばれ、今日の実験を中心とする科学教育の基礎を築いた。
20世紀初頭、アメリカの優れた教育哲学者・思想家であるデューイは、『学校と社会』(1900)、『われわれはいかに思考するか』(1910)などの著作のなかにおいて、社会問題の解決に果たす科学の方法の重要性を強調し、生活の改善を中心とした、民主主義社会の建設に有用な科学という立場での科学教育論を展開した。彼の科学教育論は、その後1950年代ごろまで、世界の科学教育に強い影響を与え、初等科学教育や前期中等学校における理科教育としての「一般理科」general scienceに理論的基礎を与えた。アメリカにおいては、それはプロジェクト・メソッドと結び付き、一大教育運動となった。
[木村仁泰]
科学教育は、産業革命や第一次・第二次世界大戦などを経験することによって、技術、工業、軍事産業などと密接な関連をもって発展してきた。とくに1957年のソ連の人工衛星スプートニクの打上げはアメリカを震撼(しんかん)させ、科学教育カリキュラムの改革を大規模に促進させる起爆剤となった。全米防衛教育法(略称NDEA:National Defense Education Act)の成立(1958)は、国家防衛力の強化と科学教育との密接な関連を如実に物語るものである。
後期中等教育段階に始まる科学カリキュラム改革は、アメリカにおいては、全米科学財団(略称NSF:National Science Foundation)や各種の私設財団の援助のもとに大規模に展開され、現代自然科学や現代数学と密接に関連したカリキュラムを数多く生み出した。この動きはヨーロッパ諸国にも波及し、イギリスにおいては、ナフィールド財団の資金援助によって初等から後期中等教育に至るナフィールド科学カリキュラムを生み出した。さらに日本を含む多くの国々の科学カリキュラム改革を強く促す結果となった。
一連の科学カリキュラム改革は、大学の自然科学研究者を中心として展開されたために、開発された諸カリキュラムの内容は、現代自然科学の主要な基礎概念と科学の方法とを強調したものとなり、社会における科学の位置づけは重視されなかった。この改革の動きは初等段階にも波及し、ピアジェらの心理学者の知見や、ブルーナーによってまとめられた「どの教科でも知的性格をそのままに保って、発達のどの段階のどの子供にも効果的に教えることができる」という仮定に基づいて、科学主義的な初等科学カリキュラムを生み出した。開発された初等科学カリキュラムは児童の活動を中心に置き、指導目標は「行動目標」として記述された。
これらの一連の科学カリキュラムは、教育現場のなかから生まれたものでなかったことや、あまりにも科学主義的であることなどのために、改革は完全な成功を収めたとはいえなかった。しかし科学カリキュラム開発の組織・開発の方略などは重要な遺産となり、以後のカリキュラム改造のモデルとなった。1950年代から始まり、1970年代のなかばにかけての科学カリキュラム改革の動きは、まさに世界的に大きな活動であった。このような科学カリキュラム改革運動を可能にした背景は、これまでに比類のない世界経済の発展であった。しかし、その後の世界経済の停滞とともに改革の熱意も急速に衰えてきている。
[木村仁泰]
科学技術の目を見張るような進展に伴い、人類は今日までいろいろな問題を数多く解決してきた。しかし、1970年代以降、地表における環境の悪化は、地球的規模となり、エネルギーの確保、食糧危機、人口増大への対応、原子核エネルギーの適切な利用、遺伝子組換えなどにみられる生命に対する倫理など、人類の生存にかかわる重大な事項がわれわれに解決を求めてきている。しかもいずれの問題も一部の人々による意志決定では解決できない複合的な問題であり、まさに人類の英知が求められている。こういった認識に基づいた科学教育改革はすでに始められ、科学カリキュラムの総合化、学際化、人間主義化という傾向を生んでいる。ユネスコやOECD(経済協力開発機構)などの国際機関も総合的科学カリキュラムの開発とその実施に向けて積極的な努力を始めている。さらに、この種の総合的科学カリキュラムを学校教育のなかにどのように組み込んでいくかの研究も、同時に必要な課題となっている。また科学教育は、学校教育のなかだけでなく、広く社会教育や生涯教育のなかでも重要な役割を果たすことが期待されている。
[木村仁泰]
『木村仁泰編著『理科教育学原理』(1973・明治図書出版)』▽『学校理科研究会編『世界の理科教育』(1982・みずうみ書房)』▽『森川久雄編著『教育学講座12 理科教育の理論と構造』(1979・学習研究社)』
広義には社会科学や数学の教育をも含めるが,狭義には自然科学の教育のみを指す。自然科学の研究者の養成を目的とする狭義の専門教育と,工業,農業などの専門職業教育の基礎としての専門基礎教育と,一般教育とに分けられる。小・中・高等学校での科学教育は主として一般教育の観点から行われているが,日本では1886年に,文部省の法令で小学校での自然科学関係の教科は〈理科〉という名称のもとに一括され,のち,それが中等教育にも及んで現在に至っているので,自然科学教育のことを理科教育ともいう。日本の初等・中等教育に限定した事項については〈理科教育〉の項目を参照されたい。
科学の研究と教育活動とはもともと不可分のものとして成立した。近代科学は,すべての人々によって受け入れうるような論理と実験とに基づく学問を目ざし,伝統的な学問の権威主義ときびしく対立するものとして建設されてきたものだからである。その発見がすべての人々によって受け入れうるような真理性をもっているか否かは,その発見を直接一般の人々の吟味にさらしてその検証を受けなければならない。そこで,近代初期の科学者たちは,その発見をまず知的好奇心をもつ一般の人々に知らせてその支持を得ようとした。ガリレイがその天文学や力学上の諸発見を発表した《天文対話》(1632)や《新科学講話》(1638)は,啓蒙的,教育的な性格を備えており,当時の国際的な学問用語のラテン語でなく,イタリア語で書かれていた。ニュートンの《プリンキピア》(1687)は例外だが,ニュートンの《光学》(1704)やラボアジエの《化学要論》(1789)が英語,フランス語で書かれたのも,教育,啓蒙と研究の一体感の現れである。
近代科学は19世紀半ばごろまでほとんど大学に迎え入れられることがなかった。一般に科学を学ぶ人々は,啓蒙的,教育的な色彩をも兼ねた研究書によって学び研究したのである。イギリスのローヤル・ソサエティRoyal Society(1662創立)のような集りは,科学の相互教育の機関として機能した。18世紀初めになると,大学の外で有料の科学の連続講座が開かれるようになった。イギリスではデザギュリエJ.J.Desaguliers(1683-1744)が1712年からロンドンで実験科学の連続講座を始めたが,18世紀半ばごろにはイギリス各地に科学の巡回連続講座が普及するようになった。それらの講義に出席した人々は,実用的知識を求めたというよりも,純粋に知的な好奇心から科学への関心をかきたてられたといってよいであろう。イギリスの中等学校で科学教育が始まるのは,それらの巡回講師に依頼した講座が定例化し,正規の授業に編入されるようになったからで,それが定着するのは19世紀後半のことである。
18世紀半ばごろイギリスで始まった産業革命は,新しく起こった中産階級と労働者階級とに科学に対する関心をかきたてた。1800年にロンドンに設立されたローヤル・インスティチューションRoyal Institutionも,〈貧しい人々の間に科学技術の成果を普及する機関〉として設立されたものであったが,24年からは職工講習所mechanics institutes運動なるものが展開する。これは,労働者が機械とその基礎にある科学などを学ぶための講義室,実験室,図書室を建設しようとして始めた運動で,急速にイギリス全土に普及した。しかし,科学教育をおもなねらいとして始まったこの職工講習所運動も,その後急速に衰退ないし変質せざるを得なかった。労働者の多くは読み書き計算もできなかったからである。
フランスやドイツでは産業革命がイギリスよりもおくれて始まったが,そのためかえって科学技術の教育機関が設けられ,イギリスに先んずることとなった。フランスでは,フランス革命当時コンドルセらによって理想主義的な学校教育体系が構想され,その中で自然科学の教育が重視されていた。1795-1802年の間存続した〈中央学校école centrale〉は,自然科学と数学の教育を極端に重んずる中等学校である。ドイツでは古典語教育中心のギムナジウムに対して,実科ギムナジウムが設立され,自然科学の中等教育に道を開いた。19世紀前半は中等・高等教育機関の中に自然科学の教育が徐々に浸透していった時期ということができる。優れた科学者を集めた世界最初の専門科学教育機関といえば,フランス大革命中の1794年に発足したエコール・ポリテクニクÉcole polytechniqueであるし,大学に初めて実験室を設けて実験室教授法をとり入れたのはドイツのギーセン大学のリービヒであった(1825)。
そして,19世紀半ばごろになると,イギリスでも科学技術の教育が産業技術の発展,ひいては一国の繁栄に少なからぬ役割を果たすことが認められるようになって,全学校教育の全面的再編成が始まることになった。イギリスで公立の小学校制度が設けられて義務教育制度が始まるのは,1870年のことであるが,その小学校でも科学教育が重んじられることとなった。日本の科学教育もこれと同じころ始まることになる。
しかし,こうして国家の強力な指導のもとに近代的な学校教育体系が整備されてくると,科学は大なり小なり義務的に教えられ,学ばれるようになる。例えばイギリスでは,生徒の試験成績に応じて教師への補助金を支出する制度が設けられたが,それは必然的に試験のために科学を学習するという伝統をつくり出した。そこで,19世紀半ば以後,科学の教授法が重要問題としてもち上がってきた。イギリスのアームストロングH.E.Armstrong(1848-1937)が,97年以来提唱した〈発見的教授法heuristic method〉はその一つの試みである。また20世紀に入ると,アメリカを中心に〈自然科学の伝統的な内容区分に従わずに,生活現象を中心に統合して教えるべきだ〉とする一般科学general scienceの考えが普及することになった。ところが,第2次大戦後1960年ごろになると,科学教育の現代化運動が活発に展開されるようになった。これは,科学教育の対象とする諸科学そのものが,とくに19世紀末以来の原子科学の発展によって根本的な改革を受けたのに対応するものであった。科学教育の現代化の試みとしてもっとも著名なのは,アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)の人々が中心になって作成した《PSSC(Physical Science Study Committee)物理》(1961)である。高校物理の教育用に作成されたものだが,従来の古典物理の教材を大幅に削除し,最初から原子物理学的な観点を大胆に導入した。この試みは一時世界の科学教育界に大きな衝撃を与えたが,結局,アメリカでも現場に根をおろすことができなかった。一般科学の考えも,科学教育の現代化の試みも成功しているとはいえない。
自然科学の教育は,今日すでに多くの欠陥を露呈している。〈今日の社会の中では科学への関心なしには生きていけない〉と一方ではいわれながら,小・中・高等学校での科学の一般教育は今なおたくさんの科学嫌いを増やしているし,反科学的な神秘主義思想の普及をはばむものともなり得ていない。専門教育の分野では,かろうじて実用的な知識,操作は伝えられてはいても,視野の広い創造的な思考の養成はいよいよ困難になっている。今日の科学はほぼ10~15年ごとにその論文数が倍加するという勢いで発展しているので,従来どおりの教育をしていたのでは,もう教育が研究のあとに追いつくことができないのである。だから,科学の発展は教育の立遅れによって瓦解するおそれもある。科学の教育内容をどのように再編成して,視野の広い創造的な思考をいかに養うべきかという問題は,今後科学研究そのものよりもさらに重要な問題として浮かび上がってくるであろう。
→科学技術政策
執筆者:板倉 聖宣
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…そこで,理科教育といえばふつう初等・中等教育での自然科学の教育をさすが,〈理科は自然科学を教える教科でなく,自然そのものを教える教科だ〉といった議論も根強く,簡単ではない。日本の科学教育は,1872年の〈学制〉〈小学教則〉などによって国家的に制度化されたが,それは福沢諭吉ら洋学者たちの文明開化の思想を反映したものであった。福沢は,日本人から封建的な思想を排除するには近代科学の物質観,科学観の教育がもっとも大きな力になりうるとみていたのである。…
※「科学教育」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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