天正年間に九州のキリシタン大名の名代として、イエズス会の企画によって南ヨーロッパに派遣された伊東マンショら4人の少年使節。「天正少年使節」「天正遣欧少年使節」ともいわれる。
織田信長の晩年に来日したイエズス会日本巡察師バリニャーノは、1582年2月(天正10年正月)に長崎を離れる直前に、日本人の若者をキリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することを企てた。その目的の一は、かの地のキリスト教界が、いかに華麗で偉大であるかを日本人に見聞させ、帰国後、その同胞に直接語らせることによって布教上の成果を期したこと、他は、ヨーロッパにおいてローマ法王をはじめ王侯貴族に日本人を紹介することによって、彼らの心を動かし、日本での布教事業に理解を深めてもらい、援助を請うことにあった。使節の人選は急いだこともあって、島原半島の有馬(ありま)セミナリオの在学生のなかから、大友宗麟(そうりん)の名代としては、その遠縁(妹の娘の夫の妹の子)である伊東マンショ、有馬晴信(はるのぶ)(鎮貴(しげたか))と大村純忠(すみただ)の名代としては両人の親族である千々石(ちぢわ)ミゲルとし、中浦ジュリアン、原マルチノ両人を副使に任じた。一行は1583年ゴアに達したが、バリニャーノはそこにとどまらねばならなくなり、日本語に通じたポルトガル人ディオゴ・デ・メスキータが使節の指導にあたった。1584年8月リスボンに到着。当時、ポルトガル国王はスペイン国王フェリペ2世が兼ねていたので、マドリードに赴いて謁見を賜り、その援助によって地中海を渡り、イタリアに向かった。トスカナ大公国で大歓迎を受けたのち、1585年3月23日、使節らは法王グレゴリウス13世から、帝王の間において最高の待遇をもって引見され、次の法王シスト5世からも援助を約束されたり、ローマの市民権証書を授けられたりしたのち、北イタリアの旅を続け、スペイン、ポルトガルを経て帰国の途についた。インドにおいてバリニャーノと再会したが、マカオに着いたところ、日本からは、豊臣(とよとみ)秀吉が宣教師追放令を発したとの報に接し、一行はインド副王の使節の資格で入国を許可された。
1590年7月(天正18年6月)一行は長崎に帰り、翌年3月(旧暦閏(うるう)正月)、聚楽第(じゅらくだい)において秀吉に謁した。正副4使節はイエズス会に入ったが、のち千々石ミゲルは棄教し、他の3名は司祭になったが、いずれも病死、殉教死を遂げ、当初バリニャーノが期待したようには活動できなかった。しかし、ヨーロッパ・キリスト教世界に日本と日本人を知らしめた功績は大きい。
[松田毅一]
『岡本良知訳・注『フロイス・九州三侯遣欧使節記』(1942・東洋堂)』▽『東京大学史料編纂所編・刊『大日本史料 11編別巻 天正遣欧使節関係史料』(1959)』▽『泉井久之助他訳『デ・サンデ天正遣欧使節記』(1969・雄松堂出版)』▽『松田毅一著『史譚・天正遣欧使節』(1977・講談社)』
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イエズス会巡察師バリニャーノの発起により豊後の大友義鎮(宗麟),肥前の有馬晴信,大村純忠の3キリシタン大名がローマ教皇に遣わした4少年からなる使節。バリニャーノはインド,ローマへの帰還に当たり,急きょ日本人キリシタンのローマ派遣を計画した。有馬のセミナリヨに学んでいた少年4名,正使に伊東マンショと千々石(ちぢわ)ミゲル,副使に原マルチノと中浦ジュリアンが選ばれて1582年(天正10)2月長崎を出帆,ゴア,リスボン,マドリード,フィレンツェを経て85年2月ローマ入りし,教皇グレゴリウス13世に謁した。教皇の死で使節はその葬儀に参列し,のち新教皇シクストゥス5世にも謁しその戴冠式にも参列した。遣使の目的は,教皇に東洋の新しいキリスト教徒を披露し,使節にキリスト教世界の現状と偉容,キリスト教諸王侯の広大尊貴さと権威,壮大豪華な諸建造物などを見聞させ,使節を通じて日本人に知らせ布教活動の一助とするため,またイエズス会の日本布教における実績をローマ教会とヨーロッパ世界に強く印象づけ,これによって教皇から日本布教に対する物心両面の援助を得ようとするためであった。4使節は所期の目的を達し印刷機を持参して90年7月長崎に帰着し,翌年インド副王使節の肩書のバリニャーノに同行して聚楽第で豊臣秀吉に拝謁した。彼らは同年イエズス会に入り,のち退会した千々石ミゲル以外の3人はともに司祭に叙階された。
執筆者:五野井 隆史
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1582年(天正10)イエズス会によって企画・実現された,キリシタン大名派遣の少年遣欧使節。大友宗麟・有馬晴信・大村純忠の名代として,伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノら4少年をヨーロッパに派遣した。目的は彼らにキリスト教社会を見聞させることによって帰国後の布教活動の効果を期待したことと,彼らをヨーロッパの人々にみせることによってヨーロッパ社会の日本への布教熱を喚起することにあった。ローマ市民権を得るなど歓待されたが,日本では87年(天正15)バテレン追放令が発布されたため,インド副王使節の名目でバリニャーノに率いられて90年帰国した。
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…織田信長はこれを歓迎したが,豊臣秀吉は1587年追放令(伴天連(ばてれん)追放令)を発した。その5年前,大村純忠らによって派遣された天正遣欧使節はローマに赴いて教皇グレゴリウス13世に謁している。禁教にもかかわらず,フランシスコ会士は1593年に初来日し,宣教師の一人ソテロは仙台へ行き,伊達政宗に迎えられた。…
…インド中西部アラビア海に面する州。コンカンKonkan海岸の南端にある。1961年インド政府の武力解放により,ボンベイ北方のダマン,カーティアーワール半島海岸部のディウDiuの両旧ポルトガル領植民地とともにインド共和国に併合され,あわせて政府直轄地となる。87年ゴアのみで州になり,ダマン・ディウは直轄地として残った。面積3702km2,人口117万(1991)。州都はパンジムPanjim(パナジPanaji,新ゴア)。…
…G.ロマーノ(1499ころ‐1546)には,幻想的な別荘(パラッツォ・デル・テ)の設計と内部装飾を委嘱し,さらに同市の都市計画も依頼し,ヨーロッパでも有数の整備された美しい都市とした。ちなみに,天正遣欧使節一行がマントバ滞在のおりには,グリエルモ公(在位1550‐87)の訪問をうけ,ミンチオ川の形成する湖上で市民3万人以上の歓迎の花火大会に出席している。1707年オーストリア領となり,96年6月から8ヵ月間ナポレオン軍に包囲されて陥落した。…
※「天正遣欧使節」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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