江戸末期の書家。儒者市河寛斎の長男として江戸京橋に生まれる。名は三亥(みつい)。字は孔陽。幼時より父の薫育をうけ,林述斎,柴野栗山について儒学,詩文を学ぶ。書は初め持明院流を習ったが,心はおのずから唐様書道に傾き,宋の米芾(べいふつ)を慕い,来舶清人の胡兆新に書法を学んだ。晋・唐を宗とし,さらに明・清の集帖や江戸期舶載の真跡を重んじ,ついに唐様崇拝の理想を大成し,巻菱湖(まきりようこ),貫名海屋(ぬきなかいおく)と並んで〈幕末三筆〉と称される。また書論,書法,字体,文房具など広く資料を収集,研究し,《米庵墨談》《清三家書論》《小山林堂書画文房図録》など多くの著作,図録を刊行している。
執筆者:角井 博
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江戸末期の書家。江戸の人。儒者市河寛斎(かんさい)の子。名を三亥(さんがい)、字(あざな)を孔陽(こうよう)また小春といい、米庵はその号。楽斎、金洞山人などの別号もある。幼時より父の薫育を受け、林述斎(はやしじゅっさい)や柴野栗山(しばのりつざん)から朱子学と書を学び、とくに書は、中国宋(そう)代の米芾(べいふつ)に傾倒した。25歳のときに長崎へ旅行し、清(しん)人胡兆新(こちょうしん)から直接に書法を受け、しだいに筆力旺盛(おうせい)な米庵流を創始してゆく。父没後、加賀藩に招かれてから、その書名はますます高くなり、晩年には大名、町人、僧侶(そうりょ)など5000人もの門下を擁したという。後世、巻菱湖(まきりょうこ)、貫名海屋(ぬきなかいおく)とともに、「幕末の三筆」とうたわれた。扁額(へんがく)、長幅、横幅などの形状別に書式を示した『略可法』をはじめ、漢籍のなかから揮毫(きごう)に適した語句、詩編を抜粋した『墨場必携(ぼくじょうひっけい)』など、今日においても有益な著書を残している。
[久保木彰一]
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…諱は如一(によいち),木庵の法弟)を〈黄檗の三筆〉,また近衛信尹(のぶただ)(号は三藐院(さんみやくいん)),本阿弥光悦,松花堂昭乗を〈寛永の三筆〉と呼ぶが,この呼名もおそらく明治以降であろうといわれ,1730年代(享保年間)には寛永三筆を〈京都三筆〉と呼んでいる。また巻菱湖(まきりようこ),市河米庵,貫名海屋(ぬきなかいおく)(菘翁(すうおう))の3人を〈幕末の三筆〉という。三蹟【栗原 治夫】。…
… 幕末には明の文芸的な文化として文人趣味が流行し,書画をよくし作詩の教養を重んじる,池大雅,皆川淇園,与謝蕪村,頼山陽などの文人書家が知られる。このころ書のみで一家をなした市河米庵・貫名海屋(ぬきなかいおく)・巻菱湖(まきりようこ)は〈幕末の三筆〉と呼ばれる。この3人は晋・唐の書法を基礎として学問的研究を進めたが,米庵はとくに宋の米芾(べいふつ)に傾倒し,書論等も著し,その著《墨場必携》は揮毫用の範例を示したものとして今日にまで重宝されている。…
…元禄期の唐様書家細井広沢(こうたく)は《思貽斎管城二譜(しいさいかんじようにふ)》を著し,所蔵の唐筆や自己の体験をもとに製筆法を説き,唐様の無心筆を考案した。 幕末の市河米庵(べいあん)も蔵筆200余枝の図録《米庵蔵筆譜》(1834)をはじめ,《米庵墨談》正・続,《小山林堂書画文房図録》などを刊行し,文房具に関する研究を深めた。製墨で有名な奈良の古梅園が京都に店を出し,薬物薫香を業とした鳩居堂が,筆の販売にも携わるようになった。…
※「市河米庵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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