1990年10月3日、東西ドイツは1949年以来の分断の歴史に終止符を打ち、再統一を果たした。
1989年11月9日、一連の東欧民主化のうねりのなか、東西冷戦の象徴であったベルリンの壁は崩壊する。これを転機として、ドイツ民主共和国(東ドイツ)市民が民主化運動で掲げたスローガン「われわれが人民だ」は、ドイツ統一を求める「われわれは一つの国民だ」に変容した。そうした雰囲気のなか、1990年3月18日に初めて東ドイツ人民議会の自由選挙が実施された。当初、社会民主党優勢が伝えられたが、選挙戦のさなかドイツ連邦共和国(西ドイツ)のコール首相が「増税なき早期統一」と「マルクの1:1交換」を約束。これが功を奏して保守ブロックの「ドイツ連合」が勝利し(得票率48.0%)、新しい東ドイツ政府を樹立した。選挙後、両ドイツ政府は公約実現に向け、5月18日に「通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約」を調印(7月1日発効)。その結果、東ドイツへの資本主義市場経済システムと西ドイツマルク導入が実現した。交換レートは、(1)給与・年金・家賃・奨学金は1:1、(2)預貯金の一定額は1:1(15~59歳は4000マルクまで)、残りは西1に対し東2とされた。
[古田善文]
これに先だつ1990年5月5日、米、英、仏、ソおよび東・西ドイツによる6か国外相会議(2プラス4会議)が初めて開催され、ドイツ統一に向けての国際的コンセンサス形成の試みも開始された。統一成否のカギをにぎるソ連は、当初、人口約8000万(90年末時点7975万3200人)を擁する統一ドイツの北大西洋条約機構(NATO(ナトー))加入に難色を示し、その中立化を要求した。しかし、7月16日のゴルバチョフ大統領とコール首相の会談、翌17日のパリ6か国外相会談で、対ポーランド国境の現状維持とあわせ、統一ドイツのNATO帰属が、ドイツ軍を37万人に削減するなどの条件つきで確認され、最大の懸案事項の解決をみた。その後、9月12日のモスクワ外相会議での「ドイツに関する最終規定条約」調印を経て、10月3日にドイツ統一は西ドイツ基本法23条方式、つまり東部新5州の西ドイツ編入により実現した。なお、この期日・方式は8月23日の東ドイツ人民議会決議、同31日に調印された「統一条約」で決定された。統一達成の余韻が残る12月2日に実施された全ドイツ連邦議会選挙で、与党は過半数を獲得(得票率はキリスト教民主・社会同盟43.8%、自由民主党11.0%)、勝利した。
[古田善文]
しかし、政府はその直後から統一後遺症とよぶべき数々の難題に直面する。それは、国家保安省(シュタージ)「非公式協力者」問題、国家逃亡者に対し射殺命令を下した旧社会主義統一党指導者に対する訴追問題、妊娠中絶に関する刑法218条の旧東ドイツ地域への適用問題、旧所有者による土地返還請求問題、東部地域復興問題などであった。このうち、東部住民の最大関心事である経済復興問題について補足すれば、政府はその解決に向け、1990年だけで1000億マルク以上という莫大(ばくだい)な財政支出を実施した。しかし、政府が資金調達を一連の増税と公共料金値上げに頼ったため、国民から公約違反との批判が噴出した。
東部復興のもう一つの切り札は、1990年に新設された信託公社による旧東ドイツ国営企業の民営化(株式企業化)であった。この公社は1994年末に解散するまで、延べ1万5102の国営企業を引き継ぎこれらの整理や売却にあたったが、「死刑執行機関」と酷評されたその強引な統廃合策は必然的に大量の失業者を生み出した。ピークとなった1992年1月、旧東ドイツ地域の失業者数は実に134.3万人(失業率16.5%)に達した。その後も旧東ドイツ地域の高失業状況は解決を見ていない。2006年5月の時点で、旧東ドイツ地域の失業率は17.4%に達していて、旧西ドイツ地域の9.2%の約2倍となっている。
[古田善文]
こうした大量失業への不安、統一後も残存する東西の経済格差や増税への不満は、副産物として国民の間に心理的なしこりを生み出した。その顕著な例が、東部住民に対する「オッシーOssi」や、西部住民に対する「ヴェッシーWessi」などに代表される差別語の流行であった。さらにベルリンの壁の崩壊以降、東欧や第三世界から大量の難民が流入すると(1992年約44万人)、「存在不安」に脅かされた東部住民の不満は、優遇される難民(大半は「経済難民」)に対する敵意となって噴出した。1991年9月にザクセン州ホイヤスヴェルダで、また翌92年8月にメクレンブルク・フォアポンメルン州ロストックでネオ・ナチ集団による大規模な難民収容所襲撃事件が発生した際、現場で目撃された襲撃者に拍手喝采する近郊住民の姿はこうした旧東ドイツ市民の屈折した心理状態を象徴していた。この時期、西部地域でも停滞する経済状況を背景にして、定住トルコ人を対象にした極右暴力が激増した(1992年11月のメルン事件、93年5月のゾーリンゲン事件)。と同時に一連の地方議会選挙でも難民締め出しを要求する極右政党の進出が顕著となり、穏健な国民階層に衝撃を与えた。ちなみに、ドイツ右翼政党を代表する共和党は1992年4月バーデン・ヴュルテンベルク州で得票率10.9%、93年3月のヘッセン州で8.3%を獲得した。同様にドイツ民族同盟も1992年4月、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州で6.3%を得て州議会に初めて進出した。
[古田善文]
こうした右翼排外主義の台頭を阻止するため、政府は一部のネオ・ナチ組織を非合法化し、さらに野党の社会民主党多数派の協力を得て、1992年12月に政治亡命者保護を定めた基本法16条改正を決定した。改正案は1993年5月末に議会を通過、同年7月1日より「経済難民」の締め出しが実現した。今次改正の結果、安全な第三国を経由した者は今後、政治亡命者とはみなされず「経済難民」として経由国に送還されることになった。多くの批判を浴びながらも、ドイツ政府の政策転換は結果的に「経済難民」の大量流入の阻止には役だったといえよう。
[古田善文]
こうした国内問題に加えて、統一後のドイツは国際経済や国際政治の分野でも重大な岐路に立たされている。EU(ヨーロッパ連合)通貨統合の推進役となり、それを実現したドイツに対する国際的な期待は依然として高い。また、コール・ドイツ政府は、湾岸戦争後、それまでタブー視されてきたNATO域外への派兵を、これを違憲とする批判にもかかわらず実現した。なかでも1995年12月に政府がNATOの和平実施軍の一員としてボスニア・ヘルツェゴビナに国防軍史上最大の4000名の兵員を派遣したことは、この分野におけるドイツの進路を占う意味で、国際的な注目を集めた。
[古田善文]
ドイツ統一後、コール政権、シュレーダー政権と続き、2005年の総選挙後に左右両派による大連立政権が発足した。この政権において首相に就任したのがメルケルで、彼女はハンブルグ生まれであったが、のちに東ドイツに移住、東ドイツの民主化運動に参加した経験をもつ。統一後約20年で、旧東ドイツの政治家が初めてドイツの首相となった。
[編集部]
①〔1871〕ビスマルクによるドイツ帝国の建設(Reichsgründung)をさす。19世紀におけるドイツ統一の最初の試みは1848年の革命によってなされたが,この革命の失敗ののち,ドイツはドイツ連邦の旧体制に戻った。しかし関税同盟の成立以来経済的にはプロイセンのヘゲモニーは確立しており,革命後急速に成長したドイツのブルジョワジーは,プロイセンの力によるドイツ統一を望んでいた。62年プロイセン首相となったビスマルクは従来正統主義の原則によってオーストリアの風下に立っていた政策を改め,オーストリアと力で対抗しつつ,ドイツ統一を達成しようとした。そこで当時議会が反対していた軍備拡張を断行した。63年シュレースヴィヒ‐ホルシュタイン問題に関してデンマークとドイツ連邦との衝突が起こると,ビスマルクはこれを利用し,64年オーストリアとともにデンマークに宣戦してこれを破り,戦後この地の管理についてオーストリアと対立すると,66年プロイセン‐オーストリア戦争を行ってこれを破った。その結果ドイツ連邦は解体してプロイセンを盟主とする北ドイツ連邦ができた。フランスのナポレオン3世はこれをねたみ,ライン川左岸の地に領土を広めようとしたが,ビスマルクの妨害により失敗した。70年スペイン王位継承問題が起こりプロイセンの王族がその候補者となると,ナポレオン3世はこれに反対して辞退させたが,その際プロイセン王に不当な要求を行い,拒絶されると宣戦し,プロイセン‐フランス戦争が起こった。かねてからこれに備えていたビスマルクはたちまちにしてこれを破り,戦いが終わらぬうちヴェルサイユ宮殿において71年1月ドイツ帝国の宣言を行い,南ドイツ諸国がこれに加わってドイツ統一は成った。
②〔1990〕東西ドイツ統一
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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