ドイツ福音主義教会の会衆賛美の歌。宗教改革者ルターの,特別な音楽的素養をもたない一般会衆にも自国語で歌える礼拝の歌を与えようという意図を出発点として起こり,16世紀から18世紀にかけて,多数の曲が作られた。ドイツ語の抑揚を生かした素朴で力強い旋律と旋法的な性格の強い節回しが特徴で,楽曲形式は中世のミンネジンガー以来ドイツ歌曲にとって一つの基本形式となったAABのバール形式(バールBarという詩型が基本で,リズムと押韻が呼応しあう二つの前句AAと後句Bからなる)によるものが多い。
みずから作詞作曲を手がけたルターの作品の中では,力強い語調と雄々しい旋律をもつ《われらが神はかたき砦》(日本基督教団賛美歌267番《神はわがやぐら》)がとくに有名である。ルターの作をはじめとする16世紀のコラールは,信徒の共同体意識を強調したものが多く,ニコライPhilipp Nicolai(1556-1608)作曲の《目覚めよと呼ぶ声聞こゆ》《たえにうるわし暁の星》で,一つの頂点をきわめる。17世紀に入るとしだいに個人的な心情を歌った作風が支配的となるが,J.リスト作詞,ショップJohann Schop(1590ころ-1667)作曲の《奮い立てわが心》(バッハの《主よ,人の望みの喜びよ》の原曲)のような佳曲も見られる。18世紀は全般的に見て衰退期である。
コラールは,いっさいの伴奏をもたない多節形式の単旋律歌曲が原型であり,それだけにさまざまに手を加えた芸術的編曲を生み出す母胎となった。オルガン用のコラール前奏曲Choralvorspiel,曲中にコラールをちりばめたカンタータ,受難曲,オラトリオなどの諸形式の中で,コラールはドイツ福音主義教会音楽の発展の礎石となった。なかでもバッハは,簡素な4声体の和声付けから壮麗なコラール・ファンタジーChoralfantasieに至るまで,模範的な編作の技法を示した。ドイツにおける現行のコラール本は,EKG(Evangelisches Kirchengesangbuchの略)と呼ばれ,各州共通のコラールとして歴史的な淘汰をへた394編を収めている。
なお,19世紀以降の慣例的な音楽の用語法において,コラールという言葉はしばしば,コラール類似の旋律をたっぷりとした和弦で支えた緩やかなテンポの書法を指す。用例としてS.フランクのピアノ曲《前奏曲,コラールとフーガ》(1884)があげられる。
執筆者:服部 幸三
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語源は、合唱を意味するラテン語コルスchorusの形容詞形コラーリスchoralisに由来する。そのドイツ語化された名称コラールは、16世紀中ごろから登場する。中世においてはグレゴリオ聖歌に代表されるローマ教会の各種単旋律聖歌の総称として用いられていたが、宗教改革後のドイツ、北ヨーロッパでは、会衆が自国語で歌う宗教的有節歌曲およびその歌詞を意味するようになった。ただしルターやカルバン自身はまだこの名称は用いず、この意味での定着は16世紀末であった。またコラールに基づいた合唱曲、オルガン曲などの総称であるコラール編曲も、すでに17世紀以来、単にコラールともよばれてきた。狭義のコラール、つまりルター派プロテスタント教会のドイツ語の賛美歌は、会衆を礼拝に積極的に参加させようというルターの意図に従い、すでに1523年から整備が進められた。J・ワルターJohann Walther(1496―1570)、G・ラウGeorg Rhaw(1488―1548)らの協力を得たルターとその派は、翌24年以来ドイツ各地で無数のコラール集を出版した。今日のドイツでも各教区が『福音(ふくいん)教会賛美歌集』Evangelisches Kirchengesangbuch(EKG)を制定している。
コラールにはさまざまなタイプがある。たとえば『来たれ異教徒の救い主』のように、ローマ・カトリック教会のイムヌス(賛歌)やセクエンツィア(続唱)のラテン語歌詞をドイツ語訳したもの、また、典礼歌のドイツ語詞に、新しい旋律を付したもの、さらには『キリストは死のきずなにつきたもう』のような、既存のドイツ語宗教歌の改作がある。しかし、とくにルター派コラールの面目躍如たるものは、世俗歌曲の歌詞を宗教詩に置き換えるコントラファクトゥムKontrafactumという手法によるもので、たとえばJ・S・バッハの『マタイ受難曲』(1727)でも重要な役割を演ずる受難コラール「血潮したたる主のみかしら」は、H・ハスラーの恋愛歌『わが心は乱れ』の改作である。
コラールはすでに初期の時代からポリフォニー編曲の形をとって出版されることが多かったが、当時の様式を反映して、主旋律はおもにテノール声部に置かれていた。コラールの主旋律が最上声部に置かれ、今日コラール風とよばれるホモフォニックな四声体の様式を確立したのは、オシアンダーLukas Osiander(1534―1604)のコラール集(1586)が最初である。
[樋口隆一]
『辻荘一著『キリスト教音楽の歴史』(1979・日本基督教団出版局)』
チェコスロバキアの詩人、スラブ学者。ロマン的汎(はん)スラブ主義の創始者。スロバキア出身。ポジョニ(ドイツ名プレスブルク、現ブラチスラバ)の福音(ふくいん)派学校を卒業(1815)後、イエナ大学神学部に留学(1817~1819)。当地でワルトブルク祭を経験し、ドイツ民族統一運動の影響を受けた。帰国後、ペシュトの福音派教会の牧師を務め、1849~1852年ウィーン大学スラブ考古学講座の特別教授となった。彼はスラブ民族間の文化交流を果たすために、言語研究、書籍の交換、図書館の創設、大学におけるスラブ語講座の設置の必要性を主張、チェコ人、スロバキア人の民族運動の担い手に大きな影響を与えた。彼のスラブ民族統一理念は、詩集『スラーバの娘』Slávy dcera(1824)にもっとも強く表れている。
[稲野 強]
インド南部、カルナータカ州南東部の小都市。人口11万3299(2001)、13万8462(2011センサス)。州都ベンガルールの東約60キロメートルに位置する。南東のコラール・ゴールド・フィールズはその名のとおり金鉱山として知られ、インドの金総産出高のほとんどを占めている。鉄道、国道の通じるこの町はその出入口。
[中山晴美]
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… 16世紀は,プロテスタントの諸宗派が並び立った時代でもある。すでに15世紀に,ボヘミアのフス派が,独自の宗教的民謡ともいうべき会衆歌をもっていたが,ルター派のドイツ福音主義教会のコラールはその性格をさらに徹底し,音楽的素養のない一般会衆が歌えることを目ざした会衆賛美の歌であった。と同時に,ルターは教会付属の学校で学ぶ若者たちには,人文主義的教養と多声部の楽曲を演奏できる高い音楽的素養を要求した。…
…俗謡《ロム・アルメL’homme armé(戦士)》は特に好まれ,デュファイ,ジョスカン・デ・プレ,オケヘムなど,15~16世紀の30以上のミサ曲に定旋律として用いられた。第3にプロテスタントのコラールも17~18世紀にドイツの教会用声楽曲とオルガン曲に登場し,ブクステフーデやJ.S.バッハなどの楽曲で定旋律として用いられている。16世紀に入ると,〈既存の旋律〉という定旋律の概念が拡大され,ヘクサコルド(6音音階)に基づく特定な音型が新たに考案されることもあった。…
… 17世紀から18世紀中葉にかけてのバロック時代は,ルネサンスの後を受け,さらに外国の音楽の諸様式に敏感に反応しながら,ドイツ音楽がオペラを除くほとんどすべての分野で開花する時代である。とくに北方のプロテスタント地域では,ルター派のコラールを取り入れた教会カンタータや受難曲が,シュッツからJ.S.バッハ(大バッハ)に至る教会音楽の流れのなかで徐々に創造され,真にドイツ語とドイツ精神に根ざしたドイツ音楽を形成する。こうしたドイツ的なものは宗教的声楽曲のみならず,オルガン音楽,リュート音楽,チェンバロ音楽,バイオリン音楽,器楽組曲,合奏協奏曲などの器楽の上にも顕著に現れる。…
※「コラール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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