郷誠之助(読み)ゴウセイノスケ

デジタル大辞泉 「郷誠之助」の意味・読み・例文・類語

ごう‐せいのすけ〔ガウ‐〕【郷誠之助】

[1865~1942]実業家岐阜の生まれ。東京株式取引所理事長・日本商工会議所会頭などを歴任

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精選版 日本国語大辞典 「郷誠之助」の意味・読み・例文・類語

ごう‐せいのすけ【郷誠之助】

  1. 実業家。男爵美濃国岐阜県出身同志社大学東京大学に在学後、ドイツ留学。日本商工会議所会頭などをつとめ、財界に重きをなす。貴族院議員。第一次近衛内閣の内閣参議。慶応元~昭和一七年(一八六五‐一九四二

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改訂新版 世界大百科事典 「郷誠之助」の意味・わかりやすい解説

郷誠之助 (ごうせいのすけ)
生没年:1865-1942(慶応1-昭和17)

明治・大正・昭和期の実業家。岐阜出身の大蔵官僚郷純造次男で男爵を襲爵。東京英語学校,同志社,東京大学法科選科に短期在学。のちドイツで約8年間の遊学生活を送り,経済学でハイデルベルク大学の博士号を取得して1891年に帰国。92年農商務省に入ったが,95年に日本運輸会社社長となって実業界に第一歩をふみだした。王子製紙整理などで手腕を発揮し,しだいに財界の世話役的存在になっていった。1911年に貴族院議員に当選,東京株式取引所理事長にも就任,その後,日本工業俱楽部専務理事,日本経済連盟会常務理事,東京商工会議所会頭,日本商工会議所会頭,全国産業団体連合会会長を歴任し,団琢磨暗殺ののちには日本経済連盟会会長に就任した。渋沢栄一井上準之助,団琢磨なきあとの昭和初期財界の大御所として政界にも影響力をもった。大正中期ころから若手実業家を麴町上二番町の私邸に招く月例の番町会を催していたが,これが,帝人事件の舞台として喧伝された。36年に引退を声明して経済団体・会社の役職から退いたのちも,内閣参議,中央物価統制協力会議議長,経済団体連盟会長,大政翼賛会顧問,大日本産業報国会顧問,重要産業統制団体協議会会長などに就任し,戦時経済体制の強化に尽力した。
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20世紀日本人名事典 「郷誠之助」の解説

郷 誠之助
ゴウ セイノスケ

明治〜昭和期の実業家,財界人 日本経済連盟会会長;日本商工会議所会頭;貴院議員。



生年
元治2年1月8日(1865年)

没年
昭和17(1942)年1月19日

出生地
美濃国岐阜(岐阜県岐阜市)

学歴〔年〕
ハイデルベルク大学

学位〔年〕
哲学博士

経歴
明治17年ドイツに留学、7年余、ヘーゲル、ミルなどを研究。23年帰国後、農商務省の嘱託。28年日本運送社長となり、その再建を果たす。その後、日本メリヤス取締役、日本鋼管社長、入山採炭社長、王子製紙取締役などを歴任し、いずれも再建に成功。王子製紙では新聞用紙の国産に成功するなどその手腕が高く買われた。43年日本醬油醸造経営には失敗したが、44年東京株式取引所の理事長に就任。大正2年東京商業会議所特別議員、6年日本工業倶楽部の創立に参加し専務理事、11年日本経済連盟会常務理事、昭和5年日本商工会議所会頭。その後東京電燈の整理も手がけた。内閣参議、大蔵省顧問のほか、全国産業団体連合会、日本経済連盟会、日本貿易振興会の各会長を兼任。財界の集まり番町会の親分的リーダーであった。父の死後男爵を襲爵、明治44年から終生、貴院議員を務めた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「郷誠之助」の意味・わかりやすい解説

郷誠之助
ごうせいのすけ

[生]慶応1(1865).1.8. 岐阜
[没]1942.1.19. 東京
実業家。男爵郷純造の次男に生れる。同志社英学校,東京大学などに入学したが,1884年ドイツへ留学。 91年帰国後は一時農商務省に勤めたが,95年経営難に陥っていた日本運輸社長に就任,さらに入山採炭社長 (1900) となり,両社の再建に成功。ほかにも 1902年王子製紙,08年帝国商業銀行の整理を手がけるなど財界の世話役として活躍。 11年東京株式取引所理事長に就任,24年辞任するまで取引所の改革に努力した。 27年の金融恐慌に際しては十五銀行,川崎造船所,東京電灯などの整理にあたり,以後も日本郵船と東洋汽船の合併斡旋,官民製鉄所合同の推進に指導的役割を果した。またこの間に財界組織の強化を主張して各種団体の設立に参加,17年日本工業倶楽部専務理事,30年東京商工会議所・日本商工会議所会頭,32年日本経済連盟会会長などを歴任。また 10年貴族院議員に当選して以後終生連続当選,政府の各種委員会委員もつとめた。 36年実業界の第一線から退いたあとも北支那開発,大日本航空などの国策会社設立委員長,37年内閣参議・大蔵省顧問,40年大政翼賛会,大日本産業報国会顧問などをつとめ,政財界に大きな力をもっていた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「郷誠之助」の意味・わかりやすい解説

郷誠之助
ごうせいのすけ
(1865―1942)

実業家。男爵郷純造(じゅんぞう)の次男。美濃(みの)国黒野村(現岐阜市)生まれ。1882年(明治15)東京帝国大学法科に入学したが、まもなくドイツに留学、91年帰国。農商務省勤務後、95年日本運輸社長となり、以来、入山採炭など経営不振企業の再建に成功して手腕を認められた。1911年(明治44)東京株式取引所理事長に就任、以後13年間同所の改革に尽力した。この間、日本工業倶楽部(くらぶ)専務理事、日本経済連盟会常務理事を務めた。その後、日本郵船と東洋汽船の合併斡旋、十五銀行、川崎造船所、東京電燈(でんとう)などの整理、官民製鉄所合同の推進を行った。30年(昭和5)東京商工会議所会頭となり、日本商工会議所会頭を兼ねた。渋沢栄一死後の財界の大御所といわれた。

[小早川洋一]

『郷男爵記念会編・刊『男爵郷誠之助君伝』(1943)』『野田礼史著『人間――郷誠之助』(1939・今日の問題社)』


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百科事典マイペディア 「郷誠之助」の意味・わかりやすい解説

郷誠之助【ごうせいのすけ】

実業家。美濃(みの)国方県(かたがた)郡出身。父の純造は大蔵次官。同志社・東大に学び,ドイツ留学後,農商務省に勤務。1895年日本運輸会社社長として財界に入り,以後多くの会社に関係,不良会社の整理に活躍し財界世話業と称された。東京株式取引所理事長,日本商工会議所会頭,近衛内閣参議などを歴任。渋沢栄一井上準之助団琢磨なきあとの財界大御所として政界にも影響力をもった。
→関連項目番町会

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「郷誠之助」の解説

郷誠之助 ごう-せいのすけ

1865-1942 明治-昭和時代前期の実業家。
元治(げんじ)2年1月8日生まれ。郷純造の長男。ドイツ留学後,明治28年日本運輸,33年入山採炭の社長となり,会社再建をはたして経営手腕をみとめられる。44年東京株式取引所理事長,昭和5年日本商工会議所会頭となるなど,財界のリーダー役をつとめた。貴族院議員。昭和17年1月19日死去。78歳。美濃(みの)(岐阜県)出身。

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367日誕生日大事典 「郷誠之助」の解説

郷 誠之助 (ごう せいのすけ)

生年月日:1865年1月8日
明治時代-昭和時代の実業家。日本運輸社長;日本商工会議所会頭
1942年没

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