北条氏綱(読み)ホウジョウウジツナ

デジタル大辞泉 「北条氏綱」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐うじつな〔ホウデウうぢつな〕【北条氏綱】

[1486~1541]戦国時代武将早雲の子。伊豆相模武蔵下総しもうさなどを征圧小田原城下の商業発展を図り、後北条氏基礎を確立した。

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精選版 日本国語大辞典 「北条氏綱」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐うじつな【北条氏綱】

  1. 戦国時代の武将。父早雲のあとを継ぎ小田原城主となり、伊勢から北条改姓上杉朝興(ともおき)江戸城上杉朝定松山城を破り、下総国府台の戦で足利義明里見義堯を破って関東一帯を制圧、後北条氏の基盤を確立。文明一八~天文一〇年(一四八六‐一五四一

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朝日日本歴史人物事典 「北条氏綱」の解説

北条氏綱

没年:天文10.7.19(1541.8.10)
生年:長享1(1487)
戦国時代の武将。相模小田原城主。父は北条早雲(伊勢宗瑞),母は小笠原備前守の娘か。通称新九郎。初め伊勢を称し,のち北条に改めた。従五位下左京大夫。家督の継承は永正15(1518)年とみられるが,それと同時に虎の印判,調の印判を使用し始め,新しい支配体制の整備に着手。同17年には小田原周辺や鎌倉などで代替わり検地を実施している。大永4(1524)年1月,江戸城に 扇谷上杉朝興を攻め河越城に敗走させ,武蔵への進出,制覇を開始した。朝興との抗争に際し朝興から「他国の凶徒」とののしられたことに対抗して,江戸城奪取前年の6月から9月の間に氏を伊勢から北条に改めた。鎌倉幕府の執権北条氏にちなむこの改姓は,相武(相模,武蔵)支配とその統治の正当性を主張するためのものとみられる。天文1(1532)年から鶴岡八幡宮の造営を開始。関白近衛稙家の姉(尚通の娘)を後添いとして迎えるのもこのころである。同6年初めの今川義元との戦い,同年7月の河越城攻略などを通じて武蔵をほぼ征服した。翌年の第1次国府台合戦では小弓(生実とも書く)御所足利義明を討滅し,勢力をさらに拡大。同8年には娘を古河公方足利晴氏に嫁がせ,関係をさらに深めている。同9年,鶴岡八幡宮が完成するが,この事業は領国の形成を促進し,その成功は氏綱の権勢を内外に誇示するものであった。同10年5月21日,5カ条からなる家訓を書き置く。いわゆる後北条氏を,名実ともに戦国大名に成長させた人物といえよう。

(佐脇栄智)

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改訂新版 世界大百科事典 「北条氏綱」の意味・わかりやすい解説

北条氏綱 (ほうじょううじつな)
生没年:1487-1541(長享1-天文10)

戦国時代の武将。後北条氏第2代。早雲(伊勢宗瑞)の子。1518年(永正15)に早雲から家督を譲られたとみられるが,同時に虎の印判等を使用し始め,新しい領国支配体制を整えている。20年小田原や鎌倉などで代替り検地を実施し,24年(大永4)江戸城に扇谷上杉朝興を攻め,川越城に敗走させて武蔵に進出した。この江戸城奪取後に,氏綱は伊勢を北条と改姓した。32年(天文1)には鎌倉の鶴岡八幡宮の造営を開始したが(40年に完成),このころ従五位下左京大夫に叙任され,また関白近衛稙家の姉を後添として迎えている。37年には今川義元と戦ったいわゆる河東一乱ののち,川越城を攻略して武蔵をほぼ征服した。翌年の第1次国府台合戦では,足利義明・里見義尭を破った。氏綱は寺社の造営にも力を注いでいるが,父早雲とともに戦国大名後北条氏の基礎を固めた人物。41年7月19日没。法名は春松院殿快翁宗活。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条氏綱」の意味・わかりやすい解説

北条氏綱
ほうじょううじつな
(1486―1541)

関東の戦国大名、後北条(ごほうじょう)氏第2代。早雲(そううん)の子。家督相続は虎の印判状が使用され始めた1518年(永正15)とみられる。父の遺業を継ぎ、武蔵(むさし)方面へ領国の拡大を図った。24年(大永4)に上杉朝興(ともおき)を江戸城に攻略。そのころ伊勢(いせ)から北条に改姓し、上杉氏にかわって関東を支配しようとする意を内外に示した。32年(天文1)には焼失した鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の再建に着手し、8年後に大工事を完成させて、その力量を関東諸将や畿内(きない)に誇示した。この間、甲斐(かい)、駿河(するが)、下総(しもうさ)に兵を進め、37年朝興の子朝定(ともさだ)の武蔵河越(かわごえ)城(埼玉県川越市)を攻略した。さらにその翌年には、小弓(おゆみ)御所足利義明(あしかがよしあき)と安房(あわ)の里見義堯(よしたか)の連合軍を下総国府台(こうのだい)(千葉県市川市)に破って、下総西部にまで勢力を拡大した。41年、義(ぎ)を専らに守るべきこと、父早雲のように倹約を守るべきことなど、基本的な心構えを記した5か条の置文(おきぶみ)を氏康(うじやす)に残して死去した。

[池上裕子]


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百科事典マイペディア 「北条氏綱」の意味・わかりやすい解説

北条氏綱【ほうじょううじつな】

戦国時代の武将で,後北条氏の2代目。父早雲の後を継ぎ,江戸城に扇谷上杉氏を攻め,河越城を奪い武蔵に進出した。のち,上総,下総に勢力を持つ里見氏を破って南関東を平定した。早雲の時代,伊勢(後北条)氏の居城は伊豆の韮山城であったが,氏綱は相模の小田原城を本城化させ,小田原の繁栄に貢献した。1526年戦火により焼失した鎌倉鶴岡八幡宮の造営を行い,源頼朝以来の武門の守護神たる鶴岡八幡宮の再興事業を主導した。父早雲とともに,戦国大名後北条氏の基礎を固めた人物。1541年死去,享年55歳。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条氏綱」の解説

北条氏綱 ほうじょう-うじつな

1487-1541 戦国時代の武将。
長享元年生まれ。伊勢新九郎(北条早雲(そううん))の子。永正(えいしょう)15年,小田原城主北条氏2代となる。大永(たいえい)4年上杉朝興(ともおき)の江戸城を攻略し,このころ伊勢から北条と改姓。天文(てんぶん)6年武蔵(むさし)河越(かわごえ)城(埼玉県)をおとして武蔵をほぼ征服。7年足利義明を下総(しもうさ)国府台(こうのだい)(千葉県)にやぶり,南関東を勢力下におさめた。天文10年7月19日(一説に17日)死去。55歳。通称は新九郎。
【格言など】その者の役に立つ所を使い,役に立たぬ所を使わないのをよき大将という(家訓)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北条氏綱」の意味・わかりやすい解説

北条氏綱
ほうじょううじつな

[生]文明18(1486)
[没]天文10(1541).7.19. 小田原
戦国時代の大名。後北条氏2代目。宗瑞の子。号は春松院。法名は快翁宗活。永正 15 (1518) 年父の跡を継ぎ小田原城主。大永4 (24) 年1月 13日上杉朝興を攻めてこれを破り,江戸城を攻略。同6年 12月 15日鎌倉で里見実堯を破った。次いで天文6 (37) 年7月 15日上杉朝定と戦って松山城を攻略し,翌7年2月2日太田資正を武蔵岩槻城に攻め,相模,武蔵を掌握。同年 10月7日子の氏康とともに足利義明,里見義堯らを下総国府台に破って着々と関東南部を制圧し,後北条氏の基礎を固めた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北条氏綱」の解説

北条氏綱
ほうじょううじつな

1487~1541.7.19

戦国期の武将。相模国小田原城(現,神奈川県小田原市)城主。北条早雲の子。戦国大名後北条氏2代。1518年(永正15)家督となる。24年(大永4)江戸城,37年(天文6)河越城を奪い武蔵に進出して扇谷(おうぎがやつ)上杉氏を圧迫。同年駿河で今川義元と戦い(河東一乱),翌38年小弓御所足利義明を破って房総勢の台頭を退けた(国府台(こうのだい)の戦)。当初伊勢氏を称したが23年北条氏に改め,執権北条氏と同姓として相模・武蔵支配の正当性を主張。

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旺文社日本史事典 三訂版 「北条氏綱」の解説

北条氏綱
ほうじょううじつな

1486〜1541
戦国時代の武将
早雲の子。江戸城・河越城を攻略。鉄砲を用い,関東南部に勢威をはり後北条氏の基礎を固めた。小田原はその中心として繁栄。また元人の子孫で日本に帰化した陳外郎を招き,薬種をつくらせた。

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世界大百科事典(旧版)内の北条氏綱の言及

【上総国】より

… 室町時代の上総は犬懸上杉氏の本拠となり,上杉禅秀の乱後,1418‐19年(応永25‐26)には氏憲の遺臣榛谷重氏らが平三城(市原市平蔵),坂水城(不明,夷隅郡岬町か)に拠り一揆(上総本一揆)を起こしている。戦国時代に入ると,安房の里見氏が勢力をふるい,義尭(よしたか)のとき上総に進出し,小弓(おゆみ)御所足利義明を支持して1538年(天文7)北条氏綱と下総国府台(こうのだい)(市川市)で戦ったが敗れ,義明は討たれた。このころ義尭は久留里城(君津市久留里),義尭の子義弘は佐貫城(富津市佐貫)にいて南房総を分国とした。…

【後北条氏】より

…伊勢宗瑞(俗称北条早雲)を始祖とし,氏綱,氏康,氏政,氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名(図)。早雲はその出自など多くがなぞにつつまれた人物であるが,1476年(文明8)に義忠没後の今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。やがて駿河の興国寺城主となり,91年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。95年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い,関東進出の第一歩をしるした。…

※「北条氏綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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