デジタル大辞泉
「中浜万次郎」の意味・読み・例文・類語
なかはま‐まんじろう〔‐マンジラウ〕【中浜万次郎】
[1827~1898]幕末の幕臣。土佐の漁師の息子。天保12年(1841)出漁中に遭難して米船に救われ、米国で教育を受けた。嘉永4年(1851)帰国し、幕府に用いられて翻訳や軍艦操練・英語の教授にあたった。維新後、開成学校教授。ジョン万次郎。
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なかはま‐まんじろう【中浜万次郎】
- 江戸末期の幕臣、英学者。ジョン万次郎とも。土佐国中浜村(高知県土佐清水市)の漁師の家の生まれ。天保一二年(一八四一)漂流中をアメリカの捕鯨船に救出され、アメリカに渡った。嘉永四年(一八五一)に帰国し、のち、幕府に召されてアメリカ文化の紹介や外国使臣の書信の翻訳に従事。文政一〇~明治三一年(一八二七‐九八)
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中浜万次郎
なかはままんじろう
(1827―1898)
幕末明治期の英学者。別名ジョン万次郎。土佐国中浜(なかのはま)村(高知県土佐清水(しみず)市)の漁夫の家に生まれる。1841年(天保12)、出漁中遭難漂流し無人島(ぶにんとう)(鳥(とり)島)に漂着し、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、同国に渡り教育を受けた。1850年(嘉永3)サラ・ボイド号でホノルルから帰国の途につき、翌年8月鹿児島に上陸、長崎で取調べを受けたのち故郷に帰された。1852年12月藩庁に召され、徒士(かち)格に登用されて藩士に列し、1853年幕府に招聘(しょうへい)されて普請役(ふしんやく)格に列し韮山(にらやま)代官江川英龍(ひでたつ)の手付(てつき)を命じられた。ペリー来航時には重用され、外国使臣の書翰(しょかん)の翻訳や軍艦操練所教授、鯨漁(くじらりょう)御用を勤め、1860年(万延1)新見正興(しんみまさおき)の遣米使節には通弁主務として随行した。1861年(文久1)小笠原(おがさわら)島の調査、1864年(元治1)薩摩(さつま)藩に聘せられ軍艦操練・英語教授を委任された。1868年(明治1)土佐藩に召され、翌年徴士として開成(かいせい)学校二等教授として英学を教授した。1870年、プロイセン・フランス戦争観戦のため品川弥二郎(やじろう)、大山巌(いわお)らとともに渡欧を命ぜられたが、翌年病を得て帰国した。以後悠々自適の生活を送った。
[加藤榮一]
『中浜明著『中浜万次郎の生涯』(1970・冨山房)』
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中浜万次郎
没年:明治31.11.12(1898)
生年:文政10.1.1(1827.1.27)
幕末の漂流民,英語教育者,啓蒙家。天保12(1841)年土佐中の浜(高知県土佐清水市中浜)の少年漁師として出漁中に遭難,伊豆の鳥島に漂着,アメリカ捕鯨船ジョン・ホーランド号に救助された。船長ホイットフィールドに才能をみこまれて,その郷里マサチューセッツ州フェアヘイブンで教育を受け,のち捕鯨船乗組員となる。嘉永3(1850)年にサンドイッチ諸島(ハワイ)オアフ島に居住していた仲間を伴って中国航路のアメリカ船に乗船,翌年,琉球近海でボートに移乗して上陸,薩摩(鹿児島県)を経て長崎に送られ,嘉永5(1852)年に土佐へ帰還した。まず薩摩藩主島津斉彬 がその才能に注目し,彼の助言によってヨーロッパ型小型船の建造を試みたが,ペリーの来航によってその知識はますます重視され,土佐藩の定小者を経て幕府に招聘され,直参の旗本に列せられ中浜の姓を授けられた。 その後,航海術の書物の翻訳,捕鯨の指導などに当たり,万延1(1860)年には咸臨丸の通訳として遣米使節団に参加した。また小笠原諸島で捕鯨を試みたり,薩摩,土佐藩の船舶購入に助言を与える。明治維新後は開成学校教授に任ぜられ英学を講じ,明治3(1870)年,普仏戦争観戦使節団に随行,翌年,軽い脳溢血にかかって以後は隠遁生活を送った。鎖国時代に西欧文化に接触し,明敏な頭脳で語学や航海術を自己のものとしたが,身分制度の制約にあって帰国後は必ずしも才能をのばせなかった。なお通称の「ジョン万次郎」は井伏鱒二の小説に由来するもので自分で対外的に使った表現は「ジョン・マン」である。<参考文献>川澄哲夫編『中浜万次郎集成』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
中浜万次郎 (なかはままんじろう)
生没年:1827-98(文政10-明治31)
幕末の土佐の漁師,のち英語学者。ジョン万次郎ともいう。幡多郡中浜(なかのはま)浦(現,高知県土佐清水市)の漁師の子に生まれる。1841年(天保12)出漁中に遭難し無人島の鳥島に漂着,アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられ,ニューベドフォードに伴われた。船長の好意で学校教育を受け,卒業後職に就いたことが,帰国後の活躍を支えた。50年(嘉永3)メキシコを出発し,琉球,鹿児島を経て土佐に帰着したのは52年7月であった。この万次郎を藩命で調べたのが画家の河田小竜であり,その口述をまとめたのが《漂巽紀略(ひようそんきりやく)》である。その後土佐藩や幕府などに登用され,英語を講じ,外交文書の翻訳や通訳などの仕事を通じて,日本に英語を広めるため開拓者的役割を果たした。明治政府の下では開成学校教授となっているが,病弱のため引退せざるをえなかった。なお子息東一郎の《中浜万次郎伝》(1936)が,その業績をよくまとめている。
執筆者:池田 敬正
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中浜万次郎
なかはままんじろう
[生]文政11(1828).土佐
[没]1898.11.12. 東京
江戸時代末期の幕臣。ジョン万次郎ともいい,John Munnとも書く。生年については文政 10年とする説もある。土佐国中ノ浜の漁師悦助の二男。天保 12 (1841) 年出漁中台風にあい,鳥島に漂着。アメリカ合衆国の捕鯨船に救助され,アメリカに渡り,勉学ののち捕鯨業に従事。嘉永4 (1851) 年8月琉球を経て薩摩に到着。長崎奉行所で取り調べを受けたのち,土佐藩に送致され,島津斉彬,山内豊信に珍重された。マシュー・C.ペリー来航のときは幕府に出仕して通訳に従事。安政4 (1857) 年軍艦操練所に勤務し,同7年『咸臨丸』の遣米使節に随行。明治政府成立とともに徴士となり,開成学校教授,のち文部中博士となった。
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中浜万次郎
なかはままんじろう
1827/28~98.11.12
ジョン万次郎とも。近世後期の漂流民・英学者。土佐国幡多郡中ノ浜生れ。1841年(天保12)漁に出たところ仲間とともに暴風にあい漂流。アメリカ捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され,アメリカに渡り学校教育をうけた。捕鯨船や鉱山で働いたのち,50年(嘉永3)アメリカ船に乗り帰国の途につき,翌年琉球に上陸。長崎で尋問をうけ高知藩に引き渡される。高知藩で教授館に勤めたのち,53年幕府の普請役格に登用され,江川太郎左衛門の手付となり翻訳に従事。57年(安政4)軍艦操練所の教授方となり,明治維新後は開成学校で教えた。著書「英米対話捷径」。
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中浜万次郎【なかはままんじろう】
ジョン万次郎とも。土佐(とさ)中浜浦の漁師の子。1841年出漁中遭難して鳥島に漂着。アメリカの捕鯨船に救われ,マサチューセッツ州ニューベドフォードに伴われた。船長の好意で学校教育を受け,1852年に帰国。帰国後は幕府で外交書簡の翻訳等に従事,1860年日米修好通商条約本書の批准(ひじゅん)交換のための遣米使節に随行し再度渡米。維新後は開成学校英語教授を務めた。
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中浜万次郎 なかはま-まんじろう
1827-1898 江戸後期-明治時代の漂流民,教育者。
文政10年1月1日生まれ。15歳のとき,土佐(高知県)宇佐港から出漁して遭難。アメリカの捕鯨船にすくわれ,同国でジョン=マンの名で教育をうける。嘉永(かえい)4年帰国,6年幕臣となり,万延元年通訳として咸臨(かんりん)丸で再渡米。維新後は開成学校の英語教授。明治31年11月12日死去。72歳。著作に「漂客(ひょうかく)語録」「英米対話捷径(しょうけい)」。
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中浜万次郎
なかはままんじろう
1827〜98
江戸末期の幕臣・開成学校教授
ジョン万次郎ともいう。土佐(高知県)中浜村の漁師の子。1841年出漁中遭難しアメリカ船に救われ,アメリカで教育をうけ,'51年帰国。長崎で尋問を受けたのち,土佐藩の召しかかえとなる。ペリー来航に際し幕府に仕え,通訳・翻訳・軍艦操練所教授・鯨漁御用などをつとめ,新知識の移入に貢献した。'60年幕府遣米使節に随行。明治維新後は開成学校(開成所の後身)の教授となった。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の中浜万次郎の言及
【土佐清水[市]】より
…国道321号線が海岸沿いを走り,足摺岬へは足摺スカイラインが通じる。なお,ジョン万次郎([中浜万次郎])は中浜の出身で,同地に記念碑が建つ。【正木 久仁】。…
【ミシン】より
…
[日本]
日本で最初のミシンは1854年(安政1)ペリーの2度目の来日のときに,将軍家定夫人に献上したウィーラー・アンド・ウィルソン社製のものとされている。日米修好通商条約の批准交換使節団に随行した中浜万次郎が,同じくウィーラー・アンド・ウィルソン社のミシンを60年(万延1)に咸臨丸で持ち帰っている。また68年(明治1)には《中外新聞》にミシンによる衣服仕立ての広告が載っている。…
※「中浜万次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」