1876年(明治9)10月26日から11月3日にかけて福岡県秋月(朝倉(あさくら)市)に起こった士族の反乱。旧秋月藩士宮崎車之助(みやざきしゃのすけ)、磯淳(いそじゅん)、今村百八郎(いまむらひゃくはちろう)らは、かねてから国権拡張を主張して政府の諸政策に反対し、熊本の敬神(けいしん)党や山口県萩(はぎ)の前原一誠(まえはらいっせい)らと連携していた。1876年10月、敬神党の暴発(神風連(しんぷうれん)の乱)に接するや、宮崎ら士族二百数十名は、萩の前原らに合流しようとして兵を豊津(とよつ)(みやこ町)に進めた。しかし小倉(こくら)鎮台兵の奇襲にあい、英彦山(ひこさん)山中に退却、宮崎、磯らは解散を主張して自害し、今村ら50~60名はなおも秋月地方に転戦し、多くは捕らえられた。1873年(明治6)の征韓論争の破裂(明治六年の政変)以後、有司(ゆうし)専制に反対して各地で激発した士族反乱の一つである。
[猪飼隆明]
『『西南記伝 上巻2』(1908・黒龍会本部)』▽『後藤靖著『士族反乱の研究』(1967・青木書店)』
1876年,福岡県秋月でおこった士族反乱。同年の熊本・神風連の乱,前原一誠の萩の乱とともに,明治政府の政策に保守士族の立場からなされた抵抗のひとつ。秋月党の主張は主として国権の拡張にあり,とくに〈征韓〉問題に対する政府の処置に反対した。福岡県士族(旧秋月藩士)宮崎車之助,今村百八郎(宮崎の実弟),磯淳らは,神風連の挙兵(10月24日)を知り,10月27日,約250名(400名とも500名ともいう)で立ち上がり,豊前豊津に入り,旧小倉の士族を強誘して萩の前原軍(10月28日挙兵)と合流を企図した。しかし,小倉の士族は呼応せず,福岡・小倉の政府軍にほどなく鎮圧された。福岡臨時裁判所(裁判長巌谷竜一)は,12月3日,捕縛された384名のうち,今村と益田静方の2名を斬罪に処し,19名を除族懲役,124名を除族,1名に贖金(あがないきん)を命じたほかは無罪とした。当時,西下した司法卿大木喬任(たかとう)も,この判決の場に列席し,政府の権威を示した。
執筆者:田中 彰
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1876年(明治9)10月に福岡県秋月(現,朝倉市)でおきた士族の反乱。1873年の征韓論による政府の分裂後,征韓と国権拡張を主張する元秋月藩士宮崎車之助・磯淳(いそあつし)らは一派を結成し,熊本敬神党(神風連(じんぷうれん))や萩の前原一誠(いっせい)らと意を通じていた。76年10月24日神風連の乱勃発が伝わると,27日秋月で約230人が挙兵,豊前豊津(現,福岡県みやこ町)に進んで不平士族の結集をはかったが失敗した。小倉鎮台兵の出動で宮崎ら幹部は自刃し,乱は鎮圧された。
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