日本の流行歌の一種。歌によって意見を述べるという意味で、「演説」に対応することばとして明治中期から使用された。思想を歌に託して表明することは古くから行われてきたが、植木枝盛(えもり)作『民権田舎歌(いなかうた)』や安岡道太郎(みちたろう)(1847―1886)作『よしや武士(ぶし)』のように、「数え歌」や「都々逸(どどいつ)」の旋律に頼るものは演歌とよばない。したがって演歌の嚆矢(こうし)は川上音二郎作『オッペケペー』となる。1889年(明治22)の暮れにつくられたこの歌は、京都・新京極の寄席(よせ)で公開されるや、たちまち京都市民の心をとらえた。政府の施策を非難することなく、自由と民権の伸張を平易に説く『オッペケペー』は、多年にわたる川上の反権力闘争の成果といえるが、翌年に壮士芝居を率いて東上した川上一座の公演によって、横浜や東京でも流行し始めた。絶頂に達するのは1891年6月以降である。歌詞の内容とリズムをたいせつにするだけで、一定の旋律をもたないこの歌は、音楽的にはデクラメーションdeclamationという。端唄(はうた)や俗曲以外、はやり歌が皆無に近かった当時の民衆にとって、だれもが容易に口ずさめる『オッペケペー』は、民衆娯楽の新分野を形成することになった。
東京にたむろする壮士のなかには、川上をまねて街頭で放歌高吟するかたわら、この歌本を売って生活の糧(かて)を得る者が現れる。『ヤッツケロ節』『欽慕節(きんぼぶし)』『ダイナマイトドン』など同類の歌もつくられたが、政府を弾劾する歌詞もあって、しばしば官憲の弾圧を受けた。こうした壮士の歌に「演歌」の名を冠する一団もあったが、世間では一般に「読売」とか「壮士歌(うた)」とよんだ。ところが壮士の大半は書生であり、『法界節(ほうかいぶし)』や『日清(にっしん)談判破裂して』を月琴(げっきん)で流したので、壮士歌はむしろ「書生節」という名称で親しまれるようになった。そのころ、黒地の着物に編笠(あみがさ)をかぶり、薄化粧を施して娘たちの歓心を買おうとする書生たちの行為は、社会問題として大きな波紋をよんだ。添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)が、社会主義的な歌をつくったのもこの時代である。
1910年代になると、東京の神長瞭月(かみながりょうげつ)(1888―1976)と大阪の中林武雄の歌がもてはやされ、『残月一声』『松の声』『不如帰(ほととぎす)』などが好まれた。やがてバイオリンが用いられると、目新しいこの楽器にひかれ、書生節の周辺を聴衆が取り巻くことになる。大正中期、『一かけ節』や『七里ヶ浜の仇浪(あだなみ)』(真白き富士の嶺(ね))が全国に浸透するころ、書生節の歌手は「演歌師」といわれ始め、映画の力とも相まって『船頭小唄(こうた)』や『籠(かご)の鳥』が一世を風靡(ふうび)した。
1930年代になってレコード歌謡に人気が集まると、書生節は消滅して「歌謡曲」が台頭し、東海林(しょうじ)太郎、音丸(おとまる)(1906―1976)、上原敏(びん)(1908―1944)らが「流行歌手」として誕生してくる。またレコード会社専属の作詞家として西条八十(やそ)、佐伯孝夫(さえきたかお)(1902―1981)、藤田まさと(1908―1982)、作曲者として古賀政男(まさお)、古関裕而(こせきゆうじ)(1909―1989)、大村能章(のうしょう)(1893―1962)ほか多士済々。そして1960年(昭和35)前後に「艶歌(えんか)」ということばとともに「演歌」が復活する。美空ひばりをはじめ、島倉千代子(1938―2013)、春日八郎(かすがはちろう)(1924―1991)、三波春夫(みなみはるお)(1923―2001)ら、枚挙にいとまがないほど多数の歌手が出現し、その歌声は民衆の魂を揺さぶって黄金時代を形成した。外国のポップスの流行につれて、こぶしのきいた日本調の歌謡曲を演歌とよんだわけであるが、第一次オイル・ショック(1973)を境に歌謡曲は演歌とニューミュージックに二分された。こうした用語の変遷や歌詞ないしは歌い方に注目するとき、今日の演歌は、日本的な土壌に立脚した歌声だと定義づけることができよう。1970年代以降も、北島三郎(1936― )、森進一(1947― )、五木(いつき)ひろし(1948― )、細川たかし(1950― )、都(みやこ)はるみ(1948― )、水前寺清子(すいぜんじきよこ)(1945― )、八代亜紀(やしろあき)(1950―2023)、小林幸子(さちこ)(1953― )、石川さゆり(1958― )らの歌手が活躍し演歌を支えているが、歌謡曲のさらなる多様化、演歌ファン層の高齢化などにより、歌謡曲分野に占める演歌の位置づけは相対的に低下している。
[倉田喜弘]
日本の民衆歌謡の一種。時代とともに定義は揺れ動くが,1890年代以降,流行歌(はやりうた)の一部につけられた名称。政治を風刺,告発する歌は江戸時代から数多いが,大部分は端唄(歌)(はうた),都々逸,数え歌の旋律である。自由民権運動が高揚した1880年代の歌,たとえば植木枝盛の《民権数え歌》や安岡道太郎の都々逸《よしや武士》,あるいは高知の盆踊歌《民権踊》などはいずれも旧来からの旋律で,そうした歌は演歌といえない。演歌の第1号は,川上音二郎作《オッペケペ》である。この歌は1889年に一枚刷の形で出版され,翌年京都の高座で川上が歌って大ヒット。また91年に壮士芝居の東上時には中村座で上演され,一躍東京でも大流行した。身辺の事例を歌った卑俗な内容が,民衆の共感を得たのである。そこで《オッペケペ》を歌本の形に作り,街頭で読売(歌本の内容を歌って,その本を聴衆に売ること)する壮士が現れる。一方《オッペケペ》を見習って,《滑稽腕力節》《ヤッツケロ節》《欽慕(きんぼ)節》などが壮士によって歌われたので,当初は〈壮士歌〉と呼ばれた。こうした歌の中には,演説まがいの主張を打ち出すものもあったので,いつのほどにか〈演歌〉という名称も生まれてくる。ところが日清戦争後は,政治的土壌や国内思潮の変化とも相まって激烈な歌詞は影をひそめ,月琴(げつきん)を携えた書生が男女間の愛情をテーマにしはじめた。〈書生節〉や〈演歌師〉という名称も一般的となり,新たに風紀や治安問題がかしましくなった。演歌は,硬派から軟派へと変わりはじめたのである。明治後期の著名なものに,神長瞭月(かみながりようげつ)作《松の声》《残月一声》,中林武雄作《不如帰(ほととぎす)》《夜半の憶出(よわのおもいで)》など,また大正初期の《カチューシャの歌》や,後期の《船頭小唄》《籠の鳥》の流行には,演歌師の力も見のがせない。添田啞蟬坊(そえだあぜんぼう)が社会主義的色彩を帯びた歌を作ったこともある。レコード,トーキー,ラジオの普及しはじめた昭和初期,街頭の演歌師はついに消滅した。最後まで健闘したのは石田一松だが,《時事小唄》と銘打った《のんき節》も,寄席の高座から訴えかけるにとどまった。
1960年代以降,演歌の持つ硬派的な一面はフォークソングや反戦・反核の歌に受け継がれた。一方,70年代におけるニューミュージックの台頭により,〈ヨナ抜き音階〉により,〈こぶし〉をきかせ切々と歌い上げられる従来の歌謡曲は大半が〈演歌〉と呼ばれだした。すなわち,明治後期の軟派的な路線が演歌の主流を占めたので,〈艶歌〉や〈怨歌〉とも表現されるようにもなった。
執筆者:倉田 喜弘
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…17世紀末に民族語によって書かれた最初の歴史長編詩《天南語録外紀》の流れを引くもので,グエン朝嗣徳11年(1858),《史記国語歌》の題名で伝わっていたこの書をレ・ゴ・カット(黎呉吉)らが校訂し,新たにレ朝の歴史を加えて《越史国語》1916行に改稿,その後これにファム・スアン・クエ(范春桂)が手を加えて《越史国語潤正》1887行の長編詩として成ったものに,さらにファム・ディン・トアイ(范廷倅)やファム・ディン・トック(范廷植)らが推敲や修訂を加えて2054行の長編詩として完成し,1870年に板刻された。一般に中国語の散文をベトナム語の韻文に訳すことを演音といい,その作品を演歌と称したが,当時,国を大南と号したところから《大南国史演歌》の名が付けられた。その韻律はグエン朝の演歌の中で特にみやびやかで明晰(めいせき)な語句を用いているものに数えられるが,本来,唱曲文芸としての性格をもつ演歌の中ではやや難解な作品とされる。…
… 今日の日本の音楽文化は,この脱工業化社会のパターンの典型になりつつある。今日の日本の音楽愛好家は,西洋のバロック音楽から現代音楽,日本の民謡や演歌,タンゴやモダン・ジャズなど,あらゆる時代のあらゆる音楽に接している。1981年にNHK放送世論調査所が行ったアンケート調査によれば,今日の日本人の好む音楽は,歌謡曲(66%),演歌(51%),日本民謡(40%),映画音楽(33%)という順で,西洋の芸術音楽(クラシック)の中の交響曲,管弦楽曲,協奏曲は第11位(15%)にランクされ,日本の伝統音楽の文楽・義太夫は,最下位の60位(0.1%)に入っている。…
…
[音楽的特徴]
楽曲構成やリズム,伴奏楽器の編成は,海外のポピュラー音楽の形式をとりながら,その旋律に日本の伝統的音感が根強く反映されている混血的性格をもつ。歌謡曲の音楽的特徴は,演歌あるいは艶歌といわれる古典的な歌謡曲に代表される。演歌は本来〈演説の歌〉という意味で,明治期の自由民権運動の産物である。…
…流行歌をはやらせる根本的な力は,それぞれの時期における国民感情で,封建時代の落書(らくしよ)のような世相批判的なユーモア文学もあるとともに,時事や社会事件あるいは社会的流行や流行語などから受けた衝撃的な印象をうわさ話のように伝えるだけの素朴な歌詞をもつものもあり,そのほか歌詞とはとくに関係なく新奇な節や言葉をたのしむものがあって,流行歌の歌詞をすべて世相の反映であるとか,大衆の生活上の欲求の表現であるとかいえない実例が多い。 〈演歌〉という名称の,世相批判的な歌詞をもつ流行歌を作りつづけた添田啞蟬坊(そえだあぜんぼう)などはむしろ特殊な例で,多くの流行歌は単に場当りをねらったものであり,新奇さのゆえに流行し,古くなれば葬られていくという程度の,積極的に世相を批判するのではなく,消極的に世相の波にただよって大衆にとりいったものというほうが真相に近い。 流行歌の形態は伝達の方法に大きく作用される。…
※「演歌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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