小説家。明治35年10月6日、高知県に生まれる。本名徳広巌城(とくひろいわき)。東京帝国大学英文科卒業。改造社に入社。1931年(昭和6)『新潮』に発表の『欅(けやき)日記』が文壇的処女作であるが、出世作は翌年『新潮』に発表の『薔薇盗人(ばらとうにん)』。『文芸』の編集主任になったが、34年に改造社を退社し、作家生活に入る。しかしスランプが続き、前途が開けてきたのは38年『安住の家』を発表したころからである。それもつかのまのことで、妻繁子が翌年精神に異常をきたし、46年(昭和21)に亡くなるまで辛苦の生活が続いた。『聖ヨハネ病院にて』(1946)などの病妻物は、この時期の体験に根ざしたものである。52年に第1回目の脳溢血(のういっけつ)にみまわれた。快癒後、『春の坂』(1957)、『御目の雫(しずく)』(1959)などの郷里に取材したいくつかの秀作を書く。62年に第2回目の脳溢血にみまわれ、以後病床にあったが、創作欲は旺盛(おうせい)であり、『白い屋形船』(1963)をはじめとする多くの優れた作品を残した。逆境に耐え、かつそれを虜(とりこ)にした上林の作品には、感傷や暗さがなく、自然な明るさをたたえている。昭和55年8月28日に没した。
[大森澄雄]
『『増補・改訂 上林暁全集』全19巻(1977~80・筑摩書房)』▽『高橋英夫著『上林暁論』(『元素としての「私」』所収・1976・講談社)』▽『徳広睦子著『兄の左手』(1982・筑摩書房)』
昭和期の小説家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
小説家。高知県生れ。本名徳広巌城(いわき)。熊本の五高を経て,東大英文科卒業。改造社に入社し,はじめ円本(えんぽん)の《現代日本文学全集》の校正に従い,のち《改造》編集部に移る。1927年,五高時代の友人永松定(さだむ)ら仲間10人と同人雑誌《風車(ふうしや)》を創刊,《凡人凡日》その他の習作を上林暁の筆名で発表する。31年,文壇的処女作《欅日記》を《新潮》に掲載。翌年同じ《新潮》に載せた《薔薇盗人》が川端康成に認められ,作家としての地位を確立する。34年に改造社をやめ,以後文筆に専念。《安住の家》(1938)で私小説作家の道が開けるものの,39年妻が発病,苦しい看護生活が続く。その体験は,戦後《晩春日記》《聖ヨハネ病院にて》(ともに1946)など,いわゆる病妻ものにつづられ,文名を高めた。晩年脳出血で倒れると,妹睦子の協力を得,口述筆記によって作品を書くという執念を示した。昭和期の代表的私小説作家といえよう。
執筆者:関口 安義
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