浄土に往生するため,念仏以外の行をまじえず,〈南無阿弥陀仏〉とただひたすらに念仏を唱えること。法然やその門流の宗教的立場を端的に示す語である。広義には,思想的,教団的に浄土宗の立場にあることを示し,他宗からは単に専修,または専修僧,専修念仏宗などとよばれた。浄土宗ないし念仏行者に対する異称でもあった。法然以前にももっぱら念仏を修して往生した人々はあり,往生伝が作られているが,それら念仏者は,諸行のなかの一つとしての念仏を修していた。法然の教説では,〈弥陀の一切衆生のためにみづからちかひたまひたりし本願の行なれば,往生の業にとりては念仏にしくことはなし〉(〈津戸三郎へつかはす御返事〉)と信じて,一向に修する念仏が要求されており,法然以前と以後とでは念仏観に質的相違があった。念仏は行者が選ぶものではなく,阿弥陀仏が選んだものであるゆえに絶対の価値があるとされた。念仏は弥陀の本願の行であるから,この本願に順応して,一向に念仏を唱えれば往生できる,というのが基本の考えである。
〈一向専念〉〈一向専修〉〈一向に念仏〉などと〈一向〉の語が専修を意味していたが,一向とは〈ひとへに余の行をばえらびすて,きらひのぞく心〉であった。したがって称名以外の余行をすべて否定した法然の教説は既成教団とまっこうから対立した。他宗から専修とか専修念仏とよばれた場合,多くはその言葉に敵愾心(てきがいしん)がこもっていた。法然や信徒の宗教は偏執とみられたが,その謗難は一向専修とその行為を支える〈選択(せんちやく)本願念仏〉の義に対してなされたのである。〈選択本願念仏〉の教説は,法然の念仏論を他から区別するものであり,〈選択〉の義で念仏を理解したのは法然が最初である。この教義を体系的に論述したのが《選択本願念仏集》であった。法然が余行を捨てて念仏を専修するのは,1175年(安元1),43歳のときであるが,法然の教説を信奉するものが増加し,彼らを指して〈専修〉とよばれるようになるのは《選択本願念仏集》が著される前後からであった。1204年(元久1)延暦寺の衆徒が専修念仏の停止を座主に訴え,05年興福寺衆徒が八宗の人々とともに念仏の禁断を後鳥羽院に訴えている。この興福寺奏状のなかにも〈専修念仏の宗義〉〈専修の輩〉といった語がみえる。法然の没後も門弟たちに対し〈専修念仏の輩〉〈専修念仏法師〉(《明月記》)などの称が用いられている。当時の社会にあっては〈専修〉の語はしばしば〈念仏宗〉と同義語であった。このことから法然教団や法然の直弟子たちが活動していた期間の初期浄土宗は専修念仏宗とよばれている。
→法然
執筆者:伊藤 唯真
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
極楽に往生するためにひたすら念仏を称えること。念仏の仏は阿弥陀仏で,念は観念の念ではなく口に南無阿弥陀仏の六字の名号を称える口称(くしょう)念仏をいう。法然(ほうねん)は「選択(せんちゃく)本願念仏集」で口称念仏以外の行を雑修として退け浄土宗の基本理念としたが,内部に幸西(こうさい)の一念義と隆寛(りゅうかん)の多念義の対立を含み,諸行をも本願とする長西(ちょうさい)なども現れ,浄土宗の発展にともないその内実は複雑に展開した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…これにより称名が仏意にかなった行であることを体認した法然は,〈偏依善導〉の態度をゆるぎないものとし,以後,元久・建永(1204‐07)のころにかけて,最晩年に書かれた《一枚起請文》に直結する思想に到達したのである。専修(せんじゆ)念仏が高まった1204年,延暦寺衆徒が念仏停止を座主真性に訴えた。法然は軋轢を避けるため,直ちに七ヶ条制誡をつくって門弟に自重を促した。…
※「専修念仏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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