毛利輝元(読み)もうりてるもと

精選版 日本国語大辞典 「毛利輝元」の意味・読み・例文・類語

もうり‐てるもと【毛利輝元】

安土桃山時代の武将。隆元の長男。祖父は元就。織田信長の中国攻略に抗戦。本能寺の変以後豊臣秀吉の下で戦功を重ね、五大老の一人となった。関ケ原の戦いでは西軍の総大将格であったため、所領を周防・長門二国に減らされた。天文二二~寛永二年(一五五三‐一六二五

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デジタル大辞泉 「毛利輝元」の意味・読み・例文・類語

もうり‐てるもと【毛利輝元】

[1553~1625]安土桃山時代の武将。元就もとなりの孫。織田信長に反抗し、豊臣秀吉の攻撃を受けたが、本能寺の変によって和睦。のち、秀吉に仕えて五大老の一人となったが、関ヶ原の戦いで西軍に参加したため、所領を長門・周防すおう2国に削られた。

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朝日日本歴史人物事典 「毛利輝元」の解説

毛利輝元

没年:寛永2.4.27(1625.6.2)
生年:天文22.1.22(1553.2.4)
戦国から江戸時代初期にかけての武将。父は隆元,母は大内義隆の養女(内藤興盛の娘)。幼名幸鶴丸。少輔太郎,右馬頭,参議,権中納言。永禄6(1563)年父の急死によって家督を相続。同8年元服して将軍足利義輝の諱の1字をもらい輝元と称した。祖父元就の出雲尼子氏攻撃の陣に加わり,初陣の功を立てる。元亀2(1571)年元就死後は,叔父吉川元春・小早川隆景,一族福原貞俊・口羽通良らの輔佐を受け,尼子氏を下して中国地方一円に拡大した領国の支配強化のための政策を推進した。天正4(1576)年,織田信長に追放された室町幕府将軍足利義昭を備後国鞆(福山市)に迎えて反信長の立場を明らかにし,石山本願寺を救援するなど,優勢な水軍力と石見銀山の富を背景に信長の天下統一の前に立ち塞がった。しかし,信長の部将羽柴(豊臣)秀吉の攻勢を受け,機動力と兵站力で劣る毛利軍は山陰・山陽の両戦線で後退を余儀なくされ,同10年,備中高松城(岡山市)を包囲した秀吉と講和を結んだ。本能寺の変の報に接して兵を引く秀吉軍を追撃しなかったことで輝元は秀吉の信を得たともいわれ,その後は秀吉の四国・九州制圧に先陣を務めた。 天正16年の上洛と前後して領内総検地(惣国検地)と広島築城を開始,家臣知行地の大幅な移動を実施するなど領国支配体制の変革を進め,同19年には秀吉から112万石の知行目録を与えられている。慶長2(1597)年五大老のひとりとなり,最大級の大名として豊臣政権下で重きをなした。同5年関ケ原の戦では,反徳川家康陣営の総大将格として大坂城に入ったが敗戦,吉川広家の斡旋により周防・長門両国のみを維持することが許された。このとき剃髪して宗瑞または幻庵と称し,隠居して家督を6歳の秀就に譲った。父祖の築いた領国を若年で相続したいわゆる3代目であったが,信長,秀吉,家康という天下を狙った英雄たちに対抗し,幾度かの危機を乗り越えながら近世大名としての毛利家存続の礎を築いた人物といえよう。<参考文献>三卿伝編纂所編『毛利輝元卿伝』

(秋山伸隆)

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改訂新版 世界大百科事典 「毛利輝元」の意味・わかりやすい解説

毛利輝元 (もうりてるもと)
生没年:1553-1625(天文22-寛永2)

戦国~安土桃山時代の武将。隆元の嫡子。幼名幸鶴丸,少輔太郎,右衛門督,右馬頭。1563年(永禄6)父の死により家督を継ぎ,祖父元就の後見をうけ,その死後も叔父吉川(きつかわ)元春小早川隆景補佐により山陰・山陽10ヵ国に及ぶ領国を維持した。やがて京都を追われた足利義昭を迎え,石山本願寺に兵糧を援助するなど織田信長と対立し,77年(天正5)より羽柴(豊臣)秀吉の侵攻をうけ播磨,因幡に戦う。82年備中高松で講和し,以後秀吉に従い四国・九州両征伐に従軍。その後領内に惣国検地を実施し91年秀吉より9ヵ国112万石を安堵され,郡山城から広島城に本拠を移す。豊臣政権下では文禄・慶長の役に従軍,権中納言に任ぜられ,五大老の一人となる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦では西軍の総大将となり大坂城に入るが,実戦には参加しなかった。戦後,防長両国に減封され,剃髪して宗瑞と号し,家督を子の秀就に譲ってこれを後見した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「毛利輝元」の意味・わかりやすい解説

毛利輝元
もうりてるもと
(1553―1625)

安土(あづち)桃山時代の武将。隆元(たかもと)の長男。幼名幸鶴丸(こうづるまる)。少輔(しょう)太郎(たろう)と称す。将軍足利義輝(あしかがよしてる)の一字を受けて輝元と名づけられた。豊臣(とよとみ)政権のもと羽柴(はしば)姓を唱え、参議権中納言(ごんちゅうなごん)に任じられた。叔父吉川元春(きっかわもとはる)と小早川隆景(こばやかわたかかげ)に援(たす)けられて広大な領国をよく維持し、1577年(天正5)以来織田氏の将羽柴(豊臣)秀吉の来攻に対して中国東部各地で戦い、82年6月備中(びっちゅう)(岡山県)高松城で秀吉と講和した。翌年安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を使者にたてて秀吉と境界を折衝し、結局領国を保持することで豊臣政権に協力し、四国・九州征服に加わり、89年中国経営の本拠として広島築城に着手、91年郡山(こおりやま)の山城(やまじろ)を捨てて移った。同年秀吉から安芸(あき)、備後(びんご)、周防(すおう)、長門(ながと)、石見(いわみ)、出雲(いずも)、隠岐(おき)の全域と伯耆(ほうき)、備中の各一部合計112万石の朱印状を受け、ついで文禄(ぶんろく)の役にも出動、五大老の一人となる。関ヶ原の戦いのとき、大坂で秀頼(ひでより)傅育(ふいく)の任にあたったが、西軍総大将の責を問われ、薙髪(ちはつ)して宗瑞(そうずい)と称し、幼児秀就(ひでなり)が防長2国を授けられ、1604年(慶長9)萩(はぎ)に築城したが、事実上は輝元が政務をみていた。

[福尾猛市郎]


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百科事典マイペディア 「毛利輝元」の意味・わかりやすい解説

毛利輝元【もうりてるもと】

安土桃山時代の武将。元就(もとなり)の孫。隆元の子。初め叔父の吉川(きっかわ)元春小早川隆景に助けられ,織田信長に追われた将軍足利義昭を迎えて信長と覇を争い,本能寺の変後,豊臣秀吉と和した。秀吉に従って重きをなし五大老に列したが,関ヶ原の戦に徳川家康に反して大坂城に入ったため,戦後領地の大部分を削られ周防(すおう)・長門(ながと)のみを与えられた。
→関連項目雲谷等顔四国征伐毛利氏

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「毛利輝元」の意味・わかりやすい解説

毛利輝元
もうりてるもと

[生]天文22(1553).安芸
[没]寛永2(1625).4.27. 長門
安土桃山~江戸時代初期の武将。隆元の子。幼名,幸鶴丸。通称,少輔太郎。号,宗瑞。元亀2 (1571) 年祖父元就の跡を継いで,山陽,山陰 10ヵ国と豊前,筑前2ヵ国の大守となり,天正5 (77) 年以来,織田信長の軍勢と中国路で対戦するにいたった。本能寺の変後,中国攻略の織田方の主将羽柴 (豊臣) 秀吉と和して,秀吉の支配下に入り,同 16年参議,慶長2 (97) 年従三位権中納言に叙し,豊臣家五大老の一人となった。関ヶ原の戦いには西軍の盟主となって戦ったが敗れ,剃髪した。吉川広家の努力によって除封を免れ,長門,周防2ヵ国 36万 9000石に削減され,萩に移った。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「毛利輝元」の解説

毛利輝元
もうりてるもと

1553.1.22~1625.4.27

戦国末~近世初期の武将。隆元の長男。安芸国郡山城生れ。1563年(永禄6)父の急死により家督相続,祖父元就(もとなり)に後見された。元就没後は叔父吉川(きっかわ)元春・小早川隆景の補佐で,東中国の経略につとめた。76年(天正4)には,前将軍足利義昭を奉じて織田氏と対抗,石山本願寺救援などに戦果をあげるが,82年備中国高松城で交戦中の豊臣秀吉と和睦。豊臣政権下で四国攻め・九州攻めの先鋒をつとめた。91年,秀吉から112万石の知行目録をうけ,朝鮮出兵に従う。97年(慶長2)豊臣家の五大老に列し,関ケ原の戦では西軍盟主とみなされ,戦後周防・長門2国に減封,隠居して家督を秀就(ひでなり)に譲る。1609年萩に築城して移り,以後も実質的に藩政をつかさどった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「毛利輝元」の解説

毛利輝元 もうり-てるもと

1553-1625 織豊-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)22年1月22日生まれ。毛利隆元の長男。永禄(えいろく)6年(1563)家督をつぐ。織田信長の勢力に対抗,本能寺の変後は豊臣秀吉と講和した。中国9国に112万石を領し,豊臣政権の五大老のひとり。関ケ原の戦いで西軍の総大将格となり,戦後は周防(すおう),長門(ながと)の2国に減封された。寛永2年4月27日死去。73歳。法名は宗瑞。
【格言など】将軍家への御奉公をおこたらず,家名存続を第一に考えよ

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旺文社日本史事典 三訂版 「毛利輝元」の解説

毛利輝元
もうりてるもと

1553〜1625
安土桃山時代・江戸初期の武将
元就 (もとなり) の孫。中国地方10カ国120万石を領有。織田信長に対抗して石山本願寺を助けたが,備中(岡山県)高松城攻めののち,豊臣秀吉と和睦。秀吉に臣従し,五大老の一人となった。関ケ原の戦いでは西軍の主将となり,敗れて周防 (すおう) ・長門2カ国37万石に減封された。

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防府市歴史用語集 「毛利輝元」の解説

毛利輝元

 毛利元就[もうりもとなり]の孫にあたります。中国地方ほぼ全域を領地とし、豊臣[とよとみ]家の五大老[ごたいろう]の1人となりますが、関ケ原[せきがはら]の戦いで西軍に属したため、周防[すおう]・長門[ながと]の2国に領地を減らされてしまいます。

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367日誕生日大事典 「毛利輝元」の解説

毛利輝元 (もうりてるもと)

生年月日:1553年1月22日
安土桃山時代;江戸時代前期の大名;五大老
1625年没

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世界大百科事典(旧版)内の毛利輝元の言及

【安芸国】より

…毛利氏は75年本願寺顕如の依頼に応じ石山本願寺を援助して信長勢力と対立するが,82年(天正10)信長の部将羽柴秀吉と和談が成立,85年には境目問題も解決し,豊臣政権下8ヵ国にまたがる大大名となった。【松岡 久人】
【近世】
 1589年(天正17)毛利輝元は太田川河口デルタの地に広島城の建設をはじめ,91年本拠を山間の郡山城から移した。内海に臨み,四通八達の地を利して領国の統一を固めようとしたのである。…

【五大老】より

…豊臣秀吉の遺言状案では〈おとな五人〉といわれ,1598年(慶長3)9月の起請文写しでは五奉行と合わせて十人の衆と呼ばれている。豊臣政権最高の施政機関で,構成は徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,上杉景勝からなり,家康と利家とが上首であった。1595年(文禄4)の起請文前書によれば,家康は坂東の法度置目公事篇の儀を,輝元と小早川隆景とは坂西のそれを委任されているし,秀吉の遺言状によれば利家は秀吉の盟友であって豊臣秀頼の傅(ふ),宇喜多秀家は豊臣氏と一体であった。…

【関ヶ原の戦】より


[原因]
 1598年8月の豊臣秀吉死後の政権は,家康を筆頭とする五大老と三成を筆頭とする五奉行によって運営されることとなった。秀吉の遺言によれば,家康,前田利家,毛利輝元,上杉景勝,宇喜多秀家の五大老が秀頼を後見し,〈御法度,御置目〉などの天下の政治は長束正家,石田三成,増田長盛,浅野長政,前田玄以の五奉行が合議によって推進し,太閤蔵入地その他の中央政権を支える財政の〈算用〉は,家康,利家の2人が総攬することになっていた。このことは,8月から9月にかけて五大老,五奉行の間で交換された多数の誓書によって確認され,秀吉の死で緊急の課題となった朝鮮からの撤兵も,この体制によって実施された。…

【広島[市]】より

…市中心部には世界遺産に登録された〈原爆ドーム〉を含む平和記念公園のほか,原形復元された表御門のある広島城跡(史),旧藩主浅野氏の庭園縮景園(名),市内を展望できる比治山公園などがある。【藤原 健蔵】
[広島城下]
 1589年(天正17)4月から毛利輝元の島普請とよばれる広島城の建設が行われ,以後毛利,福島,浅野の各大名の城下町として発展した。毛利時代は,枝状に分かれた太田川本・支流と,平田屋川・西堂川(せいとうがわ)両運河に堤防を築き,大規模な城郭を中心として周辺に広く武家屋敷を配置し,町人町は城郭の南西に区画したが,皮屋・材木両町のほかは町名も明らかでない。…

【広島藩】より

…安芸国(広島県)広島に居城した外様大藩。毛利輝元が1589年(天正17)太田川河口デルタの地を広島と命名して築城に着手,翌々年吉田郡山城からここに移り,中国地方9ヵ国にまたがる大領国を支配する拠点と定めたのがその起りである。関ヶ原の戦後,毛利氏が周防,長門2国に削封されて去ったあと,広島城に入ったのは安芸,備後両国を領した福島正則である。…

【毛利氏】より

…(1)西中国の雄族で中・近世大名(図)。大江広元が相模国毛利荘をその子季光に譲り,季光がここを苗字の地としたのに始まる。季光は宝治合戦(1247)で三浦氏に荷担したため同荘を没収されたが,その第4子経光は荷担せず越後国佐橋荘,安芸国吉田荘等を保持した。経光は1270年(文永7)両所を第4子時親に譲った。吉田荘では96年(永仁4)領家・地頭間で下地中分(したじちゆうぶん)が行われ,時親は吉田,麻原(おはら)を領した。…

※「毛利輝元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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