今川氏親(読み)いまがわうじちか

改訂新版 世界大百科事典 「今川氏親」の意味・わかりやすい解説

今川氏親 (いまがわうじちか)
生没年:1473-1526(文明5-大永6)

戦国時代の武将。幼名竜王丸。修理大夫。法名紹僖。1476年(文明8)父義忠が遠江出征中に不慮の死を遂げると,家中内訌が起き堀越公方(くぼう)足利政知干渉を招いたが,母北川殿の兄伊勢新九郎(北条早雲)の調停により,家督相続し79年駿河守護となる。伯父新九郎の援助を得て,94年(明応3)より遠江に侵入を開始して守護の斯波氏と戦い,さらに1506年(永正3)には三河に出兵して松平長親と戦うなど勢力を伸ばし,08年遠江守護となる。その後14年には引馬(ひくま)城に斯波義達を破って尾張に放逐し,遠江を完全に掌握した。内政面では,20年,24年(大永4)遠江で検地を実施し,死の直前26年には本格的な分国法今川仮名目録》を制定するなど,領国支配の安定化と家臣団の統制に努め,駿遠両国の戦国大名へと今川氏が発展する基礎を築いた。晩年には中風を患って病死
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朝日日本歴史人物事典 「今川氏親」の解説

今川氏親

没年:大永6.6.23(1526.8.1)
生年:文明3(1471)
戦国時代の武将。生年については文明5(1473)年説もある。父は駿河守護職今川義忠,母は北条早雲の妹北川殿。幼名竜王丸,通称は彦五郎および五郎,官途・受領は上総介,のち修理大夫。文明8年の父の不慮の死により,しばらく駿河小川城に避難したが,長享1(1487)年,伯父に当たる北条早雲の援助で当主として国政を執りはじめる。このときの発給文書に印文不詳の印判を捺しているのが戦国期武将印判使用の第1号として知られる。また,検地の施行,分国法「仮名目録」の制定など,守護大名から戦国大名への脱皮をはかっている。明応3(1494)年から,遠江への侵入をはじめ,文亀1(1501)年には,遠江守護斯波氏,信濃守護小笠原氏連合軍を撃破し,永正14(1517)年,遠江を平定した。晩年は中風で病床にあり,妻の寿桂尼が補佐していた。<参考文献>小和田哲男『駿河今川一族』

(小和田哲男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「今川氏親」の解説

今川氏親 いまがわ-うじちか

1471-1526 室町-戦国時代の武将。
文明3年生まれ。今川義忠の子。母は北川殿。今川義元の父。長享元年伯父北条早雲のたすけで家督をつぐ。駿河(するが)(静岡県)守護となり,遠江(とおとうみ)(静岡県)の斯波(しば)氏から守護職をうばう。検地の施行,分国法「今川仮名目録」の制定など,今川氏が戦国大名へと発展する基盤をきずいた。歌人としても知られ,東胤氏(とう-たねうじ)と「続五明題(しょくごめいだい)和歌集」を編集。大永(たいえい)6年6月23日死去。56歳。幼名は竜王丸。
【格言など】領主は百姓が代々耕作している土地を,みだりに没収してはいけない(「今川仮名目録」)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「今川氏親」の意味・わかりやすい解説

今川氏親
いまがわうじちか
(1471―1526)

戦国大名。幼名龍王丸。上総介(かずさのすけ)、修理大夫(しゅりたいふ)。駿河(するが)守護今川義忠(よしただ)の子。義忠の死により家中に内訌(ないこう)が起こったが、叔父伊勢(いせ)新九郎(北条早雲(そううん))の活躍によって、1487年(長享1)家督を継承し領国経営に着手する。また、遠江(とおとうみ)守護斯波(しば)氏との抗争を通じ遠江へ進出した。領国経営も1518年(永正15)以降の遠江における検地の施行、26年(大永6)の『今川仮名目録(かなもくろく)』の制定などを行い、守護から戦国大名への転化に成功した。大永(たいえい)6年6月23日病死。法号増善寺喬山紹僖。

[大久保俊昭]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「今川氏親」の解説

今川氏親
いまがわうじちか

1473~1526.6.23

戦国期の駿河国の武将。戦国大名今川氏の初代。1476年(文明8)父義忠の戦死後,家督をめぐり家中に内紛がおきたが,伯父伊勢新九郎(北条早雲)に擁立され家督を相続。明応・文亀・永正年間に遠江を侵略し,三河にも触手をのばした。1517年(永正14)に斯波氏を駆逐し,遠江を完全に制圧。この前後から守護大名からの脱皮をみせ,26年(大永6)には分国法「今川仮名目録」を制定。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「今川氏親」の意味・わかりやすい解説

今川氏親
いまがわうじちか

[生]文明5(1473)
[没]大永6(1526).6.23.
戦国大名。駿河守護義忠の子。一族内紛後,足利政知の助けで家を継ぎ,家法『今川仮名目録』を制定。

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世界大百科事典(旧版)内の今川氏親の言及

【駿河国】より

…旧国名。駿州。現在の静岡県の中東部,大井川以東,伊豆半島を除く地域に位置する。
【古代】
 東海道に属する上国(《延喜式》)。国名スルガは,富士川以東の地域にあった〈珠流河国〉の名を継承したものと思われる。珠流河国造と廬原(いおはら)国造の支配領域をあわせて駿河国が形成されるのは7世紀中葉と思われ,680年(天武9)には2郡を割いて伊豆国を分置した。志太(しだ),益頭(津)(ましつ),有度(うと),安倍,廬原,富士,駿河の7郡を有し,当初は中国であったが,奈良時代末の768年(神護景雲2)ころまでには上国に転じた。…

【遠江国】より

…旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。
【古代】
 東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する国評制下の評として長田評,荒玉評・紀甲評(藤原宮木簡),淵評・駅評(伊場木簡)などが確認されている。令制下では国郡制施行当初の管郡は浜名,敷智(ふち),引佐(いなさ),麁玉(あらたま),長田,磐田,周智(すち),佐益(のち佐野(さや∥さの)),城飼(きこう),蓁原(はいばら)の10郡で,大国であったと推定されている。…

【引間】より

…1456年(康正2)には徳政一揆が起こり,蒲御厨(かばのみくりや)の農民たちが引間市の土倉を襲撃した。また室町期に遠江守護斯波氏の被官大河内氏が引間城を築いたといわれているが,やがて1517年(永正14)に今川氏親が引間城を攻め,斯波氏の勢力を一掃して遠江を平定し,領国経営の拠点とした。70年(元亀1)に徳川家康が居城を岡崎から引間に移し,これを浜松と改称して以後,引間の名称はしだいに見られなくなった。…

※「今川氏親」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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