17世紀後半から18世紀末にかけて神聖ローマ帝国下のドイツ・オーストリアに発達した,行政に関する諸学の総称。三十年戦争後のウェストファリア条約(1648)により神聖ローマ帝国内の各領邦には領邦主権が認められ,帝国は連邦となった。これ以降各領邦君主は絶対君主制の確立をめざして競争しはじめた。当時の領邦君主を補佐していた官庁が官房Kammerと呼ばれ,ここに近代官僚制の萌芽が形成されていたのである。官房学はこのような領邦君主と官僚のための学問であり,絶対君主制を確立するための学問であった。そこで,約1世紀半にわたる官房学に共通していたのは,重商主義のドイツ版というべき経済政策によって君主の財庫の繁栄をはかる方策が論じられ,君主主権の絶対性が弁証され,後見主義的な官房行政が一般福祉の名のもとに正当化されたことである。もちろん,官房学も時期的に変遷している。1727年にプロイセンの大学で官房学の公開講座が開設され,これより組織的な官僚養成教育がはじまっているので,これ以前の官房学を前期官房学,以後のそれを後期官房学という。前期官房学者にはゼッケンドルフV.L.von Seckendorff,ベッヒャーJ.J.Becher,ヘールニクP.W.von Hörnigk,シュレーダーW.F.von Schröderなどがおり,領邦君主に対して個別具体的で実践的な献策をするための著作が多かった。これに対して,後期官房学者にはユスティJ.H.G.von Justi,J.vonゾンネンフェルス,ベルクG.H.von Bergなどがおり,彼らの著作には官僚養成講座用の教科書が多く,その内容も総合的体系的で理論的であった。また後期官房学には自然法哲学の影響があらわれ,君主をも拘束する法の観念が徐々に形成されていった。しかし,1806年に神聖ローマ帝国がナポレオンに敗れ崩壊して以来,ドイツ・オーストリアの各領邦にも憲法闘争が生じ,絶対君主制は立憲君主制に移行していった。官房学は絶対君主制の終焉(しゆうえん)とともに衰退し,これに代わってこの土壌のなかからドイツ流の財政学,経済政策学,国家学,行政学,公法学が分化発展していくことになった。官房学の影響はドイツ流の国家学,公法学等をとおして明治以来の日本にもおよんでいる。
執筆者:西尾 勝
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…広義には,政府の行政に関する種々の研究の総称である。この広義の行政学の淵源をもとめるなら,それは17世紀中葉以来神聖ドイツ・ローマ帝国内の各地で発達した官房学である。官房学は,のちの財政学,行政学,行政法学,経済政策学等の母胎であった。…
※「官房学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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