塩田城(読み)しおたじょう

日本の城がわかる事典 「塩田城」の解説

しおたじょう【塩田城】

長野県上田市にあった鎌倉時代から戦国時代にかけての山城(やまじろ)。戦国時代には北信濃最大勢力であった村上氏の支城の一つで、村上氏の信濃国(長野県)の最後の拠点となった城でもある。同市の塩田盆地の南、独鈷山(標高1266m)の山麓に位置する弘法山の山域全体を城域とした信濃の中世の山城の中でも有数の規模を誇った。この城のあった付近は、かつて信濃国府の置かれていた中心地で、鎌倉時代の1277年(建治3)ごろ、鎌倉幕府の執権の北条時宗の連署を務めていた北条義政が隠居した際に構えた館が塩田城の起源といわれている。以後、塩田城は3代にわたって塩田北条氏の居城となったが、1333年(元弘3/正慶2)に、新田義貞が武蔵国の関戸で北条高時と戦った際に、塩田北条氏の当主の北条国時・俊時父子は幕府軍の一員として従軍し、その後、鎌倉の東勝寺で北条得宗家一門とともに自刃し、塩田北条氏は滅亡した。1335年(建武2)、関東を差配した足利尊氏の弟の足利直義が、鎌倉幕府討幕の軍功として塩田領を村上信貞に与えて以来、塩田城は村上氏の城となった。同城は村上氏の軍事拠点の一つとして、1548年(天文17)の上田原の合戦や1550年(天文19)の武田氏の戸石城攻め(いわゆる戸石崩れ)の際、武田氏を撃退するのに重要な役割を果たした。1551年(天文20)、甲斐の武田氏の攻勢越後に逃れた村上義清が越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)の支援を受けて反攻して旧領回復を果たし、この城に籠もったものの、わずか3ヵ月後に武田氏の攻撃で落城した。義清は行方不明となり、北信濃の村上氏の勢力は駆逐されて、武田氏の勢力圏となった。同城を攻略した武田晴信(武田信玄)はその直後、塩田城に本陣を敷いて、川中島に進出した長尾景虎の軍勢と対峙した(第一次川中島の合戦)。その意味では、5次にわたる武田信玄と上杉謙信の川中島の合戦の端緒となった舞台の一つである。信玄は飫富虎昌を城将として配置し、以降、塩田城は武田氏の城となった。1582年(天正10)に武田氏が滅びると、真田昌幸の支配下に入ったが、翌1583年(天正11)に、昌幸が上田城(上田市)を築城し居城を移したのに伴い、廃城となった。現在、かつての城域はそのほとんどが山林化しており、土塁や堀跡、虎口付近をはじめ点在する石垣や曲輪跡などの遺構も残っているが整備は進んでいない。かつての城郭の主要部分に通じる入り口の空堀の遺構近くに「塩田城跡」の石碑が建ち、また観光施設として建てられた塩田の館には、1975年(昭和50)ごろに行われた調査の発掘品や復元想像図などが展示されている。上田交通・別所線塩田町駅から徒歩約30分(登山口まで)。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報