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「千田是也」の意味・読み・例文・類語
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せんだ‐これや【千田是也】
- 演出家、俳優。本名伊藤圀夫(くにお)。東京都出身。大正一三年(一九二四)創立の築地小劇場に参加。昭和一九年(一九四四)、俳優座を結成。ブレヒト劇の紹介など戦後新劇活動の中心的役割を果たす。明治三七~平成六年(一九〇四‐九四)
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千田 是也
センダ コレヤ
- 職業
- 俳優 演出家 評論家
- 肩書
- 劇団俳優座代表,日本演出家協会理事長,桐朋学園大学短期大学部芸術科教授 ドイツ民主共和国芸術アカデミー会員〔昭和54年〕
- 本名
- 伊藤 圀夫(イトウ クニオ)
- 生年月日
- 明治37年 7月15日
- 出生地
- 神奈川県 国府津
- 出身地
- 東京市四谷区(東京都新宿区)
- 学歴
- 東京府立一中〔大正11年〕卒,早稲田大学専門部独文科〔大正13年〕中退,ラインハルト演劇学校(ドイツ)
- 経歴
- 大正13年築地小劇場創立と同時に参加、「海戦」(ゲーリング)で初舞台。15年いったん脱退、プロレタリア演劇活動に入る。昭和2年ドイツ留学してドイツの表現主義を学び、6年帰国、7年東京演劇集団を結成し、ブレヒト作「三文オペラ」を翻案した「乞食芝居」を上演、ドスの〆吉を主演。11年新築地劇団で左翼演劇のリーダーとして活躍。戦争中2年間獄中生活を送り、19年青山杉作らと俳優座を結成、演出活動にも従事。西欧近代古典劇上演の基盤をつくると共に、リアリズム演技の名教科書といわれる「近代俳優術」の刊行、25年俳優座養成所の発足、29年俳優座劇場の創設など、俳優座のリーダー的存在として活躍。俳優としての代表作に「令嬢ジュリー」のジャン役があり、映画は「青色革命」など数多く出演。ブレヒト劇の翻訳紹介者としての功績も大。また日中文化交流、日朝文化交流にも多大の貢献をし、’60年安保では、新劇人の先頭に立った。61年「セチュアンの善人」の中国公演、62年チェルノブイリ原発事故を扱った「石棺」を演出する。没後の平成10年毎日芸術賞に千田是也賞が創設される。著書に「千田是也演劇論集」(全11巻・別巻3 未来社)、自伝「もうひとつの新劇史」、訳書にスタニスラフスキー「俳優の仕事」、「ブレヒト戯曲選集」など多数。
- 所属団体
- 日本演出家協会(理事長),日本劇団協議会(会長),日朝友好協会(副会長),日中文化交流協会(常任理事),日本演劇協会(理事),ブレヒトの会(主宰)
- 受賞
- 芸術選奨〔昭和27年〕「オセロ」「ウインザーの陽気な女房たち」,毎日演劇賞(演出部門)〔昭和27年・33年〕,テアトロン賞〔昭和32年〕「タルチュフ」,週刊読売新劇賞〔昭和33年〕「幽霊はここにいる」,芸術祭賞〔昭和34年〕「千鳥」(演出),朝日賞(昭52年度),芸能功労者表彰〔昭和54年〕,フンボルト大学名誉哲学博士号〔昭和57年〕
- 没年月日
- 平成6年 12月21日 (1994年)
- 家族
- 父=伊藤 為吉(建築家),兄=伊藤 道郎(洋舞家),伊藤 祐司(衣装デザイナー),伊藤 熹朔(舞台美術家),弟=伊藤 翁介(作曲家),妻=岸 輝子(女優),長女=中川 モモコ,孫=中川 安奈(女優)
- 伝記
- 戦う演劇人―戦後演劇の思想ドラマティストの肖像―現代演劇の前衛たちもうひとつの新劇史―千田是也自伝 菅 孝行 著西堂 行人 著千田 是也(発行元 而立書房れんが書房新社筑摩書房 ’07’02’75発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
千田 是也
センダ コレヤ
昭和・平成期の俳優,演出家,評論家 劇団俳優座代表;日本演出家協会理事長;桐朋学園大学短期大学部芸術科教授。
- 生年
- 明治37(1904)年7月15日
- 没年
- 平成6(1994)年12月21日
- 出生地
- 神奈川県国府津
- 出身地
- 東京市四谷区(現・東京都新宿区)
- 本名
- 伊藤 圀夫(イトウ クニオ)
- 学歴〔年〕
- 東京府立一中〔大正11年〕卒,早稲田大学専門部独文科〔大正13年〕中退,ラインハルト演劇学校(ドイツ)
- 主な受賞名〔年〕
- 芸術選奨〔昭和27年〕「オセロ」「ウインザーの陽気な女房たち」,毎日演劇賞(演出部門)〔昭和27年・33年〕,テアトロン賞〔昭和32年〕「タルチュフ」,週刊読売新劇賞〔昭和33年〕「幽霊はここにいる」,芸術祭賞〔昭和34年〕「千鳥」(演出),朝日賞(昭52年度),芸能功労者表彰〔昭和54年〕,フンボルト大学名誉哲学博士号〔昭和57年〕
- 経歴
- 大正13年築地小劇場創立と同時に参加、「海戦」(ゲーリング)で初舞台。15年いったん脱退、プロレタリア演劇活動に入る。昭和2年ドイツ留学してドイツの表現主義を学び、6年帰国、7年東京演劇集団を結成し、ブレヒト作「三文オペラ」を翻案した「乞食芝居」を上演、ドスの〆吉を主演。11年新築地劇団で左翼演劇のリーダーとして活躍。戦争中2年間獄中生活を送り、19年青山杉作らと俳優座を結成、演出活動にも従事。西欧近代古典劇上演の基盤をつくると共に、リアリズム演技の名教科書といわれる「近代俳優術」の刊行、25年俳優座養成所の発足、29年俳優座劇場の創設など、俳優座のリーダー的存在として活躍。俳優としての代表作に「令嬢ジュリー」のジャン役があり、映画は「青色革命」など数多く出演。ブレヒト劇の翻訳紹介者としての功績も大。また日中文化交流、日朝文化交流にも多大の貢献をし、’60年安保では、新劇人の先頭に立った。61年「セチュアンの善人」の中国公演、62年チェルノブイリ原発事故を扱った「石棺」を演出する。没後の平成10年毎日芸術賞に千田是也賞が創設される。著書に「千田是也演劇論集」(全11巻・別巻3 未来社)、自伝「もうひとつの新劇史」、訳書にスタニスラフスキー「俳優の仕事」、「ブレヒト戯曲選集」など多数。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
千田是也 (せんだこれや)
生没年:1904-94(明治37-平成6)
新劇の代表的な演出家,俳優。本名は伊藤圀夫(くにお)。建築家伊藤為吉の末子として東京に生まれる。舞踊家伊藤道郎,舞台美術家伊藤熹朔(きさく)は実兄である。1922年東京府立一中を卒業,早稲田大学でドイツ文学を学んだのち,24年に築地小劇場に第1回研究生として参加。同年の第1回公演R.ゲーリングの《海戦》に出演した。27年から4年間,ドイツに渡り,帰国後は〈左翼的〉〈自由主義的〉色彩の濃い演劇活動を行っていたが,40年に検挙され,しばらくの間獄中生活を送った。戦争末期の44年,青山杉作,小沢栄太郎,東野英治郎,東山千栄子らと〈俳優座〉を結成,戦後,今日まで同座で中心的役割を果たし,戦後新劇の復興・発展に寄与するところ大であった。千田の活動の軌跡は,いわば日本における近代リアリズム劇の受容とその日本的な確立の歴史,つまりは〈新劇〉の歴史の一側面をよく代表するものであり,とくにその著《近代俳優術》(1949)に代表される近代的な演技術・俳優術の理論化の功績は大きい。また,とくに50年代後半以降の一連のブレヒト劇(およびその演劇理論)の精力的な翻訳紹介,上演も特筆に値するものであろう。自伝に《もうひとつの新劇史》(1975)がある。
執筆者:川添 裕
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千田是也【せんだこれや】
演出家,新劇俳優。本名伊藤圀夫。舞踊家,伊藤道郎,舞台美術家伊藤熹朔は兄。早大在学中に築地小劇場の研究生となる。1927年ドイツに渡りラインハルト演劇学校に学び,帰国後東京演劇集団を結成,さらに新築地劇団・新協劇団に参加して演出・演技の両面に活躍した。1944年青山杉作らと俳優座を創立,その指導者としてすぐれた功績を残す。1950年代後半以降はブレヒト劇の翻訳紹介にも努めた。著書は新劇の演技術を体系づけた《近代俳優術》など。
→関連項目小沢昭一
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千田是也
せんだこれや
(1904―1994)
演出家、俳優。本名伊藤圀夫(くにお)。東京に生まれる。舞踊家伊藤道郎(みちお)、舞台装置家伊藤熹朔(きさく)の実弟。東京府立一中卒業。早稲田(わせだ)大学独文科聴講生を経て、1924年(大正13)創立の築地(つきじ)小劇場に文芸部員兼演技研究生として参加、旗揚げ演目の一つ『海戦』の水兵役で初出演。27年(昭和2)から4年間ドイツに留学をし、労働者の革命的演劇に参加。帰国直後、軽演劇人も含めた演劇人統一組織の東京演劇集団を結成し、ブレヒト作『三文オペラ』の翻案的脚色『乞食(こじき)芝居』を上演した。さらに新築地劇団や新協劇団で、演出家、俳優として活躍。第二次世界大戦後は俳優座を結成し、その中核を担うとともに、新劇活動の中心的役割をも果たした。50年(昭和25)以降はそれ以前の真船豊(まふねゆたか)やチェーホフなど近代写実劇やスタニスラフスキー・システムの日本における確立から、安部公房(あべこうぼう)やブレヒト劇などの紹介に進み、演劇教育面でも傑出した仕事をする。夫人は女優の岸輝子(てるこ)。
[石澤秀二]
『『もうひとつの新劇史――千田是也自伝』(1975・筑摩書房)』▽『『千田是也演劇論集』全9巻(1980~92・未来社)』
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千田是也
せんだこれや
[生]1904.7.15. 東京
[没]1994.12.21. 東京
演出家,俳優。本名伊藤圀夫。舞踊家伊藤道郎,装置家伊藤熹朔の弟。早稲田大学独文科在学中の 1923年,築地小劇場の第1回研究生となる。 27~31年ドイツに滞在。東京演劇集団を経て,新築地劇団で『ハムレット』 (1933) に主演,新協劇団で真船豊作『遁走譜』 (40) を演出した。左翼演劇に対する弾圧により 40年から2年間入獄。 44年青山杉作らと俳優座を結成。『令嬢ジュリー』 (50) のジャン,『タルチュフ』 (57) の名演技や,真船豊,安部公房,チェーホフ,シェークスピア,ブレヒト作品などの演出で第2次世界大戦後の新劇界に足跡を残した。 77年朝日賞受賞。『千田是也演劇論集』 (全9巻) ,自伝『もうひとつの新劇史』がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
千田是也 せんだ-これや
1904-1994 昭和-平成時代の俳優,演出家。
明治37年7月15日生まれ。伊藤為吉の子。伊藤道郎(みちお),伊藤熹朔(きさく)の弟。岸輝子の夫。築地小劇場第1回公演でデビュー。昭和2年からドイツでまなぶ。19年俳優座結成,24年俳優座養成所開校,29年俳優座劇場開設など戦後新劇のリーダーのひとりとして活躍。ブレヒトの戯曲と理論を紹介した。映画出演も多い。平成6年12月21日死去。90歳。東京出身。早大中退。本名は伊藤圀夫(くにお)。著作に「もうひとつの新劇史」など。
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千田 是也 (せんだ これや)
生年月日:1904年7月15日
昭和時代;平成時代の俳優;演出家。劇団俳優座代表;日本演出家協会理事長
1994年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の千田是也の言及
【演技】より
…そして身体的行動の理論が,演劇に対する一番大きな貢献だとして,俳優から出発したスタニスラフスキーと戯曲から出発したブレヒト自身との違いをはっきりと認めながら,作品の主題に対する一貫した行動において一致点を見いだしている。 日本の現代演劇において,最初のまとまった実践的な演技論である《近代俳優術》(1949)を著した[千田是也]は,俳優・演出家としての体験と研究にもとづいて,身振り表情術,物言う術,役の創造について,精密な分析と科学的な考察を行っている。彼もスタニスラフスキー・システムの影響を受け,俳優のせりふとしぐさは,生きた人間のなかで一つに結ばれたものとして,有機的なダイナミックな体制をつくりだしている,と強調している。…
【築地小劇場】より
…当初翻訳劇のみを上演する方針をとったため,文壇から糾弾され,経営の困難や思想的混乱から試行錯誤をくりかえしたが,芸術的統率者としての演出者の地位確立,ヨーロッパ現代劇の移入紹介,創作劇の上演などに画期的な成果を収めていった。千田是也,山本安英,杉村春子,滝沢修など現代の新劇団の指導者もここから多く育った。28年末に小山内が急逝し,翌29年には土方らが結成した〈新築地劇団〉と,残留組の〈劇団築地小劇場〉とに分裂し,劇団としての活動を終えた。…
【人形劇】より
… 日本では文楽がながく興行資本の下におかれていたため,マリオネットの実験的な試みは1920年代にやっと起こった。21年(大正10)に土方与志(ひじかたよし)舞台装置研究所で装置家[伊藤熹朔](きさく)が弟の演出家千田是也と協力して人形劇に手をそめ,29年には川尻東次が人形クラブを創立した。この劇団は川尻泰司が受けついで,人形劇団プークとして今日にいたっている。…
【ブレヒト】より
…[異化][叙事演劇]
[日本における受容]
すでに昭和初期の表現主義紹介期に《夜打つ太鼓》が翻訳され,1932年(昭和7)には《三文オペラ》の翻案《乞食芝居》が東京演劇集団によって上演されたが,ナチスによる禁止以後は,日本でもその存在が忘れられた。 第2次大戦後ブレヒトの活動が再び国際的な注目を浴びだした50年代から,[千田是也]が精力的に導入を試み,53年の《第三帝国の恐怖と貧困》の上演以後,俳優座や若手劇団による上演が活発化し,合同公演《ガリレイの生涯》(1958)で異化効果や叙事演劇の問題が論じられるようになった。ブレヒトを単純な啓蒙政治劇とみた保守派や,リアリズムを逸脱するとみた教条的進歩派の誤解はあったが,その方法論は,安部公房,宮本研,福田善之などの劇作にも影響を与えだした。…
※「千田是也」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」