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フランスの作曲家。英文学者を父に,詩人を母にしてアビニョンに生まれ,少年時代はアルプス地方のグルノーブルで過ごした。早くから音楽や文学に興味をもち,独学でピアノと作曲を学び,1919年パリ音楽院に入学し,M.デュプレにオルガンを,P.デュカースに作曲を師事して,本格的に音楽家としての道を歩き始めた。音楽院卒業の翌年(1931),パリのトリニテ教会のオルガニストに就任,以後オルガニストを務めながら作曲の筆をとった。36年にジョリベ,ダニエル・ルシュール,ボードリエらと作曲家のグループ〈ジュヌ・フランスJeune France〉を結成,1920年代以来の主流であった〈六人組〉の新古典主義に反発し,音楽におけるヒューマニズムの回復を主張した。
第2次大戦に一兵卒として動員され,40年ドイツ軍の捕虜となった。シュレジエン(シロンスク)の収容所で作曲された《世の終りのための四重奏曲Quatuor pour la fin du temps》(1941)は,5000人の捕虜の前で初演された。42年にパリ音楽院の和声学の教授,47年に分析の教授に就任。《わが音楽言語の技法》(1944)などの理論書を執筆し,若い世代の教育にも熱心に取り組み,その門下からは,ブーレーズ,シュトックハウゼン,クセナキスらの逸材が輩出している。この時期に,2台のピアノのための《アーメンの幻想Visions de l'Amen》(1943),ピアノ曲《みどり児イエスにそそぐ20のまなざし》(1944),《トゥランガリラ交響曲Turangalîla-symphonie》(1948)などの傑作が作曲されたが,これらの作品は,いずれもカトリックの信仰に基づいた宗教体験から作曲され,〈移調の限られた旋法〉という独特な旋法体系と,インド音楽やギリシア音楽から影響を受けた自由なリズム法によって構成されている。
1949年にピアノ曲《リズムのための四つのエチュード》(第2,3曲。第1,4曲は1950)を作曲,音高,音価,強度,音色の四つの要素にセリーの原理を適用する方法を提唱した。その〈セリー・アンテグラル(全面的セリー)〉の作曲法は,メシアン自身が講師を務めた音楽祭〈ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習〉を通して広まり,欧米や日本の新しい世代の作曲家たちに大きな影響を与えた(ミュジック・セリエル)。メシアンは鳥類学に興味をもち,世界各地の鳥の歌を採譜し,その鳥の歌を素材にして多くの作品を作曲しているが,管弦楽曲《鳥の目ざめRéveil des oiseaux》(1953),同《異国の鳥たちOiseaux exotiques》(1956),ピアノ曲《鳥類譜Catalogue d'oiseaux》(1958)はその典型的な作品である。70年代から80年代に入ってからも,その創作意欲は衰えをみせず,管弦楽曲《峡谷から星たちへDes canyons aux étoiles》(1974)やオペラ《アッシジの聖フランチェスコSaint François d'Assise》(1983)などの大作を発表している。
執筆者:船山 隆
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フランスの作曲家。アビニョン生まれ。1919年より11年間、パリ音楽院でガロンに和声を、コサードに対位法を、デュプレにオルガンを、デュカースに作曲を学ぶ。ドビュッシーに傾倒し、とくに初期の作品にその影響が強い。その後、「移調の限られた旋法」(略称M・T・L。十二半音音階と六全音音階を両極端とするさまざまな対称的旋法)、「付加リズム」、「逆行不可能なリズム」(前後に対称なリズム形)などの技法を創造し、さらにその延長で『音価と強度のモード』(1949)を作曲、セリー主義を確立する。これは、印象主義音楽と第二次世界大戦後のトータル・セリエリズムの音楽を結ぶ重要な掛け橋となる。戦前には、ジョリベ、ルジュール、ボードリエと「若きフランス」というグループを結成し、ベルリオーズを範とするロマン主義美学の復興を目ざしたこともあったが(1946~48年作曲の代表作『トゥランガリラ交響曲』などにはその傾向が顕著である)、彼にとってより重要だったのはカトリック神秘主義である。これは、管弦楽曲『キリストの昇天』(1932~33)、『天の都市の色彩』(1963)、ピアノ曲『アーメンの幻影』(1943)などに顕著に示されている。また、鳥の歌声を基にした数多くの作品も残され、この二つは長大なオペラ『アッシジの聖フランチェスコ』(1983)となって結実した。
現代フランス音楽界の重鎮ともいうべき彼は、1971年のエラスムス賞をはじめ国際的にも数々の賞を受けており、67年にはロアイヤン音楽祭の一部としてメシアン・ピアノ・コンクールも設立されている。著作に『わが音楽語法』(1944)がある。私生活では、62年に彼のピアノ曲を生む原動力となったピアノ奏者イボンヌ・ロリオと結婚。85年に京都賞を受賞。
[細川周平]
『平尾貴四男訳『わが音楽語法』(1954・音楽之友社)』▽『P・マリ著、矢内原伊作・広田正敏訳『メシアン』(1973・音楽之友社)』
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出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
…シェーンベルクらの試みは,フェルーPierre Octave Ferroud(1900‐36)らの現代音楽発表のための国際的機関である室内楽協会〈トリトン〉が鋭意紹介に当たったが,大勢は占めなかった。 その間にみられた当時の音楽のある種の抽象性に抗議して,メシアン,ジョリベ,ダニエル・ルシュール,Y.ボードリエら4人がグループ〈ジュヌ・フランス〉を1936年に結成した。彼らは抒情性,人間的な感動,誠実さを音楽に取り戻そうと意図したのである。…
… 音高のセリー化はシェーンベルクの十二音音楽(1921)において行われたが,音価,音色,音強のセリー化は,それが独立した単位として認識されるまで持ち越された。音高以外の要素への関心は,ストラビンスキーの《春の祭典》(1913)におけるリズム(音価)の強調,シェーンベルクの《五つの管弦楽曲》(1909)における音色旋律などに早くからみられており,ウェーベルンの《管弦楽のための変奏曲》(1940)における音価のセリー的処理,メシアンの《アーメンの幻影》(1943)におけるリズム・カノンなどでしだいに明確化されてきた。しかし,それらの要素の決定的な意識化はメシアンのピアノ曲《リズムの四つのエチュード》の第2曲《音価と強度のモード》(1949)においてであった。…
※「メシアン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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