地上のあらゆる民族、国家、社会、文化を取り込んだ人類全体の歴史。しかし実際にそういう歴史が書かれたことはない。普通、各国史を集めた万国史や西洋史、東洋史という地域史を広げた広域史を世界史というが、それは便法で、真の意味は、「世界」についての一定の観念が多国多地域を包括して統一的に書いた歴史のことである。その観念によって記述は一様ではない。事実上はローマ支配史であったり、ヨーロッパ文化成立史であったりした。しかし現実は、世界についての主体的観念が客体の世界と一致する方向に進んでいる。真の世界史はこれから書かれるだろう。
また世界史は、実際に書かれなくても、歴史家が個々の事実を書くとき、それを配置し意味づける全体観として歴史家の意識のなかにあるだけのこともある。なんの世界史観ももたぬ歴史家はいない。いずれにせよ世界史は総合的な歴史観にかかわるので、歴史学の対象以前に歴史哲学の対象である。
[神山四郎]
西洋では紀元前2世紀に最後のギリシア人ポリビオスが最初に『世界史』40巻(初めの五巻のみ残存)を書いた。彼は歴史を修辞的興味からではなく政治・国事の記述として書き、それを広い視野でみた。それは現実には、ローマの強大な勢力が地中海世界国家にのし上がってゆく過程にほかならなかった。その見地はギリシア人のポリス中心主義を超えてはいるが、ローマ覇権史以上のものではない。またポリビオスは歴史を諸国家の興亡とみて、それは「王政、貴族政、民主政」の三政体の変動の繰り返しであるという循環論ももっていた。
5世紀にアウグスティヌスは、ゲルマン人の侵入によって瀕死(ひんし)のローマ帝国をみながら『神の国』22巻を書いた。この書の後半で彼は、人祖アダムとイブの楽園追放から、キリストの降誕、贖罪(しょくざい)によって人類の救いが完成するまでの長い歴史を説いている。それは人類史として一貫した世界史の内面的意味である。人類の一体観、歴史の救済史的意味、全歴史の終局目的についての観念はキリスト教信仰に基づくものである。歴史は神の摂理のもとに人間が自由意志でつくり、最終ゴールを目ざして時間的な発展を遂げるものという観念は、ヨーロッパの伝統的な歴史観になった。近代になるとその観念はさまざまに世俗化し変容する。世界史は人類が先天的にもっている「完全可能性」を実現する過程だというカントの歴史哲学などはその一例である。
14世紀にイスラムの歴史家イブン・ハルドゥーンは北アフリカの広大なイスラム文化圏の歴史『イバルの書』を書いた。それは世界史といわれるが、その序説「ムカッディマ」で彼は、王朝の系譜や年代記を書くのではなく、砂漠の諸部族が一様にたどる「遊牧、定住、王朝、滅亡」という歴史のパターンを示した。これは一種の循環史観で、その方法は一つのパターンのもとに多文明の形態を比較する文明史観の先駆けといえる。
15、6世紀イタリア・ルネサンス期に人文主義者は、あの栄光のローマが滅んだあと暗黒時代に入って、いま「新生」の時代を迎えているという歴史意識をもっていた。そのため全歴史を「生、死、再生」いう図式でとらえ、それが「古代、中世、近代」という時代区分を生んだ。17世紀にドイツの歴史家ケラリウスがこの三分法によって『世界史』を書いて以来、これが世界史叙述のヨーロッパ的スタイルになった。しかしこの歴史観は、歴史の自然的推移を認めない非連続説で、中間の中世を否定して、古代と近代が直結するという独特の見方で、ルネサンス・啓蒙(けいもう)史観のもとになったが、いまでは中世研究によって破られている。
18世紀の啓蒙思想家は伝統を断ち切って理性万能を唱え、地理的発見によってヨーロッパ外の世界を知った。ボルテールは、キリスト教的ヨーロッパの遠心的拡大を説くボシュエ司教の『世界史論』に反対して、アジアの諸民族・諸宗教も同等に扱い『諸国民の習俗と精神のエッセイ』を書いた。これは最初の文化史的世界史であるが、啓蒙思想はすべてを「理性の光」でみるため、歴史をひたすら合理的進歩としてとらえ、過去はすべて未開であるときめつけ、現代のヨーロッパがその進歩の頂点であるという意識は、やはりヨーロッパ中心的である。
ドイツは三十年戦争の荒廃によって近代化が遅れたため、啓蒙思想を受け入れる地盤がなく、思想家はむしろ反啓蒙のロマン主義に共鳴した。ロマン的な哲学者ヘルダーは、歴史の進歩より各時代・各民族の個性を重んじ、諸民族の有機的全体を世界史とみた。この民族史観は近代の有力な歴史観となった。しかし諸民族はそれぞれ個性を発揮しながらも、共通の普遍的「人間性」の発現(つまり理性化)を目ざしているというので、これもやはり啓蒙的である。
[神山四郎]
19世紀に入って、近代史学を確立した歴史家ランケは、やはりロマン的個体主義によって民族を歴史の基体としたが、民族史の寄せ集めを世界史とはしなかった。個別史のほかに関連する精神的総体を世界史とみたところは、いくぶん哲学的である。それは具体的には、ローマ的・ゲルマン的諸民族がヨーロッパにキリスト教中心につくった共同体である。これは19世紀ドイツの歴史家の世界史の構想である。ランケはこの構想のもとに数多くの各国史を書いたが、晩年『世界史』(15世紀なかばまでで未完)も書いた。
ランケの世界史は、古代オリエントからギリシア、ローマに進み、キリスト教的中世を経て、近代のローマ的・ゲルマン的諸国家の形成に至る単線コースである。これは、奇(く)しくも哲学者ヘーゲルの構想と一致している。
ヘーゲルはその『歴史哲学講義』において世界史を世界精神の自己実現とみた。それは現実には自由の意識の進歩となって現れるから、王1人が自由の古代専制王国から、国民すべてが自由になる近代国民国家に至るまでの発展とみた。ヘーゲルのようにキリスト教的ゲルマン国家で世界史が完成するという目的論をいわないまでも、こうしたヨーロッパ中心のナショナリズムの世界史観は、19世紀のヨーロッパ人が主体的にもっていた観念で、現実のヨーロッパ列強の世界支配がそれを裏づけていた。
ヘーゲルの死後その学派から出たマルクスは、観念論を逆転して唯物論を唱えたが、歴史観は多くのものをヘーゲルから学んだ。彼は生産様式の発展で歴史をみたが、世界史の基本的コースを「アジア的、古代ギリシア・ローマ的、中世封建的、近代ブルジョア的」という四段階としていることは、ランケやヘーゲルの図式と同じである。また生産手段の私有を撤廃することによって、これまでの階級闘争の歴史を終わらせ、人類の幸福な社会が到来するという未来主義の理念も形は古典的である。
[神山四郎]
20世紀に入り第一次世界大戦後、ヨーロッパ勢力の衰退につれて非ヨーロッパ勢力があがり、客体的な世界史への展望が開けた。シュペングラーの『西洋の没落』は、かつて世界を支配したヨーロッパ文明も多文明の一つにすぎず、いまその命脈が尽きようとしているという歴史観によって、ヨーロッパ中心主義を打ち破った。
歴史の基体を国家や社会よりもっと広い文明に置いて、それが「発生、成長、死滅」のパターンを繰り返すという文明史観は、A・J・トインビーに受け継がれて、それまでの一元的、年代的、目的論的な世界史観のかわりに、多元的文明の発生とその同時的な形態比較を主張した。世界史は、オリエントの前史から近代ヨーロッパまでの直線コースではなく、ヨーロッパ文明の拡散でもなく、多文明の多発並行であるというこの世界史観は、いま世界の主導力がヨーロッパからアメリカ、旧ソ連に移り、さらに多極化し、異体制の共存と多価値観をもつ多元的文明が併存している現実を対象に、グローバルな世界史が書かれるための一つの道を開いている。
[神山四郎]
『J・フォークト著、小西嘉四郎訳『世界史の課題』(1956・勁草書房)』
世界を統一的連関のもとにとらえようとする歴史学の一領域。類似したことばとして一般史,普遍史,人類史などがあり,歴史家によって多少意味の異なる場合もあるが,世界史ということばで統一できよう。日本ではこのほか万国史といういい方があったが,国民国家の列挙という意味が強く今は使用されない。
世界史ということばの定着したのは,ドイツの歴史家ランケ晩年の弟子であるL.リースが1887年東京大学に招かれて講義してからではないかと思われる。現在われわれは全地球をおおう普遍的世界のなかにおり,世界は一つであることを日常的に体験しているが,ランケが晩年世界史を構想したときも,あらゆる国家は蒸気機関と電信によってごく密接に統一され,広い地球上にはなんら絶対的の分離はないという世界意識を述べている。しかしこの状況に達するまで世界史は長い年月を必要としている。世界ということばは仏教から出て,日常的にはこの世とか世の中というほどの意味で,これを拡延した日本人の意識における〈世界〉としては,ヨーロッパ諸国と交渉のはじまるまでは,仏教圏,漢字文化圏で,アジアの一部にすぎなかった。慈円が《愚管抄》において仏法の原理は中国,インドを通じて貫徹するというとき,その念頭にはインド,中国をとりまく世界史像ともいうべき統一体があった。
ヨーロッパにおいても事情は同じである。世界史ということばをはじめて使用したのはローマ時代のギリシア人ポリュビオスであるが,世界といってもローマが征服したか交渉のある地域である。ローマの征服についでキリスト教は人類の統一性,その究極目的を設定し,〈カトリック〉ということばが〈普遍的〉を意味するように,歴史は神の国と地上の国の対立であるという神学的二元論が世界史の構想をつくりあげ,この歴史観は中世社会を支配した。
このように地球上にはかつて相対的に完結した複数の個別的世界が存在し,おのおの個別的世界史をなしたが,ルネサンス期の地理上の発見(大航海時代)によってヨーロッパ人は非ヨーロッパ世界のあることを発見し,その社会も文化もヨーロッパとちがうことに目を開いた。18世紀の啓蒙思想は神学からはなれて,人類や人間性の同一,その発展を信じてアジアからアメリカまで視野にとりこみ,ボルテールは一般史,チュルゴは普遍史,ヘルダーは人類史という名称を用い,理念的傾向が強かったとしても,世界史の本格的成立の基礎をつくった。ドイツ観念論哲学のなかでは,ヘーゲルは世界史は精神が自己の本質を知ろうとする表現で,精神の本性たる自由の発展を内容とすると考え,人間の自由という点からアジア世界,ギリシア世界,ローマ世界,ゲルマン世界をとりあげ,理念から歴史現実へ下降していった。
19世紀初めフランス革命とその後のナポレオン時代における普遍主義に対する反動として個別化の傾向や民族意識が強まると,歴史の方法も実証性を重んじるようになり,ランケはヘーゲルの世界史の哲学に対して〈世界史学〉を主張し,個別的事実のなかに普遍への道があるという経験的立場から,ヘーゲルのように精神,普遍から個別具体的なものに下降するのは観念論哲学の方法であると批判した。ランケによれば,歴史学はあくまで具体的事実のなかに普遍的見解,事実の作用連関をもとめるべきであるとし,民族史の集成,たとえば日本でいう列国史のようなものは,その範囲の広狭にかかわらず世界史をなすものではなく,世界史学は国家,民族間の連関をとらえ,共同態を明らかにすることであるとする。しかしランケはヘーゲルを批判しながら両者ともヨーロッパ中心主義に陥っていた。両者ともアジアを考えながらもヘーゲルはゲルマン世界に重点をおき,ランケがローマ・ゲルマン人を主体としたのは,非ヨーロッパ世界はヨーロッパの拡張の場にすぎないと考えていたからである。
一方,フランス,イギリスの実証主義は啓蒙思想と同じ方向で普遍史を構想し,マルクスは経済法則を根底に世界市場の成立,国際分業による世界の一体化を根底に世界史を構成する。第1次世界大戦ののちトレルチやシュペングラーなどによってヨーロッパ中心主義は反省され,クローチェは一つの普遍的世界史の不可能を論じたが,両大戦間に各国とも世界史,普遍史の著述はさかんに行われ,現在では文化類型学,文化人類学などからの接近もある。とくに高度の情報化社会,産業社会に生きるわれわれにとって世界一体化の意識,世界体験は自明のことであり,世界史の視座は価値観,世界観に内包されており,歴史学の個別領域においてもこの視座は機能し,歴史研究においてはいかなる分野にせよ世界史的視座をもたなければならない。そしてこれを可能にする条件も存在する。世界史は全地球的なレベルでの空間史であるが,現在社会科学研究の多様化,拡延のうちにあらゆる地域の歴史的構造が明らかとなり,国家という枠さえある面では不合理になり,普遍的世界史の条件はととのいつつあるといえよう。
→歴史 →歴史学
執筆者:井上 幸治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
一国,一地域でなく世界全体の歴史を総合的に叙述,または考察したもの。世界の諸地域の連関が進んだ18世紀のヨーロッパで始まったが,歴史哲学的なものと叙述的なものとの2タイプがあり,しだいに後者に比重が移った。しかし,20世紀前半までは,西洋中心主義の見方が圧倒的に強かった。日本では明治以来,国史,東洋史,西洋史の区分が支配的で,世界史の観念はほとんどなく,第二次世界大戦後に社会科に「世界史」が導入されてから,初めて議論が始まった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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