アメリカの文化人類学者。ニューヨークに生まれる。1909年バッサー・カレッジ卒業後、1914年生化学者スタンレー・ベネディクトStanley Rossiter Benedict(1884―1936)と結婚するまで語学教師として数年を過ごし、結婚後は詩作に熱中した。1919年文化人類学の学習を始め、コロンビア大学のボアズの指導のもとに北米インディアンの民話や宗教の研究を行い、1923年論文「北アメリカにおける守護神の概念」によって学位を取得、そのまま同大に就職し、1936年ボアズ退任の後を受けて人類学科主任教授となった。1930~1940年代のアメリカ人類学界の主流であった文化とパーソナリティー研究において中心的な役割を演じた。彼女の学説は、後の心理人類学にも引き継がれた「文化と個人の関係」という問題視角とは別に、個別文化の全体を類型学的に把握しようという「文化のパーソナリティー」とでも名づけられるような問題視角に特徴がある。彼女によると、「一つの個別文化としての独自性は、諸々の文化要素の潜在的な可能性の円弧の一組の切片の選択によって生まれる」。こうした無数の可能性のなかからの選択は、文化ごとにある程度一貫した方向性をもち、「本質的には相互に無関係で、歴史的にも独立したものである」文化的諸要素を重ね合わせ、分解できない文化の個性のようなものにまとめあげているのである。『文化の型』(1934)は個別文化のこうした選択的動機を類型学的に把握する試みであった。第二次世界大戦における戦時研究の産物である『菊と刀』(1946)は、日本研究の書として有名であるが、『文化の型』においてはまだ直観的なきらいのあった文化の統合的形態の把握を、方法論的により洗練された分析にまで高めている。
[濱本 満 2018年12月13日]
『米山俊直訳『文化の型』(1973・社会思想社/講談社学術文庫)』
第265代ローマ教皇(法王)。本名はヨーゼフ・ラッツィンガーJoseph A. Ratzinger。4月16日、ドイツ南部バイエルン州の小村に生まれる。父親は警察官で、13歳で神学校に入学した。第二次世界大戦中はナチスの青少年組織「ヒトラー・ユーゲント」に加わったといわれるが、「強制的に参加させられた」と本人は弁明している。ミュンヘン大学で神学、哲学を学び、1951年に司祭となる。大学教師を経て1962年から1965年まで、第二バチカン公会議神学顧問。この時期は若手リベラル派のホープとみられていたが、しだいに保守派に傾いていく。
1969年、ドイツ・レーゲンスブルク大学副学長、1977年ミュンヘン大司教、同年枢機卿(すうききょう)。1981年にローマ教皇庁の教理省長官に就任し、保守派の代表格として前任の教皇ヨハネ・パウロ2世を支えた。2002年に首席枢機卿に就任。2005年4月のヨハネ・パウロ2世の葬儀でも主宰者を務めた。教皇選出会議(コンクラーベ)では本命候補の一人とされ、4回目の投票で新教皇に選出された。そのとき78歳で、教皇就任時の年齢としては20世紀以降で最高齢。ピアノが趣味で、モーツァルトとベートーベンを愛好した。
[土生修一]
2013年2月、辞意を表明し、同月28日に教皇を退位。退位後の称号は名誉教皇であった。
[編集部]
アメリカの女性文化人類学者。ニューヨーク州に生まれる。F.ボアズの指導のもとで学位をとり,コロンビア大学教授となる。1930~40年代のアメリカ人類学界の主流であった文化とパーソナリティ研究のにない手の一人。アメリカ・インディアンの実地調査と文献研究をもとに,一つの文化全体を理解するための統合的な方法論を唱えた。どのような個別の文化も,人間一般のもつ潜在的目的や動機という大きな円弧の一部分を占めており,個々の民族文化の特性がどの部分を占めるかという選択的動因を類型化したものが《文化の型Patterns of Culture》(1934)である。また,第2次世界大戦前から戦中にかけて人類学者のおこなったヨーロッパ,アジアの地域統合研究の中から生まれたのが《菊と刀》(1946)である。ここでも彼女は同じ方法論によって,断片的で多様な資料から日本文化のイメージを構成し,その統合的形態を描き出した。
執筆者:松園 万亀雄
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…彼の見聞録はルブルクのそれと並び称せられ,モンゴルの実情,住民の習慣をヨーロッパに初めて伝えたものとして著名。なおカルピニに同行したポーランド人修道士ベネディクトの口述筆記も残っている。【勝藤 猛】。…
…そして心理的には上位のものが下位のものに恩恵をほどこす半強制的な温情主義(パターナリズム)を生みだした。アメリカの文化人類学者R.ベネディクトは《菊と刀》のなかで,近世以降に発達をみた恩のあり方に注目し,人が全力をあげて背負わなければならない負担,債務,重荷であると分析した。上位のものが下位のものにほどこす恩も,下位のものがその恩に報ずる行為も,ともにけっして普遍的な道徳的義務であるのではなく,むしろ借金とその返済という関係に還元することができると考えた。…
…アメリカの文化人類学者R.ベネディクトによる日本文化論。1946年刊。…
…この結果,日本,ドイツ,イギリス,ソ連,そしてアメリカなど各国の国民性の研究が進められた。R.ベネディクトの日本研究《菊と刀》(1946)はその最も有名なものの一つである。 国民性の研究の結果,西欧の非西欧社会に対する世界観が明らかに変わった。…
…日本の場合,罪は祓や禊によって容易に除去されるという意識が強く働き,先の浄土教的な罪業意識は深くは浸透しなかったといえよう。かつてアメリカの人類学者R.ベネディクトは,その著《菊と刀》において日本の文化を欧米の〈罪の文化〉に対して〈恥の文化〉であると規定したが,日本文化に罪の意識が希薄であることを指摘したものとして注目される。恥【山折 哲雄】
【聖書とキリスト教における〈罪〉】
聖書とキリスト教の伝統にみられる罪の観念は多様かつ複合的である。…
…
【文化型と国民性】
社会構造における以上のような日本的特色は,文化とパーソナリティのレベルに,その成立基盤をもっていると考えられる。
[〈恥の文化〉論]
日本の文化の基本的特徴を最初に指摘したのは,アメリカ文化人類学者,R.ベネディクトであった。ベネディクトは,その著《菊と刀》の中で,日本文化の型を,欧米の〈罪の文化guilt culture〉と対比して〈恥の文化shame culture〉だと断定した。…
…恥は一つの状況に対する反応であるが,恥じらいは同時に二つの状況を意識するときに起こる。 R.ベネディクトは西欧型の〈罪の文化〉に対して,日本文化は〈恥の文化〉であると規定した。この比較は前者の大状況志向と後者の小状況志向との対比にもとづいている。…
… 文化類型culture patternこの語はいくつか違った意味に用いられている。R.ベネディクトは,この語を特定の文化に共有される属性として用い,文化の特色を表す概念として使用した。そしてある文化類型をディオニュソス型,他をパラノイド型と呼んだりしたが,後にこのとらえ方に見られる心理学的方法は,批判を受けた。…
… また異質な社会との接触も,その社会と法の総体的把握の必要性を感じさせた。イギリスのH.J.S.メーン,B.K.マリノフスキー,アメリカのR.ベネディクトの仕事はその例であるが,これらは植民地統治や占領の必要と結びついていた。 以上に対して,近代資本主義社会自体を批判するマルクス主義に基づく法の総体的分析も,法社会学の潮流の一つをなしている。…
…ヌルシアのベネディクトゥスがモンテ・カッシノで創始した共住制修道会,および彼の妹スコラスティカScholasticaを中心として結成された女子修道会。広義には540年ころからベネディクトゥスが執筆した〈会則〉を採用するすべての修道会の総称。…
※「ベネディクト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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